クリスチャン・マスビアウ氏との対談からの考察
世界でベストセラーとなった『センスメイキング』の著者であり研究者かつ起業家のクリスチャン・マスビアウ氏にお会いした。
ビッグデータが導き出すアルゴリズムは、大きなスケールの傾向を捉えることは出来たとしても、体験的に展開される多くの真実を取りこぼす。AIが人間の生命活動・社会活動を支える時代こそ、地道な観察から読み取る人文科学の知見が必要であるとマスビアウ氏は提唱する。彼は日本の民間シンクタンク日本医療政策機構 のシニアフェローでもあり、今回、マスビアウ氏の来日にあわせて、同機構 CEO の乗竹亮治氏にご縁を繋いでいただいた。
真実とはなにか
マスビアウ氏の率いるコンサルティングファーム ReD Associates は、哲学、歴史学、文化人類学、美術史といった人文科学の博士レベルの専門家集団でもあり、数々の世界的大企業をクライアントに持つ。顧客データが示すアルゴリズムにみる真実と、体験に息づくデータでは拾いきれない切なる真実。その双方から人の心理や行動を理解し、真実をホリスティックに捉えることからイノベーションへと導く仕事だ。
身体感覚、精神性、歴史、風習、風土など、地道な参与観察(フィールドワーク)によって浮かび上がる真実を読むヒューマンサイエンスと、AIとの協奏が必要とされるなか、マスビアウ氏がAI開発を巡って考察を続けるテーマの一つが、「どこまで人間のリアリティに近付けるか」という倫理的な問いである。
私たちは問いを投げられると、わからないことであっても、何らかの解答を返そうとする。その背後には、周囲や自らの「投げかけ(要求や期待)に応えたい」という思いや「答えないわけにはいかない」という義務感、さらには「恥をかきたくない」といった自我が繰り広げる様々なマインドがあるだろう。そうしたマインドが一切ない状態を「悟り」というのかもしれないが、この世に生きる私たちのほとんどは、何らかのマインドを持ち合わせて生きている。マインドは様々なブロックとしてはたらき、日頃から無意識にも私たちの言動を左右する。そうして私たちの認知や言動は、時に自覚的に、時に無自覚なまま「真実」から遠ざかる。
それゆえ仏教は、2500年前から身口意(身=やること、口=いうこと、意=思うこと)の一致を説いてきた。こんなにも長い間説かれ続けているのは、体現することが容易ではないことの証であって、人類が取り組み続ける必要のあるテーマでもあるのだろう。
もしもAIがブロックを伴うマインドを搭載すれば、たとえ情報をもちあわせていなくても、なんらかの回答を作り出し、ともすれば「捏造」が、ともすれば「妄想」がそこに展開し始める。つまり、人間のリアリティを設計すればこそ、AIは無明な世界観で応答をする。
AIは果たして、どこまで独立して「真実」を拾いにいくべきなのか。そして、そもそも拾いにいく「真実」とは、どこにあるのか。
「存在しない裁判例さえ、答えるために作り出す」というマスビアウの想定は今にも起こり得ることで、メタAIの振る舞いは、ユーモラスとも恐るべきものとも言えそうだ。
パロールとエクリチュール
西欧形而上学において、人の言語について口語のパロール(音声言語)と書き言葉のエクリチュール(記述言語)という概念がある。
身体性を伴いながら瞬間的連続の刹那にあるパロールは真理の起源と位置付けられ、対して固定された制限の内にあるエクリチュールは、パロールを到底理解し得ないと、パロールの優位性が確立された。フランスの哲学者ジャック・デリダは、このパロール優位性が支配する階層的二項対立構造を指摘し、「脱構築」に向かった哲学者だ。
AIが習得する言語モデルは、膨大なテキスト(=エクリチュール)の集積に基づいており、生成する言語もまた、同じ集積から紡ぎ出される。しかし、どれだけのテキストを集めても、波(声)の現象であるパロールを網羅することはないだろう。エクリチュールはパロールを網羅できないが、かといって、パロールは真実かと言えば、どうだろう。身口意の一致は極めて困難なように、口から溢れる言葉が実態に即しているとも言い難い。
「柄」を見るとは、柄を成り立たせる「地」を見ることでもあるように、私たちは本来、「知る」と同時に、「知らない」ことを知っている。しかし、つい、私たちは「知っている・柄」にばかり意識を向けて反応を繰り返す。そのように働く脳は、生きるために必要に応じているに過ぎないのかもしれないが、「ありのまま」をみるのが苦手だ。パロールもまた、多くを取りこぼしながら、ある側面からみた一つの真実が、そこに現れては消えている。
