見出し画像

「先祖から祖先へ」の転換と、新しい日本的コモンズ


ヒューマン・コンポスティングというテーマがなぜこんなにも自分の心を捉えたのか。よくよく考えてみると、それは「コモンズ」に関する問題意識につながることが、段々と見えてきた。

近年、「コモンズ」という言葉を見かけることが増えている。コモンズとは、一言でいえば、共有財だ。ある財が共有されるということは、その財が「私の財」でも「あなたの財」でもなく、「私たちの財」として成立しているということだ。そこで出てくる問題は、「私たち」とは誰か、ということ。コモンズに関する世界的な議論で、よく引き合いに出されるのが、かつて日本の山村で成立していた「入会地」だ。村や部落などの村落共同体を成立させるため、総有した土地のことを指す。


さて、翻って今日、僕らの日常生活の中のどこに、このようなコモンズを見出すことができるだろうか。最も身近で、そしてもしかしたら現存する唯一のものかもしれないのが、「家族」だと思う。

市場の領域が進入しない領域を共同体と言っておりますので、現在でも家族の中では市場原理は入らないはずです。家族の中で夫と妻ないしは親と子どもの間で労働を提供しろと、その代わりに賃金を払う、というようなことは行われない。そういう市場原理のようなものが動いたら、定義上、共同体ではないということになるわけです。

参照元:神野 直彦(東京大学名誉教授)講演録
『社会的共通資本としての医療・再論 』
https://www.med.or.jp/dl-med/nichikara/isei/isei27_2.pdf

近代の日本のお寺は、檀家制度という「イエ」の枠組みを基盤として成立してきた。「xx家 先祖代々の墓」と刻まれた家族墓が象徴するように、それは、近代日本社会に残されたコモンズの基盤である「イエ」の枠組みに支えられ、また、それを補強してもきた。しかし今、人々のイエ意識は急速に失われ、枠組みは風前の灯火となっている。

少子化社会では、絶家が増える。未婚の人。子供のいない人。あるいは、仮に配偶者や子供がいたとしても「市場の領域が進入しない領域」としてもはやその関係が成立していない人にとっては、「イエ」の枠組みを前提とした檀家制度や死者供養の仕組みは、重荷でしかない。

ヒューマン・コンポスティングの話は、肌感覚だが、特に女性に反応が良い。夫婦別姓などジェンダーの束縛からの解放が進む現代において、死後までイエの枠組みに属さなければならないなんて、まっぴらごめんという感覚はわかるし、そもそも未婚の人も増えている令和の今、なぜか死後だけが昭和の世界観のままで取り残されていることに耐えられない人は、多いと思う。自分もそうだ。

一人一人の生き方が多様化し、一人の人間がたくさんの別の顔を持つ現代に、なぜ死に際しては、「家族(=遺族)」という顔しか弔ってもらえないのか。お寺が「先祖から祖先へ」のシフトチェンジをすることで、誰もが誰をも弔える世界を実現する。「家族」という物語の賞味期限が切れつつある今、とはいえ何かしら物語がなければ生きていけないのが人間だから、そこで有効になるのが「自然に還る」という物語だろう。そこで最も有効な葬送法の一つとしての、ヒューマン・コンポスティングが浮かび上がってくる。

それは大量のガソリンを使う火葬に対する脱・化石燃料という特徴もあるけれど、もう一つの特徴として、個別具体的な「骨」というハードフォームでこの世に残るのではなく、すぐに分解され無限に拡散していく「土」というソフトフォームで自然の循環の流れに乗りたいという点も大きいと思う。現在、法律的にも死後の骨は祭祀継承者に扱いが帰属することが定められており、ほとんど必ずそれは遺族が引き受けることになっている。その点、「土」に還ることを願う気持ちは、少なからず、従来のイエ的な価値観からの解放を含んでいると思う。

そう考えると、自分の志向しているのは、具体的にはヒューマン・コンポスティングに代表されるような、従来の狭いイエ的な価値観によった葬送にとってかわる「新しいコモンズ葬」であるとも言えそうだ。



