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カンファ・ツリー・ヴィレッジのはじまり

実はここ一年ほど、大きな大きな難問を抱えながら、水面下で仲間とともに試行錯誤を重ねていた。

いよいよ機が熟し、4/29にその「はじまりの集い」が開催されることとなったので、このタイミングで自分の思いを書いてみたい。

カンファ・ツリー・ヴィレッジ(武蔵野大学100年記念プロジェクト)

カンファ・ツリー・ヴィレッジ「はじまりの集い」
2023年4月29日(土) @京都・西本願寺

ゴールデンウィークの4/29(祝・土)、プロジェクトのキックオフとなる「はじまりの集い」を開催します(京都・西本願寺、親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年慶讃法要における協賛行事)。「ブッダ・ダルマ」に馴染みのない方にも、その意義に触れるきっかけを作れるよう、「いかにして私たちはよりよき祖先になれるか」の問いをめぐって、さまざまな国や分野で現代社会の課題に取り組むリーダーの方々に登壇いただきます。
ブータン王国のケザン・チョデンT・ワンチュク王女殿下はじめ、他ではなかなか聞けない海外からのゲストによる特別なスピーチや対話がたくさん。
ぜひ、お誘い合わせの上、申し込みフォームよりお申し込みください。
(参加費無料、どなたでも参加いただけます)

その難問とは、突き詰めると「ブッダ・ダルマ(仏法)を中心に据えて、現代世界の諸課題の解決に貢献すること」だ。

私はここ5年以上、武蔵野大学で非常勤講師として「現代仏教特殊研究」という講義を一コマ持たせてもらっている。自分がこれまで僧侶としての20年間で取り組んできたことを含めて、現代仏教を「特殊研究」する講義で、少人数の受講者と議論しながらゼミっぽくやっている。

あまり知られていないのかもしれないが、武蔵野大学は仏教系大学だ。仏教学者で西本願寺系の僧侶でもあった高楠順次郎という学祖が、仏教の根本精神である四弘誓願(しぐぜいがん) を建学の精神に据え、女子教育からスタートしている。その後、男女共学化、総合大学への展開、武蔵野に続いて有明キャンパスの開設などを経て、今の姿へと発展を遂げている。近年ではアントレプレナーシップ学部、そして来年度からのウェルビーイング学部など、時代に合わせた学部の設置が話題となっているかと思う。また、京都を中心として関西に偏りがちな仏教系大学の分布の中で、東京で広く仏教を学べる大学(通信制もある)として、仏教を大学で学びたいという社会人にも人気が高い。

その武蔵野大学が2024年に創立100周年を迎えるにあたり、さまざまな記念事業が推進される中、西本照真学長の肝入りで「ぜひ、建学の精神であるブッダ・ダルマ(仏法)に立ち返り、さまざまな課題を抱える今日の世界を照らすような事業ができないだろうか」と立ち上がったのが、このプロジェクトだ。光栄なことに、私も構想段階からのメンバーとしてプロジェクトに関わらせていただくこととなり、大きなやりがいを感じると同時に、苦悩する日々が始まった。

何が悩ましいかといえば、まず「ブッダ・ダルマを中心に据える」ことだ。

「宗祖の教えを布教する」ことなら、もちろん僧侶の世界でも大事にされている。経典などに収められた釈迦牟尼ブッダや歴代の仏弟子たち、あるいはそれぞれの宗派の祖師やその高弟たちが紡いできた言葉を、その教えを受け継ぐ現代の僧侶が今を生きる人たちに分かりやすく伝えることは、僧侶の使命だろう。指月の喩えで言うならば、「月」(ブッダの悟りの中身である法身=ブッダ・ダルマ)そのものはつかむことも触れることもできないけれど、その方向を差し示す「指」として残された祖師たちの言葉を現代の人にわかるように翻訳するのが、僧侶の役目と言える。

