見出し画像

いまこそ、カンパニーへ

企業や、企業で働く人に、産業僧として何ができるか。体験を重ねるなかで感じているのは、必要とされている僧侶のスキル(あえてスキルと呼んでみたい)は、「布教力」ではないかということだ。

僧侶は、言ってみれば、ブッダや祖師の説いた教えを翻訳、伝達する「翻訳者」である。仏教が説く普遍的な智慧や教えは、現代を生きる人々、そして、目の前にある人の日常にどのようにはたらくかー。人生を歩むにあたって、どんな意味をもち得るかー。その答えは縁によって様々だが、どのような状況にある相手であっても、縁に応じた「橋渡し」となるのが僧侶が与かっている役割だろう。布教という翻訳を重ねる仏道で磨かれる「翻訳力」は、僧侶の隠れたスキルと言える。

仏教に教えがあるように、企業には、それぞれに掲げる理念がある。例えば「顧客サービスの価値創造を図り、世界平和に貢献します」そんな理念があったとき、働く人たちは、それを体現する人として集まっている。

けれど、理念を腑に落ちる感覚で理解し体現するのは容易ではない。計画書や評価のシーンでどれだけ宣言できたとしても、本当にそうかは誰にもわからず、探求し、問いかけ続けるまなざしと、それを可能とするひろい器が一人ひとりに、そして共に働く人同士の関係性にも必要だ。

ある一点で賛同し合っていても、次第に潜在的にある認識や感覚の違いは顕わになって、理念と実態、そして、集まる人と人とのあいだには自然と距離は生まれていく。そうした変化は当然だけれど、多くの経営者は、企業理念が社員に浸透していないこと、共有できていないことに悩まれている。

そうした悩みに応えるように、昨今、世界的に注目を浴びてきたのが「パーパス経営」だ。

https://product-senses.mazrica.com/senseslab/management/purpose-management


企業が一丸となって、目標実現と社会貢献に資するための経営手法として、パーパス経営は世界的に知られているが、そもそも、パーパスがパーパスであれるためには、それを支える土壌や相応しい環境が必要になる。いかに土壌を耕し、環境を整えてゆくか、目的設定をする前に、関係性の開発(かいほつ)から取り組みたい。

そこで、土壌を開発するのに僧侶の翻訳力は生きてくる。人生を通じて、ブッダの教えを対機説法で翻訳しながら開発(かいほつ)を続ける僧侶の技と経験は、企業の土壌づくりにおいても生かせるだろう。

仏教の説く普遍性を共有できる翻訳が出来たなら、いかなる翻訳もその内にあって可能だろう。僧侶が歩み続ける、終わりなき仏道である。

僧侶であっても、布教に貢献しようとすれば、おのずと立ち上がるのが「布教とはなにか」「翻訳とはなにか」「浸透するとはどういうことか」という問いだ。

私が常々感じているのは、よい翻訳があれば、受け手は、理解し難いものを、なんとかして理解しようと悩むことはない。何処か遠くにあるものを、指示して受け入れさせる必要もない。

伝わるとは、共振・共鳴しているということ。それぞれの持ち場や日常において、「その一部を生きている」とも表現できる。大切なのは、その人の人生や日常を取り巻く環境と「切り離されていない」ということだ。

企業理念についても、関わり集う人たちが、理念に反応、応答し、時にはぶつかりながら、そこに響き、うねり、立ち現れるものを共有していくプロセスが必要だろう。それは、「仲間になっていく」プロセスなのかもしれない。そうして初めて、生きた理念は土壌に根付き、枝葉を広げる。

仏教は、仏法(ブッダダルマ)とは、何処にでも遍満しているものとみる。仏道は、日常に溢れいる仏法に気づき、それを生きるということでもある。仲間で共有し合う理念もまた、仕事か私生活かの枠を超え、生き方そのものに浸透していくものだろう。

そこで自然とみえてくるのは、「カンパニー経営」に向かう企業の姿だ。

ここから先は

435字

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

この記事が参加している募集

仕事のコツ

with 日本経済新聞

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!