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僧侶はブルシット・ジョブか

NYC行きの飛行機で読んだ『デモクラシー・プロジェクト』ですっかりファンになってしまった人類学者でアナキスト(アナリスト、ではなくて、アナーキスト、無政府主義者の方)のデヴィッド・グレーバー。彼の最新作が『ブルシット・ジョブ〜クソどうでもいい仕事の論理』

面白すぎて、一気読み。自分の仕事に違和感を持つあらゆる人に、心からオススメしたい。原書は2018年だが、図らずも日本語に翻訳・出版されたタイミングである今のコロナ下に読むと、内容はいっそう妥当性を増しているように思う。

グレーバーは「ブルシット・ジョブ(Bullshit Jobs)」という問題の出発点を、こう説明する。

「1930年、ジョン・メイナード・ケインズは、20世紀末までに、イギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろう、と予測した。彼が正しかったと考えるには十分な根拠がある。テクノロジーの観点からすれば、これは完全に達成可能なのだから。ところが、にもかかわらず、その達成は起こらなかった。かわりに、テクノロジーはむしろ、わたしたちすべてをよりいっそう働かせるための方法を考案するために活用されてきたのだ。この目標のために、実質的に無意味(ポイントレス)な仕事がつくりだされねばならなかった。とりわけヨーロッパや北アメリカでは、膨大な数の人間が、本当は必要ないと内心考えている業務の遂行に、その就業時間のすべてを費やしている。こうした状況によってもたらされる道徳的・精神的な被害は深刻なものだ。それは、わたしたちの集団的な魂(コレクティヴ・ソウル)を毀損している傷なのである。けれども、そのことについて語っている人間は、事実上、ひとりもいない」

なぜ、僕らはこんなに忙しいのか。なぜ仕事がこんなに息苦しいのか。その背景として、労苦を人間の成長に不可欠な美徳とするピューリタニズムとか、人々が暇になると革命だとかロクなことをしないから忙しくさせておいたほうがいいと考える資本家の論理とか、色々あるだろう。そのあたりの背景についてもグレーバーはかなり包括的に議論しているが、人類学者らしく自分の経験を基にしながら、兎にも角にも多くの人のインタビューを重ねて、まずはブルシット・ジョブを5つに類型化した。


ブルシット・ジョブの主要5類型

1 取り巻き
だれかを偉そうにみせたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事
2 脅し屋
雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素をもち、そのことに意味が感じられない仕事
3 尻ぬぐい
組織のなかの存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事
4 書類穴埋め人
組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事
5 タスクマスター
他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシット・ジョブをつくり出す仕事

どうだろう。自分の仕事や、周囲の仕事、あるいは働いている会社の状況、もしかしたら働いている業界そのものに、誰しも思い当たる節があるのではないだろうか。

「ブルシット・ジョブ」のニュアンスがわかるだろうか。どういう仕事が「ブルシット・ジョブ」なのかは最終的には本人の主観なので、厳密には職業名でリスト化することはできないが、一つ大事なポイントは、「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ(割に合わない仕事)」は異なる、異なるどころか全く反対に位置付けられる、ということだ。

本書に出てくる典型的な「シット・ジョブ」は、清掃人や、ベビーシッターや、看護師といった、「ケアリング仕事」だ。この人々は、社会や生活を維持するのになくてはならない仕事であり、もし明日からいきなりその仕事をする人が消えてしまったら、たちまち社会が立ち行かなくなるような、そういう仕事だ。だから、やっている本人たちも、やりがいを感じて仕事に取り組んでいる。しかし、この倒錯した世界では、なぜかそういった仕事に就いている人ほど、給料が低い(割に合わない)状況に置かれている。

その反対に、もし明日からいきなりその仕事をする人が消えてしまっても、僕らの社会や生活にはほとんど影響がなさそうな仕事が、グレーバーのいう「ブルシット・ジョブ」だ。職業・業種レベルでは、企業の顧問弁護士や、銀行、コンサルタントなどが挙げられている。この倒錯した世界では、不思議なことにブルシット・ジョブに従事する人の方が、社会的地位が高いこととなっており、高給を取っている。本人たちが薄々感じている「自分の仕事は本当は無くなってしまっても社会に何の影響もない。むしろ害をもたらしている」という不安や不満を、まるで高給によって埋め合わせるように。

職種そのまま丸ごとブルシット、という場合もあるだろうが、同時に現代は「あらゆる職種のブルシット化」も進んでいる。大学教員が本来当たるべき研究活動や学生指導にかけられる時間が減り、膨大な量の書類穴埋め人と化してしまっているという話は、典型的なブルシット化の例だ。同じようなことは看護師や保育士にも起こっているし、脱ブルシット化が進む職種を見つけるのは困難だ。