しかし、このプロジェクトは、「ブッダ・ダルマ」そのものをその中心にすえるという。親鸞をして、法身(=ブッダ・ダルマ)は、色も形もなく、こころも及ぶことはできず、ことばを絶すると言わしめた、そのブッダ・ダルマそのものを中心に据えるとは、一体どのようにすればそうなるのか。ましてや、仏教を源流とするとはいえ、今や幅広いバックグラウンドの学生・研究者が集う総合大学として展開している武蔵野大学として、一宗一派のブッダ・ダルマ解釈に偏る訳にはいかない。いかにして、仏教徒か否かといった立場を超え、どんな人にも開かれたかたちでブッダ・ダルマを中心に置くことができるのか。さらには、そのブッダ・ダルマを中心に据えたプロジェクトを、あえて今日、日本の大学から発信する必然的な意義も、そこには見出されなければならないだろう。

プロジェクトのリーダーとして、ここは相当に頭を悩ませたところだ。

日本的ブッダ・ダルマとは何だろうか。いや、あらゆる制限とは無縁のはずのブッダ・ダルマに、「日本的」などという枕詞は、そもそもふさわしくない。しかし、「月」たるブッダ・ダルマを指し示す「指」にはきっと、日本という風土ならではの特徴が、何かしらあるはず。ぜひそれを、このプロジェクトの手がかりにしたい。

私は、日本仏教の「先祖供養」としての側面に着目した。このプロジェクトへ、世の人々にさまざまな形で参加を呼びかける、カンファ・ツリー・ヴィレッジの招待状には、以下のように記されている。

では、ブッダ・ダルマへの扉は、どこにあるのか。
どうしたら、無分別智ははたらき始めるのか。

ゴータマ・ブッダ以来の仏教史は、古今東西、多様な種類に展開した扉の型録でもある(そして実のところ、仏教に限らず、扉はいつでもどこでも誰の上にも開きうる)。中でも、日本へ到達し熟成された大乗仏教の伝統においては、亡き祖先を「ほとけさま」と呼び習わす先祖供養仏教が花開いた。家族での法事、お盆やお彼岸での墓参りなど、大切な亡き人を思い出す習慣が今でも広く共有されており、それと意識せずとも死者と共に生きている感覚を養ってきた。

そうした、死者の存在が「私が私を超えていく」扉としてはたらく日本の風土に照らし、カンファ・ツリー・ヴィレッジの中心には、誰にも開かれたブッダ・ダルマからの呼び声として、次の問いを置きたい。

“How can we become better ancestors?”
〜いかにして私たちはよりよき祖先になれるか〜


これまでの私の僧侶人生において、日本仏教では、自分も含めて僧侶にとっての仏教と、一般の人にとっての仏教の間に、乖離を見ることが多かったように思う。というのは、僧侶にとっては「祖師の教え」が仏教であるのに対し、一般の人(檀家・信徒)にとっては「ご先祖とのつながり」こそが仏教である側面が、とても大きい。僧侶にとっては我が生死の道を問う祖師の教えこそが仏教のど真ん中かもしれないが、一般の人にとっては死者であるご先祖とのつながりこそが仏教のど真ん中なのだ。

ここに近年、マインドフルネスという世界的な潮流が重なって、私は現代仏教の特殊研究家として、自分の中で先の乖離が融和していくのを感じるようになった。つまり、日本仏教の「先祖供養」というあり方こそが、死者を想うことを通じて我が生死の道を問うてきた、日本らしい「指」の表れだったのではないかということだ。

日本仏教の「先祖供養」的なあり方は、これまで世界の仏教との対比の中では日本(あるいはもう少し広く東アジア)ローカルなものとして位置付けられ、その文化的な価値が取り上げられることはあっても、仏教的あるいは宗教的な実践としての価値は十分に注目されてこなかったのではないかと思う。

しかし、私は『グッド・アンセスター』の翻訳仕事の後、自身の「座右の問い」となった「いかにして私たちはよりよき祖先になれるか」の問いを、ダボス会議などの場で多くのリーダーに投げかける経験を通じて、次のことを確信するに至った。それは、この先祖/祖先をめぐる問いと実践は、決して特定の文化や言語に依存するローカルなものではなく、あらゆるボーダーを超えて共有しうる、ユニバーサルな問いであることを意味する、ということだ。

言い換えると、日本仏教の「先祖供養」的側面、日本的ブッダ・ダルマの表われは、十分に世界に通用するものであるということ。それどころか、その普遍的な問いを呼びかける担い手として、日本という文脈が積極的な意味を持ってはたらくということを、私自身が実感している。

