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対談:ルトガー・ブレグマン×松本紹圭<前編>

2022年秋、『Humankind 希望の歴史(上・下)人類が善き未来をつくるための18章』(文藝春秋)の著者で、オランダ在住の歴史家 ルトガー・ブレグマン氏が5年振りに来日した。光栄にもトークイベントの対談相手としてお声がけいただいて、神谷町光明寺の本堂を会場に2時間たっぷりと話をした。

主催:nl local
駐日オランダ大使館協力のもと日本とオランダをつないで社会問題の解決にチャレンジするプロジェクト
https://nllocal.net/(企画:SHIBAURA HOUSE


ルトガー・ブレグマン | Rutger Bregman
1988年生まれ。歴史学者、ノンフィクション作家。これまでに歴史、哲学、経済学に関する5冊の本を出版。著書『希望の歴史』(2020年)と『Utopia for Realists』(2017年)はいずれもニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーとなり、40カ国以上で翻訳されている。ブレグマンは、「ザ・コレスポンデント」での仕事により、権威あるヨーロッパ報道賞に2度ノミネートされている。オランダ在住。


人間の "悪人性" を問う


ブレグマン
今日はまずみなさんに、私が著書『Humankind 希望の歴史』に綴ったちょっとおかしなことから、話を始めたいと思います。

過去数十年で、科学は大きく変化しました。なかでも文化人類学、考古学、心理学といった分野が捉える「HUMAN NATURE(人間性)」は新たな理論に移行し、いまや人間は本質的に利己的(悪)ではないとされています。競い合うばかりではなく、協調する生命である、と。こうした人間性について、松本さんはどのように思われますか?

松本
浄土真宗の祖師である親鸞は、「私」を主語に、その本性の善悪についてフォーカスをした人です。彼の見出した「私」の "悪人性" は、"凡夫性" とも言われます。善か悪かを区別する自分の判断軸さえ信頼できないような、愚かな私であるということです。わからないことの中に、わかったような顔をして立っている。そんな頼りない存在が私の有り様です。私自身、(お人好し程度の多少の善はあったとしても、)人に見せられないような悪人性をもっているのは確かです。

ブレグマン
私たちが見ている世界は、この世のほんの一部に過ぎません。ともすれば、くだらない(ブルシットな)ことに囚われます。視界が、その(ブルシットの)山の頂から見える(ブルシットの)景色に覆われているようなものですね。人間のそうした危険性を、心理学の観点から警告する心理学者もいます。

人は、何か一つのことを学び始めた時、急に多くを知ってわかったかのような(山の頂にいるような)気になるものです。さらに学びを続けると、自分は何もわかっていないことに気付く。頂から転落するような状態です。落ちた山の麓から、あらためて学びを重ね、探求を深めるうちに、ほんの少しずつではありますが、ゆっくりとわかることが増えていく。しかし、(山の頂にいるような)「すべてわかった」という全能感に至ることはありません。

私たちの社会において問題と言えるのは、学びの深い人ほど謙虚になり、人々の前に立って大きな声で語ることをしないということです。メディアのトーク番組などは、山の頂から語っているようなことが多いでしょう。同じようなことが、60〜70年代の科学の領域でも起きていて、これまで真実とされてきたことの多くのことに、今、疑問が投げかけられています。

ここで、「人間の多くは悪人ではない」という概念について、私が意味するところをより明確にしたいと思います。「悪ではない」とは、すなわち「善である」ということではありません。私たち人間は文化人類学的にみて、みな友好的で協働する生き物とされています。それは、昨今「Survival of the Friendliest(友好的でなければ生き残れない)」[*1] と言われるゆえんです。

家族やご近所さん、もしくは職場の同僚といった近しい人に対して友好的であるのは、とてもたやすいことですよね?けれど、遠くの見知らぬ人に対しては、友好的であることも愛することも、ぐっと難しくなる。私たちがエンパシー(共感)を感じる時、その意識は「(近しい)私たち」に向いていて、これが意味するのは「共感とは限定的である」ということです。これは、人間の本質的なダークサイドと言えるでしょう。

仏教はいかにして、その限界を捉えてきたのでしょうか。

松本
日本仏教には大きく分けて二つのアプローチがあります。一つは、修行(マインドフルネスなど禅的な実践)を通して、自らの心身を整えること。もう一つは、お墓参りや法事といった儀式を通して、先祖や祖先を想い、祈念することです。