シェアリング・エコノミー然り、世界の流れは新しいコモンズの構築を必要としていることは明白だ。民主主義のアップデートにも、社会の一人一人がグローカル市民としての感覚を養うことが欠かせない。

日本でも新しいコモンズを作ろうと、色々な動きがある。

例えば、僕の友人も関わっている、Next Commons Lab。
そして民主主義をアップデートしようとする(株)グラファーも、その流れにあると思う。


しかし、僕が見る限り、日本の市民社会はヨーロッパのように、個々人が主体的に議論を重ねて新しいコモンズを創り上げていくことに成功しているようには到底思えない。かといって、西欧で成功したシステムをそのまま日本に輸入してきても、そのまま機能するわけでもないだろう。とりわけ日本では、「委ねる」ことに市民が慣れすぎている。


地域の村落共同体も解体してしまった今、「自分ごと」として主体的に関わろうとする共同体は、もはや家族という枠組みくらいしか残っていないのではないか。そして、それすらも今や風前の灯だ。

ならば逆に、最後にギリギリ残った「市場の領域が進入しない領域を共同体」である「家族」を手がかりに、死を「家族」から開放して「先祖から祖先へ」とその共同体感覚を開いていくことにより、新しい日本のコモンズを生み出す基盤となる文化を創造できるかもしれない。

日本の近代仏教は、葬式仏教、檀家制度、詰まるところは「家族教」だった。それが、日本的コモンズを支えたところもあるけれど、日本において家族以外のコモンズが発達するのを阻害した部分もあったかもしれない。

しかし、ここで改めて、仏教の伝統を見直してみたい。podcast「テンプルモーニングラジオ」(2020.4.20〜4.24 配信)で星覚が言っていたように、例えば永平寺では、修行僧たちの共同体が持つ文化を「家風(かふう)」と呼ぶ。血の繋がっていない雲水たちは、発心という共通項を持ってファミリーのような共同体を作るのだ。今日では世襲文化が強まって、お寺自体が血縁のイエに基づくコモンズを支える装置となってしまっていたが、今こそ、かつての血縁ではなく仏縁によって作るコモンズの揺り籠として、再起動すべき時ではないのか。



「独生独死独去独来」

人間は本来、絶望的に孤独な存在だ。その孤独は、家族であろうと何であろうと、自分の他に誰も埋めてくれる人はいない。生まれることも死ぬことも、自分の計らいを超えている。いのちは、私のものでも、家族のものでも、誰のものでもない。

その現実を覆い隠す「家族教」の補強システムとしての仏教の役割も終わりつつある今、お寺はむしろ、その現実を直視し、絶望を共有するところに生まれる希望の共同体が生まれる場所であってほしい。

コモンズは「私を超えた何か」のために生きる時に生まれるものであり、思えば日本でそれは多くの場合、死を介在させることで成立してきたのではないだろうか。死者の声に耳を傾け、自らの死を想うことは、目の前のパイのぶん取り合いを不毛にするからだ。

とはいえ、縁ある死者を、血縁の先祖に限定している限り、家族を超えたコモンズを築くことは難しい。しかし、それを逆手にとれば、血縁に限らない死者との繋がりを祖先として感じることができるようになれば、無理なくしなやかな日本的コモンズを再構築できるかもしれない。

先祖から、祖先へ。この視点の転換が、静かにひっそりと、お寺が家族教を含みこみつつもそれを乗り越えたところに成立する仏教的コモンズの揺り籠へと変容を遂げるきっかけとなることを、願っている。死が誰かのものであるかのようなシステムは、生も誰かのものであるかのような文化を助長してしまう。お寺にはそれを乗り越えてほしい。

そしてそこに、ヒューマン・コンポスティングをはじめとした「骨というハードフォーム」に縛られない代替葬送のあり方が、花を添えることになるだろう。



ここから先は

235字

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!