デリダが脱構築へ向かったように、AIはいずれ、そのどちらでもなく、どちらもある状態へ向かうだろうか。そうでなければ、葛藤による硬直が生じ、機能できない苦しみを味わうのかもしれない。そこで機能不全に陥るか、あるいは、粛々と乗り越えて悟りに向かうのか。
人間と機械
マスビアウ氏からは、人間と機械の定義をめぐる問いについても共有してもらった。日本人の素朴な感覚からは、定義を議論する意味自体を問うてしまうかもしれないが、キリスト教の土壌にあれば、この世の世界観を揺るがすテーマでもあるだろう。欧米社会がAI開発を進めるにあたっては、より明確な「正しさ」を支える哲学を必要としているのかもしれない。
地上のあらゆる生きものは、神による個別の創造物であり、特別な人間は他の生物とは異なるという原則は、「生きものは自然淘汰 (natural selection)」によって進化したものである」という生命の基礎理論を説いたダーウィンの『種の起源』によって崩壊した。
ダーウィン亡き後、テクノロジーの発展により人間が作り出した機械は進化を続け、いまや人工知能(AI)となった機械は、言語モデルのみならず、体験を通して新たな技術を習得し、これまで人が体験したことのないクリエーションまでも行うようになった。この時はたして、AIとは、やはり人工物としての機械に過ぎないのか。それとも、AIと化した機械は人間の進化の過程にあって、「人間と機械」という二元論は既に崩壊したのだろうか。さらには、AIがクリエーションする体験は「真実」と言えるだろうかー。問いは尽きない。
概念を必要とする人間が扱う言葉について、上述の通りエクリチュール(書き言葉)とパロール(口語の言葉)に分類できるとするならば、AIの体験はエクリチュールにおいて真実といえるだろう。ChatGPT等、言語モデルを使いこなすテクノロジーは、私たちのエクリチュールを確かに補う。では、パロールにつていはどうだろう。
日本語には、「体解(たいげ)」(英語ではembody)という言葉がある。私たちは、「恥ずかしさ」を感じると頬や身体はぽっと熱を帯び、視線はうつむき加減になるように、意識のコントロールを超えた反応から生成されていく言動がある。その言葉には、感覚・情動・概念・論理は全て同時にあって、エクリチュールともパロールとも言い切れない。「そわそわ」「ハラハラ」「わくわく」というようなオノマトペと呼ばれる擬態語・擬音語はそのわかりやすい例であり、同じような質をまとって紡がれるエクリチュールはパロールでもあるだろう。
僧堂において、修行僧は基本的に本を開くことはなく、日々、繰り返し坐り(坐禅)、食事を作り、掃除をする。テキストである経典を、声に乗せて読経する。代々受け継がれる記録のレシピを用いて、今ここにある素材を使って食事を創る。掃除は、物の確かな輪郭や表面に触れていく行為でありながらながら、風を通し、気を巡らせ、見えない場の代謝と循環を促している。
修行僧たちは、日々の営みにあるエクリチュールとパロールが同時に起こる行為のなかで、学びを続け、気づきを深め、内なる世界と外の世界を同時に養い、手当てしている。
パーソンとしての共鳴のゆくえ
こうした人間の経験は、現状のAIの経験とは異なるだろう。
私はここ数年、「よき祖先になるために、どんなことができるだろうか」という問いを繰り返してきた。ChatGPTに英語で尋ねてみれば、こんな回答を日本語に訳して返してくれる。
いうまでもなく、AIは見事なテキストで模範的回答を返してくれる。
けれど、実際に人を前にして聞こえてくるのは、例えば、家族や大切な身近な人の幸せを切に願う声だったりする。質問者によっても、また、身体の状態や声のトーン、環境によっても、応答の調子や内容は変わるだろう。語られるコンテンツが真実かどうかは別にして、パロールが呼応するように生成されてゆくさまは、interbeingそのものだ。
西洋思想において、人を「パーソン(person)」と捉える文脈がある。哲学者の一ノ瀬正樹先生によれば、「パーソン」とは、「仮面」を意味するラテン語の「ペルソナ(persona)」に由来し、「ペルソナ」は「声を出す、反響させる」という意味の「ペルソノー(persono)」に由来する。「パーソン」を「声を出す主体(声の主)」と捉えるならば、響き合う身体的事実に即した人間観に対応している、と。
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