では、そうした先祖/祖先という日本的ブッダ・ダルマの表われを背景としつつ、今日の世界が抱える課題の解決に貢献するプロジェクトとは、一体どのようなものになりうるだろうか。

人間が普段使っている知性は、仏教的には分別知と呼ばれる。分別とは、分けること、わかること。これはこういうもの、あの人はああいう人、というふうに「分かった!」と思いたい気持ちの周りには、いつも分別知が動いている。この分別知は、人間の文明を発展させるのに役立ってきた部分も大いにあるけれど、文字通り分断を生む原因にもなってきた。

それに対して、仏教の伝統では、ブッダ・ダルマの顕れた智慧を「無分別智」と呼ぶ。ブッダの悟った中身である「月」そのものには、もちろん私は直接触れようもない。だが、私なりに多少なりとも我が身に「無分別智」がはたらいたかなと感じる瞬間があるとすれば、それは「私には分からないものがある」と知らされるときや、「分からないものを分からないままに置いておこう」と思えるとき、だ。それこそ「分かりにくい」表現で申し訳ないが、「分別知=分かった!と思いたい気持ち」が動きそうなところを、グッと抑えることができたとき、それが「無分別智」の方向へ意識のベクトルが向く感覚だ。

私はこの、「無分別智」の方向へ意識のベクトルが向く感覚は、今日の世界が抱える課題が解決に向かう上で、とても大事だと思っている。現代の世界の諸課題について議論する場の一つに、ダボス会議がある。私も去年と今年、連続で参加する機会を得たが、会期中に300を超えるセッションが催され、それぞれに異なる課題が議論されている。セッションの数が、世界の課題の多さを物語っている。その中で注目すべきは、2023年に掲げられた統一テーマ「Cooperation in a Fragmented World(分断された世界における協調)」だ。

これはまさに、今日の世界が抱える無数の課題の根っこに「分断」があるということではないか。

人間の分別知から分断が生まれるのだとすれば、今もっともこの世界に必要なのは、無分別智に他ならない、ということになる。

私は、この「無分別智」の方向へ意識のベクトルが向く感覚を養う上でも、日本仏教の「先祖供養」の実践はとても有効だと感じる。

先日、縁あって、友人たちが主催するアジアリーダーが集う数日間の研修プログラムのはじまりの場を、お寺で持たせてもらった。10名に満たない少人数の会で、それぞれバックグラウンドの異なる若手リーダーが、日本、韓国、中国、インドから集った。

お寺ではまず、先祖/祖先に思いを向けるワークショップとして、墓地の掃除と、本堂での読経をした後、参加者一人ひとりに自分の「グッド・アンセスター」について話してもらう時間を作ったところ、その後の数日間の交流がぐっと促進する、とても深いつながりがその場に出現した。アジアのリーダーたちが、自分自身の自己紹介をするのではなく、自分がどこから来たのか、自分の先祖/祖先の話から始めてみると、思った以上に現在の国籍を超えた重なり合いが感じられ、辛い過去はお互いに悲しみ合い、通常の自己紹介とはまったく質の違った対話が生まれたのだ。政治や経済においてはさまざまな分断を抱える今のアジアだからこそ、民間の個人レベルで交流を作っていこうというプログラムの趣旨が、まさに先祖/祖先を入口として開いたように感じた。

こうした場はまさに、武蔵野大学100年記念プロジェクト、カンファ・ツリー・ヴィレッジが目指すものにも通じる。

カンファ・ツリー・ヴィレッジの招待状には、こうも記されている。

100年後、これから生まれてくる未来世代にとって、私たちはいかにしてよりよき祖先になれるだろうか。問いを胸に、私たちは、歩き、触れ合い、語らう。舞台は、各々が主義主張(ism)を競い合う、閉ざされた四角い会議室ではない。千年単位で受け継がれてきた自然と叡智に囲まれた、螺旋を描くような曲線の場だ。目には見えなくとも聞こえてくる、過去と未来を凌駕する無数の名もなき存在の声に耳を傾ければ、自ずと私はこの皮膚を境界とした存在から溶け出していくだろう。


