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ともに 独りを生きる

先日、「孤独」をテーマに取材を受けた。内容はぜひ、後に発売となる雑誌『プレジデント』を見ていただいて、ここでは、質問に応えながら感じたことを振り返ってみたいと思う。


仏教にみる「孤独」とは

そもそも仏教は、「孤独」をどのようにみているだろう。仏教の経典には「独生独死独去独来」という言葉がある。『私以外私じゃないの』(ゲスの極み乙女)というタイトルの歌がある通り、まさしく人は徹頭徹尾「独り」であって、生まれて死すのも、去りて来たるのも独りである。生きるとは、どんなに願っても、誰かの代わりになることも、誰かと一体になることもできはしない。そんな、絶望的なまでの孤独を知る者同士の「共感」が、独りと独りをつないだりする。さりとて、共感できたような気がするだけで、本当のところの共感などできっこない。それをも知って、なお感じるつながり感で、つながる縁があるものだ。

仏教者スティーブン・バチェラー氏はこれを「Solitude」という単語を用いて、"ただ独りである" ことを深く感じ知ることの大切さを説いている。苦しみはむしろ、独りであることよりも、自らの存在を世界から切り離していくような "閉じた" 状態に生じるものだ。開かれていればこそ、本当の独りを受け入れられる。

執着があっても、健やかに依存する

仏教は、私たちが「目覚めた人(ブッダ)」になるのを導いてゆく教えである。「目覚める」とは悟りを得ること、それは、一切の執着から離れた完全に自立した状態をいう。しかし、迷い深い凡夫の私たちには、一切の執着から離れることなど到底できない。何かや誰かを大切に思うにもグラデーションがあるように、家族や師弟といった特別な関係性に、少なからず執着しながら人は「物語」を生きている。

そんな私たちがウェルビーイングに生きるひとつの解が、熊谷晋一郎医師の言う「自立とはたくさんの依存先をもつこと」かもしれない。何らかの執着を伴いながらも、複数の依存先、言い換えれば、多様な居場所があるということだ。

唯一性というカルト

依存が「唯一性」に陥れば、関係性に執着が生じて存在はいよいよ孤立化する。その力学を利用したのがカルトであって、時には既往の関係性をも断ち切って相手を囲い込み、孤立させることで依存を促す。たくさんの依存先があればこそ、たとえ唯一性に偏りかけても「正気に戻る」道が残される。それぞれの依存先でつながる多様な仲間たちの存在も、正気を保つ助けとなるだろう。

友人の岡本順子氏(著書『世界一孤独な日本のオジサン』角川新書)は、日本の中年男性の多くが人知れず孤独を抱える背景に、仕事に人生の多くを捧げるあまり、仕事や会社が唯一の依存先となってきた現状をみている。会社に求められる "貢献" に、生涯を通して熱心に応えてきたオジサンたちこそ、依存できる先(居場所)を増やせるといい。思いもよらぬ事態が起きても、全体としてバランスを取れるようポートフォリオの幅を広げておきたい。

頼って依存することは、恥?

人に囲まれ、人に応じるばかりの生活をしていると、世界は人間ばかりで構成されているような錯覚に陥りがちだ。しかし、たとえ、どこにどのように身をおいていても、自身の内と取り巻く環境へと意識を向けてみれば、「私」は「私以外」の存在に、更には人間以外の存在に生かされていることに気づくだろう。そして、「私以外」の人間も植物も動物も、みな同じようにして、環境に依りながら生かされていることに気づくだろう。

私たちはいつしか、大人として、社会人として「自立すること」を求められ、危うい時ほど、頼ることは「恥」であるかのような感覚に囚われがちだ。確かに人は独りであって、仏道を歩むにあたって自立的であることは望まれる。しかし、頼ることの是非を問う度に、存在とは本来、相互依存的であることに立ち戻り、自立することの真意を問うて欲しい。人生は、他者との関わりのうえに展開し続ける。選択肢の連なりは常に開かれていて、意思や意図を超えてはこばれてゆく先に、思いがけない驚きやよろこびがある。

「これしかない」「ここしかない」という思い込みで、世界を狭めてはいないだろうか。気付かぬうちに、自らをマインドコントロールしてしまってはいないだろうか。

開いた心から声を出す

視覚優位に誘導される技術革新(仮想空間化)が進むなか、暮らしも仕事も、高スコアの獲得を駆り立てるシステムが隅々にまで行き渡りつつある。大抵、そこには短期的ゴールが設定され、達成に向けた改善・成長、それに伴う明確な成果の提示が求められる。人やコミュニティ、更にはAIが自動で鳴らすアテンションの数々は、瞬時の反応を期待している。そんな圧倒的な短期思考社会を駆け抜けながら、私たちは、自分の内に湧く「声」を殺してはいないだろうか。