実際のところ、多くの日本人にとって、「先祖供養」の場面で仏教に出会うのが殆どでしょう。20年前、私は自らが生きて死ぬ道を、ブッダの道に学ぼうとお寺の門を叩きましたが、いざ僧侶になってみて、仕事の95%は葬儀や法要といった先祖供養が占めている事実を知りました。

生きている人のことよりも、死んでいる人のことを思う機会が圧倒的に多いとは、いったいどういうことなんだ、と当時の私は思ったわけです。しかし、20年の年月を掛けてようやくその背景がわかってきました。

ご先祖様とは、血のつながった家族です。ある程度共感ができ、愛着があり、ありありと繋がりを感じることのできる存在です。法事では、まずはそうした近しい存在に心を向けます。そこで読まれるお経には「回向文(えこうもん)」と呼ばれる一節がありますが、その意味するところは、亡くなった先祖への想いを、生きとし生けるすべてに向けるということです。いきなり一切の衆生に想いを向けるのは難しい。仏教儀式は、身近な繋がりを想うことから、その範囲を広く遠くへと、全方位に振り向けてゆく導きがあるのですね。

Expanding Circle


ブレグマン
私たちの「限界」に自ら気づいて、その先へと拡げていくーーとても美しいですね。私たちの関心は近しい存在に向けられているけれど、意識的になれば、その範囲はより大きな円を描くように広がっていく。

1980年代に出版された『The Expanding Circle』において、哲学者 ピーター・シンガー [*2] は次のように論じます。ーー人間は歴史を辿りながら、意識(心を向ける範囲)のサークルを部族から町、町から国、国から世界(地球)へと広げてきたーーと。確かに過去3世紀を振り返れば、奴隷や女性、労働者の権利といったことをテーマに、人間の意識のサークルは次第に拡大してきました。そして今、人類は更なる拡大に向かおうとしていると、私は信じているのです。そこで考えたいのは「次なるステップは何か」ということ。それはおそらく、人間という種族を超えて、あらゆる生物を含むサークルへ向かうということではないでしょうか。

私の父は宣教師で、私はキリスト教の家庭で育ちました。キリスト教から学ぶものは多くありましたが、種を超えようとするとき、他の宗教から学ぶ必要があると思っています。フランスの哲学者ルネ・デカルト [*3] は、人間の哲学においては西洋史に欠かせない人物ですが、動物に対する思想はまったくもってひどかった。動物を "機械" とみなす彼の哲学で世界を捉えれば、人間以外の生物に対して、虐待であれ搾取であれ、人間のしたいようにしてしてしまう態度があらわれます。

人間の悪性とは、まさにこうした人間の心のメカニズムにあると私は考えます。他者を聖なる生物と捉えなければ、自分の感覚や考え方とは異なる他者を、人間とみなさないことにもなりかねません。

仏教では確か、すべてに仏性が宿るとおっしゃいましたね?そのことについて、もう少し聞かせてください。

松本
仏教にもいくつかの系統がありますが、日本の仏教は主に大乗仏教で「一切衆生を救う」ことが前提にあります。「一切衆生」とは何を指すかというと、「山川草木悉皆成仏」という言葉が示すように、山河や動植物といったこの世のすべてが、仏になる種を持つものとして含まれます。人間だけが特別なわけではありません。(たとえ「私」が何者であれ、)仏である私は、仏である他の命を戴いてはじめて生存し得る以上、生は、悪を避けられないということです。そうした本来的な「私」のありうように、悲しみや恥じる感覚を強烈に抱いたのが親鸞聖人でした。

「信」と実践


ブレグマン
私たちオランダ人は、ご存知の通りひときわ「率直で正直」なところがあります。日本の方にしてみれば "無礼" に当たるかもしれませんが(笑)私としては、日本のみなさんにも無礼になってもらいたいと思うんです。たとえば私が著書に綴ったことが「馬鹿げている」と反論するとかね。そうしたら、今度は私が、そういうあなたがいかに「馬鹿げているか」をお伝えします(笑)

松本
反論ということではないですが、「信」をキーワードに、もう少し一緒に考えたいと思います。「信(信じる)」とは宗教の原点です。親鸞は、生涯を通じて「信」について考え抜き、彼は自らを「私の中には悪人性しかなく、何もわかっちゃいない凡夫である」と突き詰めました。凡夫の私がどんなに「神や仏を信じる」といっても、私の言う「信じる」には、意味など何もないのだというスタンスです。例えば、人にお金を貸して、「(あなたは返してくれると)信じているからね」と強く思う時ほど、信じてはいない。信じるとは、そんなものですよね。そこで、親鸞は「信」が生まれることを「疑いなき心」と定義しました。つまり、疑う感覚すら湧いてこない状態です。