現代は工業化社会から、サービス産業社会へと移行した、と言われる。それだけ聞くと、「人間をケアする仕事が増えたのだから、さぞ住みやすい社会になったのだろう」と思われるかもしれない。しかし、このサービス業には、コンサルタントなど、実に広範な仕事が含まれる。「実質的に無意味(ポイントレス)な仕事」が無数につくりだされ、それらの多くがサービス産業という名のガラクタ箱に放り込まれたに過ぎないということだ。

解決策の一例として、労働と生活の糧を分けるベーシック・インカムも取り上げられるが、基本的には全編を通じてひたすらブルシット・ジョブについて、行動するアナーキー人類学者、グレーバーらしい刺激的な議論が展開されている。

自分の人生を振り返ってみると、本書に出てくる数多の「ブルシット・ジョブ」の証言人たちの話は、よくわかる。

親のお小遣いでも親戚のお年玉でもなく、僕が人生で一番最初にお金を稼いだのは、確か小6か中1の頃に1年間くらい続けた、新聞配達だ。特に家が生活に困っていたというわけではないのだが、新聞配達をしているというクラスメイトが月に2万円稼いでいるという話を聞いて、自分もやってみたくなったのだ。朝5時に起きて、眠い目をこすりながら新聞屋さんへ向かい、そこから実働1時間。150軒くらいだろうか。夏も冬も、雨の日も風の日も、淡々と続けた。給料でウォークマンを買ってからは、カセットテープで音楽を聴きながら配達をした。真冬の猛吹雪の時は、息ができなくて死ぬかと思った。特にドラマチックなことは起こらなかったが、正月にお年玉ボーナスとして5,000円をもらったような気がする。

新聞配達は、子供にしては割に合わない仕事というわけでもなかったし、仕事そのものにそれなりの充実感があった。まだ誰も起きていない時間帯に頑張って早起きして、みんなが読むのを楽しみに待っている新聞を、坂を上り下りしながら駆け足で配るのだ。いつも早起きしているおばあちゃんとは「おはよう」を言い合ったりもする。テンプルモーニングの原点はここにあったのか、と今振り返って思うくらい、ウェルビーイングに良い要素が詰まっている。僕がいなくなれば、みんなが困ることは間違いない。

もちろん「お前の代わりなど、いくらでもいる」ということもわかっている。現に、半年もやると早起きがきつくなってきたので、一緒にやってくれる友人を見つけて、二人で仕事をシェアすることにした。最初、友人に対してタスクマスター化しかけたが、気を取り直して隔日で配達し、一年間はやり遂げた。その後に誰が代わったのか知らないが、あらかじめ辞める時期を伝えてあったし、特に問題は起きなかったと思う。それでもやっぱり、自分が新聞を配っている時に感じていた充実感は、グレーバーのいうケアリング仕事に通じるものだったはずだ。

その後、学生時代にITベンチャーや国会議員事務所でバイトをしたり、ウェブデザインで個人事業をやったり、いろいろするようになり、ブルシット世界も垣間見るようになった。その後、出家して18年、今に至る。

さて、この本から一つ浮かんだことは「僧侶はブルシット・ジョブか」という問いだ。ブルシットという視点から僧侶の仕事を見てみると、とても面白いことが見えてくる。

一つ一つのアクションは、ブルシットどころか、その対極にある。僧侶というのは死者も含めて徹底的に人に接するケアリング仕事である。グレーバー的に言えば、もっとも充実感を得られる(その代わり報酬は少ないかもしれないが)種類の仕事であり、ましてや人のケアの中でも魂のケアの領域に関わるのだから、ブルシットなものになりようがない。

しかし、一歩引いてみると、まったく逆の見方もできる。取り巻きを置いて偉そうに見せたり、死後の世界のことをしたり顔で語って脅したり、人の死に際して長年の慣習として絶対に必要な手続きであるかのように儀礼を押し付けたり、一人一人の僧侶がそのような悪を故意にはたらいているわけではないにせよ、業界全体として作り上げてしまったこのシステム丸ごとに、ブルシット感がまったく漂っていないとは言い難い。

そうでなければ、「なぜ、お葬式にお坊さんが必要なのか?」「お墓は本当に必要なのか?」といった議論は出てこないだろう。それらの問いが広く社会に共有されることは、業界丸ごとブルシット化しているわかりやすい証拠だ。

思うに、僧侶というのは、本人の心持ち(それを信心と呼ぶ人もいるだろう)次第で、最高度にやりがいのあるケアリング仕事にもなれば、比類なき最悪のブルシット・ジョブにもなるということではないだろうか。どんな仕事でもそうといえばそうだが、お坊さんという仕事の振れ幅ほど大きいものもないかもしれない。ブルシットには「欺瞞的な」というニュアンスも含まれる。そこに神仏を見出すからこそ僧侶は魂のケアリング仕事になるわけで、神仏から気持ちが完全に離れた状態で欺瞞的に僧侶をしていれば、それは相手にもブルシット感が否応なく伝わるだろう。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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