カンファ・ツリー・ヴィレッジは、日本的ブッダ・ダルマの表われを背景とつつ、今日の世界が抱える課題の解決に貢献するプロジェクトである。それは具体的には、私たちが先祖/祖先から受け継いだものに思いを馳せ、「いかにして私たちはよりよき祖先になれるか」という問いを入り口として、異なる背景を持つ他者同士が、共通の体験をしながら共に時間を過ごし、語り合うプロジェクトだ。そうした先に、「無分別智」の方向へ意識のベクトルが向き、今日の世界が抱える諸課題の根っこにある「分断」が智慧が生まれると信じて。それが、カンファ・ツリー・ヴィレッジが、「巡礼と対話」を実践の中心に置く所以でもある。

カンファ・ツリー・ヴィレッジの招待状は、こう締め括られる。

カンファ・ツリー・ヴィレッジは、分別知を離れ「もう一つの見方」を探究するすべての旅人に開かれており、望みさえすればいつでも、どこからでもアクセスできる。いつか探求の旅が終わる時、私たちは故郷へ還り、今度は村人となって、訪れる旅人を歓待するのだろうか。いや、いずれにしても留まることなくはたらき続けてこそ、よき祖先なのかもしれない。祖先をめぐる旅に、終わりはない。

このLetterを目にしたすべての人を、カンファ・ツリー・ヴィレッジへと招待します。

2022年末、OpenAIからChatGPTがリリースされた。2023年前後のこの年代は、後世、人類文明の転換点として記憶されることだろう。

それは、いかなる転換点だったのか。
AIが人類を超えた日?
私の答えは、Yes and no、だ。

なぜYesか。人間がこれまで専売特許としてきた、論理に基づく分類・編集・判断に関する仕事。仏教で「分別知」と呼ばれる領域の仕事はかなりの部分、AIに明け渡すことになるからだ。いかにも分別をわきまえた尤もらしい仕事は、今後すべてAIがやってくれる。

人類の叡智の総体を氷山に喩えるなら、AIが席巻することとなった「分別知」の領域は、水面に顔を出したその一角にすぎない。第一次産業革命以降、欧米を中心に水面上の領域が急速に拡大した。その結果、人類の文明は飛躍的に進歩し、また、未だ問題を抱えながらも、貧困や疾病など各種の指標は向上した。そうした目を見張る成果によって、人類は水面上の領域が、その知の全てであるものと思い込むようになった。そして今、まさに人類が発明したAIが、水面上の知の領域をすべて洗い流そうとしている。

では、人間に何が残るのか。知的領域で「自分たちにしかできないこと」を失った人間は、AIから提供されるコンテンツを消費して死ぬまで暇潰しをするしかないのか。人類はこうした事態を祝福すべきか、呪うべきか。

私はこれを、人類のトランジションの機会と受け止めたい。

2500年前にブッダによって明らかにされた普遍のダルマに照らして見れば、私たちは本来、分けようのない世界を生きているという。そうした洞察は「無分別智」と呼ばれ、各時代の賢者たちによって氷山の水面下で大切に守り育まれてきた。

水面上の目に見える「わかる」世界は、その二元的な分別をもとにした進化の果ての必然として、あらゆるものが分断されて行き詰まっている。

今こそ、スマホを置いて、巡礼と対話の旅に出よう。

ブッダ・ダルマの溶け込んだ日本の風土の中、静かに耳を澄ませば、過去から未来へと連続する、見えないものたちのポリフォニーが聞こえてくる。
今こそ、水面下の「わからなさ」の海にダイブするときだ。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

ゴーギャンの有名な作品のタイトルにあるこの普遍的な問いをめぐって、2003年から始まった私の現代仏教僧としての20年間。その集大成として、良き仲間に恵まれ、このプロジェクトに取り組んでいる。大学のプロジェクトとして、学生はもちろんのこと、教職員、社会人、それも国境を超えて、多くの人にご縁が生まれたら、とても嬉しい。

まずは、4/29、西本願寺にてお待ちしています!

「はじまりの集い」 2023年4月29日(土) @京都・西本願寺

カンファ・ツリー・ヴィレッジ(武蔵野大学100年記念プロジェクト)

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