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「僧堂」をつくりたい

昨年から取り組んでいる産業僧事業(Interbeing LLC.)では、僧侶が企業や働く人々と対話を通して関わるなかから、どのような自他の抜苦与楽が現れるかを、データサイエンスの視点を交えて探ってきた。

そこに、いわゆる「宗教」として何らかの枠に「取り込もう」とする要素はない。「spiritual but not religious 」(霊性やスピリチュアリティへの敬意・関心はあるが、特定の宗教の信者になることに関心はないという、世界で見られる人々の意識の変化)の時代に、メンバーとして所属させたり、儀式や禊をもって承認したりと、人の精神性や存在を何らかの枠に固定しようと力む時代は終わろうとしている。

仏教が本質的に伝えるのは、この世の成り立ちと、この世を生きる僕ら人間の姿、そして、人生を通して経験する気づきや成長にまつわる「叡智」である。それらをいかに咀嚼し、学び、翻訳をして共有するか。その過程で一人一人のウェルビーイング、ひいては組織の、社会の、世界のウェルビーイングが満たされてゆく道が、仏教の素にある自他の抜苦与楽であって、その実践の場の一つが産業僧事業である。このとき、状態は決して個人に帰結するものではない。すべての存在は関係し合って成り立つこの世において、変化や成長は関係性(ご縁)のうえに起きていくもの。個人の元に起こる変化、変容でありながら、ウェルビーイングは「ともに」満たされていくものであることを仏教は必然と捉えている。個をみて「採点」できるものではない。

産業僧対話で話をする相手の方は、企業の社員の方、パートタイムスタッフの方、業務委託を請け負うフリーランスの方、経営に携わる方々と、立場や背景は実に様々だ。ここに至るまでの苦労や経験も多様であって、その尊さは比べられるものではない。傾向をあえて挙げてみるならば、リーダー的な立場にある人の多くは、家族や部下といった身近な他者から、会社、社会、地球、更にはご先祖といった目に見えない存在まで、他者を主語にした話に触れていく傾向にあるのが特徴だろうか。「それらに対して自分がどうあるべきか」という視点から、自身のあり方を捉えているとも言えるだろう。

こうして、自分の体験を遥かに超えた、様々な人生を生きてこられた方々を前にして、どのような対話が自他の抜苦与楽となるのだろう。

関わる仕事の質によっては、常に差し迫る競争や評価に身を晒し、「勝ち続ける」ことを課されることも多いだろう。望むと望まざるとにかかわらず、そうした勝負に挑み続ける。もしも「コーチング」が、いかに目標に到達するかの道のりを共に考え、伴走する枠割であるならば、そして「産業医」や「カウンセラー」が、その道のりを肉体面、精神面から支えケアする役割であるならば、産業僧との対話は、そもそもの競争・比較の価値観を超えたところへと、身を投げ出してゆく時間である。身動きを取れなくしている「こうでなくては」という倫理観や、「〜のために」と信じる目標、身を守るためにも背負った役割の数々から放たれて、すべての荷物をいったん降ろす。対話を機に、そのまま手を放しても、再び背負い直しても構わない。必要なのは、解かれた自身の姿に気づくこと。その先は、その人なりの道が続いている。

そうした場は、お互いの記憶や感情が絡みあう身近な他者より、利害関係のないTrusted Stranger(信頼感のある、見知らぬ人)によって誘われやすいものかもしれない。その時大切なのは、対話する僧侶自身が「自我を離れていく」ベクトルにある(=自分の仏道を歩んでいる)ことに尽きるだろう。僧侶自身がしなやかにあり、客観的な物差しから離れていること。相手を前に気後れするのは自我の成すところであって、「いいお坊さん」に見せる必要はもちろんのこと、そうある必要すら本当はない。

産業僧対話を重ねてきた身として、こうした対話の学びの場、「対機説法」を研鑽する「僧堂」をつくりたい。対機説法とは仏教用語で、相手の素質や状態に応じて法を説くこと。ブッダは、相手が歩む道のりやその様子に合わせて、それぞれに最も相応しい方法で相手の苦しみを和らげ、自らの気づきへと導いた。

産業僧対話がそうした対機説法の場であるならば、対話に臨む時、僧侶は僧侶でありながら、僧侶である必要はなく、自らを忘れて目の前の相手と共に仏道に立つのみである。行でもある対機説法を、自ら学び深めたい。そうした僕自身の思いを起点に、今、研鑽の場としての「僧堂」の仕組みを考え、具体的な準備を進めている。

日本仏教の各宗派には、一般的にいう社内研修や研修機関ように、宗派毎に異なる法話や読経、思想を学ぶ僧侶育成の場が設けられている。しかし対話については、檀家さんとの会話や法要の場など、僧侶の日常にある要の行であるにもかかわらず、これまであまり主題化されてこなかった。僕は僧侶となって以来、「お寺のマネジメント」や「掃除」といった超宗派の取り組みを探ってきたけれど、「対機説法」もまた、宗派を超える要素であり、その研鑽の場は必要とされているだろう。

「僧堂」は、「産業僧事業の充実のため」「産業僧育成のため」ではなく、事業とは独立した場を考えている。松本紹圭が、ひとりの僧侶として案内人となり、自ら呼びかけ、場を開き、皆さんにお声がけをしていきたい。試行錯誤しながらの道のりを、人生を通して多くの対話を重ねてこられた先輩方の力をお借りしながら、共に学び合う機会をつくりたい。

これまでの産業僧対話は、何一つとして「型」のないなか、それぞれの僧侶の仏道を尊重したありようで取り組んできた。それは、今後も変わらない。一人一人の僧侶が、その人なりの仏道に立っていることが、何よりの価値の源泉である。


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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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