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カルト性と生きていく

先日、宇野常寛さんが新たに始めたオンラインゼミにお呼びいただいて、久しぶりに対談をした。今、宇野さんが最も話したいというテーマは「政治と宗教/社会とカルト」。僕もまさに、言語化したいと思っていたテーマだった。

▼【ハイライト動画】宇野常寛ゼミ 緊急特別対談「政治と宗教/社会とカルト」松本紹圭×宇野常寛


宇野さんは、オウム真理教がかつて高校生だった僕らに残した問いを発端に、政治思想とは異なるアプローチで "僕と僕ら" のことについておしゃべりをする同世代の友人だ。今回も、気づかされることの多い貴重な2時間半だった。宇野さんとはこれからも折りをみて、こうした時間を共にしたい。

安倍首相暗殺のいたましい事件を契機に、旧統一教会と政治の癒着、さらには、そのカルト性が生み出す問題の深刻さに世間の注目が集まっている。新興宗教のカルト性に日本社会がこれほど目を向けるのは、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件振りのことである。この四半世紀の間には、自らの存在を問う人間の根源的な苦しみが、(宗教に限らず)なんらかのカルト性の内に正気を失い、自他の破壊をもって存在証明をするような事象が、無数にあったように思う。大きなニュースとなる場合もあれば、人知れず孤独の中で、声を上げられぬまま起きてきたことでもあるだろう。

今回の旧統一教会においては、そのカルト性を機能させるものとして「霊感商法」が問題視されている。霊感商法とは言ってみれば、「人生が思うようにいかない」原因をご先祖様にみて、現世利益を投じること(献金)をもって身を捧げることが供養になるというロジックが肥大化したものとも言えるだろう。そこに迫る圧倒的な絶望感は、「わたし」の人生の苦しみに、果てない死者が巻き込まれ続けることにある。死者とは、誰もがそれぞれに内面化して共存している存在であり、そこには本来、説明や定義づけと言った言語化は必要ない。そうした、人それぞれの内側で尊重されるべき領域にまで手を突っ込んで、暴力的なまでにぐちゃぐちゃにしてしまう仕組みが「霊感商法」にはある。

人間本来の弱さや苦を取り込みながら先鋭化されるカルト的組織が、時の権力や政治と癒着し、それを支える構造は現代に始まったことではない。伝統的な日本仏教も、あらゆる執着から離れていくことを基本の教えに備えつつ、ある種のカルト性を発揮して存続してきたのも事実だろう。仏教が権力をもち、僧侶が政治を司ることもあれば、軍隊を成した歴史もある。それでもなお、鎌倉時代から「宗教」として存続し続けてきたのは、さまざまな矛盾や分裂を含む一種のカオス的ありようが、そこに醸成されてきたからかもしれない。もはや、新興宗教にみられるような「一糸乱れぬ」組織とはなり得ない「つかみどころのなさ」「毒にも薬にもならないあいまいさ」が安全弁となってはたらいて、カルト性を先鋭化させない機構となっているようにも思う。


そもそも、仏教の人間観は、その本性にカルト性をみている。

僕ら人間は、仏のように、自我から完全に離れることは到底できない。それゆえ自然(じねん)に任せられずに、自分自身や周囲とのバランスを容易に崩す。そうしてなんらかの依存先、つまりはカルト的信仰を伴う対象に身を投じることで、なんとか安心を得ようとする。僕らは、ある種のカルト性をもってなんとかバランスを取ろうとする生命なのだ。

ブッダが「愛」からも離れているよう諭すのは、「愛するな」ということではない。この世を創造する愛さえも、苦しみを抱え込むカルトになり得ることを僕らに知らせている。そうした性質をもった「生」であることを知っていることが大事だという。酒も食も性愛も、メディア、教育、商売、戦争、あなたのため、世界のためーーー人間の本能から、社会システム、技術革新、利他の精神までもが、気付かぬうちに、自らをカルトに引き摺り込んでしまうのだ。

そのように、放っておいたらおのずとまとわりつく多種多様なカルト性を、終わりなく掃除するのが日々の「戒律」であり、坐禅であり、読経という「行」だった。ここでいう戒律とは、人間を縛り上げるものではなく、時に自らの精神や肉体を狂わせ得るカルト性から身を守り、正気を取り戻すための習慣である。読経で声にして響かせる経典の数々は、一人一人に応じた最適な対話をもってそのカルト性を抜いてきた、2500年にわたる対機説法の「説法集」ともいえよう。


まずは、「わたし」とはそういう存在であることに、僕らそれぞれが気がつきたい。一人一人が目を覚まし、自身と身の回りの掃除を続け、社会という仕組みの中にも掃除を組み込む。(掃除とは、藤原辰史さんの言葉を借りて「分解者」と表現してもいい。)ブッダは、そうした一才の執着から離れていくベクトルにあることを仏道に示したが、執着しようとしてしまう自我を持ち合わせた僕らのことを、誰一人として見捨てはしない。すべてはつながりあった無分別のこの世でありながら、物理的な個の肉体をもった僕らは、絶対的な孤独を抱えた存在でもある。それゆえ、サンガ(仲間)と共にあってこそ、仏道は果たされていくとブッダはいう。この身にあらわれ続けるカルト性を剥がし続けることは、並大抵のことではない。閉じられた関係性の中においては、気づくことすら難しく、むしろ強化し合うことにもなりかねない。正気と正気を失っている状態の境目は、開かれた他者との交流の中ではじめて気づけたりする。

現代社会の多くの場面で、僕らは、人間と、人間の織りなす人間模様ををみて自他の「価値」や「意味」を見出して生きている。「私は○○として価値を生んでいる(存在する意味がある)」。そう「わかる」ことで世界を理解し、なんとか存在の居場所を見つけようと誰もが必死だ。しかし、「わかる」ことで判断する世界の解像度はあまりに粗雑で、実際は、それでは到底ものごとは完結しない。「わかる」に輪郭を与えるのは、その地にある「わからなさ」であり、明確に思える「わかる」さえ、変わり続ける捉えようのない現象である。

人間と、その社会が形成する善悪の審判や、存在の価値や意味。それが機能する次元に僕らは生きていながらも、同時に異なる次元を生きている。見えないものや、わからないものへどれだけまなざしを向けられるかが、大事な「手がかり」のように思う。いかなるありよう(生涯)であっても、「それでもなお、あなたは救われる」という仏のまなざしは、「それでもなお、生まれてきてよかった」という当人の実感と、「それでもなお、あなたと出逢えてよかった」というご縁の実感と共にある。万物は、全体の一部として巡り続けるこの世において、存在(地上に生まれたこと)は根源的に祝福されているという源へと、立ち返る意識を忘れずにいたい。

カルト性のある社会から「出家」しようとするその先に、新たなカルト性が待ち受けるこの世において、対機説法を通して魂の根源に立ち返る精神的「出家」の機会をつくっていきたい。

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