仏教は、こうした時代を迎えるずっと前から、健やかに生きるために「身口意(しんくい)を整えよ(身体・言葉・意識を一致させよ)」と説いてきた。立場や役割を背負って語る言葉は、心身から湧き出る声とは異なることも多いだろう。「思考」の言葉に溢れる今、水面下に湧く感覚・感情の声にこそ、耳を傾ける時間を取り戻したい。色彩を帯びた内なる声を、自ら十分に感じ受け入れることで、あらゆる声が「成仏」されるだろう。いかなる感情も「そんな私であってはならない」と蓋をする必要はない。閉じた心に籠る聴かれぬ声は、いずれ苦しみとなって作用する。

孤独=無関心? わからなさに開かれる

よく「今の若者は孤独を求め、他人に無関心な傾向にある」と言われる。本当にそうだろうか?そのように捉える社会や大人の眼差しに "抵抗" を覚える彼らの反応が、孤独を求めているように映るに過ぎないのではないか。「こうあるべき」という社会思想から離れていたい、そんな意思表示にも私には見える。周囲から「わかったような」世界観を押し付けられれば、内なる小宇宙を守るため、関わりを遮断しようとするだろう。そうした心の反応に「世代」はあまり関係ない。互いの小宇宙を尊重し合える関係性があるならば、抵抗する必要はない。「閉じた心」は関係性のあらわれであり、特定の「個人」に問題や課題を課しても解決はしないだろう。

私たちはつい、「わかる」ことを求めがちだ。孤独な存在ゆえに「わかりたい」と思う。しかし、「わかる=分かつ」であるように、我欲をもってわかろうとすれば、関係を分かつことになる。「わかったつもり」は尊重から遠ざかる。わからないままに、開かれて育まれる縁こそ味わいたい。そこには、意図を超えて展開してゆく思いがけない驚きとよろこびがある。
 

挨拶をバロメーターに

昨今では、SNSの示す数値が人のつながりをみる一つの指標となっている。しかし、人間が安定的な社会関係を維持できる上限は100〜150人(*)と言われるように、我が身に果たせることには限りがあるなか、数の集積を求めた先に、いったい何があるのだろうか。「どれだけあるか」より「いかにあるか」に尽きるだろう。

むしろ、日常に交わされる「挨拶」の有無やその状態こそ、孤独をはかる一つの指標になりそうだ。仏教の修行の場では、老子と修行僧らは日々の挨拶を通じて、悟りの具合やコンディションをはかるという。挨拶は、ほぼ同じ単語の繰り返しだ。それ自体に新たな言語情報はないものの、声の響きの問答から、互いの存在を確かめ合い、状態を確認し合う「ケア」をしている。挨拶は、パートナーシップから組織の状態まで、関係性をはかるバロメーターになるだろう。

* ダンバー数
人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限である。ここでいう関係とは、ある個人が、各人のことを知っていて、さらに、各人がお互いにどのような関係にあるのかをも知っている、というものを指す。(中略)ダンバーは、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定することによって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案した。

引用:ウィキペディア

時空を超えた関わりを生きている

端末を覗き込む時間が急激に増えた現代社会は、画面越しに広い世界と繋がっているようでいて、自分の目の届く範囲に囚われていくようでもある。しかし、じっと目を瞑り思考を休めると、「私」の「今」は見えないものを含めた広い世界へ開かれていて、すべては連続性の上にあることに気付かされる。空間の広がりに他者を観て、自らも誰かの他者になっている。時間の流れに祖先を観て、自らも誰かの祖先になっていく。「これしかない」「ここしかない」は、思考がつくる孤立に過ぎず、どんなに独りでいようとも、生きるとは、頼り合う相互依存の関わりそのものなのだ。

そうした意識を呼び起こす一つの習慣が、毎朝何かに手を合わせることであり、水を添え、季節の花に心を向けることかもしれない。それは、万物への挨拶であり、お互いのケアでもあろう。

オンラインの時空間は、目的がより明確になると同時に、点と直線をもって区切られやすい。そこでは無用と省かれがちな雑談こそ、仏教的「挨拶」と捉えて意図的に設定してみてはどうだろう。

独りであって、孤独でない。どんなに技術開発が進んでも、存在するためには省けないものがある。それを見極める力を養うためにも、今あらためて、仏教の智慧に学びたい。


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