『Humankind 希望の歴史』では、「疑う」ことから離れていこうとする態度を感じました。ここに親鸞との重なりがあるのか、もしくはないのか、関心をもっていたところです。

ブレグマン
哲学者でトレーダーでもあるナシム・ニコラス・タレブ [*4] は、人が何かを説くにあっては、自らが実践者であることが重要であるとしています。著書『Skin in the Game』の中で、金融市場で投資をする際「どの株式があなたにとってベストか」という問いの答えから、相手の本当に信じるものがわかると言います。人は、何かを犠牲にするリスクを背負ってこそ、本当に信じるものがわかるというものです。

世界では、数多のジャーナリストやライターたちが様々な発言をしていますが、誰もそのリスクを背負っていないことに問題を感じます。文化人類学の書を読むと、古い部族のリーダーは、時に自ら傷みを負う儀式を通して、その本気度を周囲に示すと言われます。たとえば、儀式の場で人体の大切な部分を切り落としたなら、周囲はそれを見て畏敬の念を抱きますよね。私にとっては、これが「信」の要のように思います。つまり、「(説いていることを)自ら実践し、自らリスクを背負う」ということです。

まだ自分が若かりし青年だった頃、教会にいく度に、多くの人々が「私は "これ" を信じる」「私は "あれ" を信じる」と、それぞれに主張するのを目にしていました。私には、そういう誰もが、他の人たちと同じように見えました。

私は松本さんが、「宗教(を説くこと)」と「自らが今ここを生きること」(Religion and Living your life in the here now)との関連性について、どう思われているかに関心があります。何か具体的な実践も大切にされていますか?

松本
お経に書かれた浄土仏教の教えには、私たちはやがて必ず浄土に往生し、仏になる身に定まっているという「物語」があります。私が僧侶としてその「物語」を人々に「信じさせよう」とするならば、その時点で親鸞の言う「信」ではありませんよね。私が信じていないわけですから。何か素晴らしい物語やアイデアを、とにかく信じて理解することが仏道であるとは言えません。頭での理解は仏道に親しむ一つのチャンネルに過ぎず、日常の実践のなかで如何に身体で親しむかが大切だろうと思います。大事なのは実践を重ねる習慣で、お寺はまさに "よき習慣の道場" と言えるでしょう。

お寺では、時の節目に法要を執り行い、亡くなった方のご家族が本堂の仏さまの前に集います。同時に、家に仏壇のある家庭では、毎朝仏壇に手を合わせます(お経を読むこともあります)。地方に残る古い日本家屋をみれば、仏間は家の中心に位置しています。言ってみれば、小さなお寺が家の中にあるようなものですね。先祖に毎朝手を合わせる風習は、日本文化にみる素晴らしいマインドフルネス習慣だと思います。

先祖を想いながら、自らもいずれそちら(先祖の側)へいく身であることを感じる。日々、時空を超えた世界観に触れているわけです。それはあたかも、毎朝鏡の自分に「今日が人生最後の日なら?」と問うたスティーブ・ジョブズ [*5] の習慣に等しく、日々の「死と再生」の儀式と言えるでしょう。過去に心を手向けながら、未来の人々にとっていかに自分がよりよき祖先になれるかという問いを日々リマインドする仏道が、ここにあります。

こうした仏道の実践は、昨今、合意形成の場で問われる「マルチステイクホルダー」に、過去や未来の人々(見えない存在)を招き入れるプラクティスになり得ます。目には見えない存在の話は、物語と言えば物語に過ぎません。けれど、私たちがお墓を前にした時、見えない(亡くなった人の)存在を想うのは、実践の積み上げによって感じられる確かなリアリティでもあるのです。


<注釈>
*1 「Survival of the Friendliest(友好的でなければ生き残れない)」
 By Brian Hare /Vanessa Woods @SCIENTIFIC AMERICAN August 2020
 https://www.nikkei-science.com/?p=62267
*2 Peter Singer(1946-)哲学者|著書『The Expanding Circle』
*3 René Descartes(1596-1650)哲学者
*4 Nassim Nicholas Taleb(1960-)哲学者・トレーダー|著書『Skin in the Game』
*5 Steve Jobs(1955-2011)Apple創業者
 スタンフォード大学 卒業式スピーチ(2005)


後編へ続く

2022.11.25 神谷町光明寺にて

 

(構成・執筆:津森絵理子)

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235字

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