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伊藤君はサンスベリアみたい

 伊藤君はサンスベリアみたいだと思う。

 サンスベリアは、艶のいい葉が上へと伸びていく観葉植物のことで、少し寒さに弱いが、乾燥には強く、かなり育てやすい。ちなみにマイナスイオンをたくさん放出して空気をきれいにしてくれているのだそうだ。

 伊藤君は入社二年目で営業部に配属されると、私のアシスタントに就いて仕事を覚えることになった。これまで何人も新人の教育係をやってきたけど、彼はひときわ育てやすかった。仕事の理解が早く、そつがない。女性の上司を相手に気負う様子もなく、姿勢が良くて明るい。寒さが苦手そうな白い肌もサンスベリアを連想させた。

 君って本当はサンスベリアの生まれ変わりなんじゃないの?なんて話は当然していない。それどころか伊藤君とプライベートの話は全くしていない。それが現代の上司と部下のあるべき姿だと思ったし、私自身、あまり話したいとも思わなかった。

 得意先での打ち合わせが予定より早く済むと、彼と二人で洋食店に入りランチを取った。「伊藤君が作った資料のおかげでスムーズにプレゼンができたよ。もう一人で大丈夫だと思う。部長に伝えておくね」そう彼に告げると、私は少し寂しい気持ちになった。そうか、このサンスベリアを育てるのはもう終わりなのか。

 私は近くにある行きつけのガーデニングショップに彼を誘った。巣立っていくサンスベリアの替わりになにか買っていこうかな。打ち合わせは終わったし、慌てて帰社する必要はない。少しくらい花を見てもなにも問題はないはずだ。

 「先輩」
 「なに?」
 「なんだかこれ、デートみたいですね」
 「…デート?」

 サンスベリアから発せられた唐突な言葉に、私は理解が追い付かなかった。

 「イタリアンを食べたあとにガーデニングショップに行くの、なんだかデートみたいだなって。あ、先輩、今日もごちそうさまでした」
 「いやそれは経費で落ちるからいいんだけど」

 経費、という言葉でようやく私は冷静さを取り戻した。そうか、これは上司と部下という関係上、あるまじき行為だった。

 「ごめん、業務時間中に私の趣味に付き合わせるなんてパワハラだよね。いやセクハラ?」
 「そんなことないですよ。俺、先輩の趣味がガーデニングだって初めて知りました」

 そりゃ言ったことないから知らなくて当然だ。それより今の状況をどうにかしなくてはならない。

 「伊藤君、やっぱり会社に戻ろう」
 「でももうお店ですよ」

 気づくと目の前にガーデニングショップの木製の扉が佇んでいた。
 いや、でもやっぱり、と引き返そうとすると、伊藤君は私の腰のあたりに手を回し、その少し重たい扉を押し開けた。
 カランカランとベルの小気味いい音がする。店内に入ると、すぐさま外とはまるで違う空気に包まれた。土、水、木、花から発せられるやわらかいにおいは、いつもどこか懐かしい気持ちにさせてくれた。
 伊藤君は大きく深呼吸した。

 「先輩、いいにおいがしますね」
 「うん。私、このにおいが好きでよくここに来るの」

 店内はオープンガーデン風に商品が陳列されており、今日のようによく晴れた日には天井を開けるので、実に開放的だ。
 見覚えのある店員さんに会釈され、小さく手を振って返す。とりあえず店内を一周だけして帰ることにしよう。10分もかからないはずだ。

 「ごめんね、付き合わせちゃって」
 「いいお店ですね。俺もここに通おうかな」
 「え、伊藤君もガーデニングするの?」
 「いえ、全くわかりません」
 「なにそれ」
 「先輩に教えてもらおうかな、って思って」
 「なに言ってんのよ」
 「先輩、仕事のこと以外はなにも教えてくれないじゃないですか」

 なにやら伊藤君が拗ねている。どうした反抗期か?

 「でもこれは見たことありますよ。えっと…」
 「サンスベリア」
 「さっきの洋食屋さんにも置いてありましたよね。もっと大きいのが」
 「私、伊藤君ってサンスベリアみたいだなって思ってたの」

 しまった、口を滑らせてしまった。

 「え、どの辺がですか?」

 嬉しそうに私を覗き込む伊藤君。その笑顔からマイナスイオンが出てそうだからだよ、などとは当然言えず、私は顔を背ける。

 「なんだっていいじゃない」
 「言わないと、今日のこと会社に言いますよ?」

 今度はいたずらっぽそうにこちらを見ている。伊藤君がこんなにころころ表情を変える人だなんて初めて知った。

 「言えばいいじゃない、別に。私が部長に怒られるだけだから」
 「じゃあ、先輩はいつからガーデニングをしているんですか?」
 「…なんで」
 「知りたいからです」
 「…4年くらい前かな」
 「始めたきっかけはなんですか?」

 私は言葉に詰まってしまった。

 「教えてください。俺、先輩のことが知りたいんです」

 私は遠くにその花を見つけると言った。

 「マステバリア」

 マステバリアは小型の洋ランで不定期に花を咲かせる。暑さに弱く、極端な湿度にも乾燥にも弱い、育てるのが難しい花のひとつだ。

 そんなことなど露程も知らなかった私は、当時付き合っていた男にこの花をねだって買わせた。長細い茎の先にある、クチナシ色の三枚の花弁はどれも先が細長く、三角形に近いかたちをしている。こんな形の花、初めて見た。一目ぼれだった。
 男は10歳年上で、交際してから妻子持ちだと知り、いつか離婚するもう少し待ってくれと3年間言われ続け、この花を貰った次の日にいなくなった。悲しみに暮れた私は同窓会で再開した元カレと交際を始めたが、あいつにも妻子がいた。

 マステバリアを育てていれば男は帰ってくるんじゃないか、そんな淡い期待を込めて水を与え続けたが、水を与えすぎたせいで根を腐らせマステバリアは枯れた。

 会社を休職した私は、以前から店構えが気になっていたこのガーデニングショップに立ち寄り聞いた。「なぜマステバリアは枯れたのですか。私は何を間違えたのですか」

 店員さんは正しい育て方を丁寧に教えてくれた。
 「マステバリア以外にもたくさんの草花がありますからね、気になるものがありましたらどれでも育て方をお教えしますよ」そう言われて私は店内を見回した。本当にたくさんの花があった。なによりこの店の匂いが好きだった。
 
 鉢をひとつ買って帰り、店員さんに教えられた通りに育てていると、2か月後に小さな花を咲かせた。日々の手入れにちゃんと報いてくれるこの生き物に私は愛着を持った。

 程なくして私は復職した。育てる植物は日に日に増えていき、今では部屋中に植物が飾られている。もちろんワンルームの小さなベランダにも。

 「綺麗な花ですね」伊藤君が私に問いかけている。
 「なんだか、この花、先輩みたいですね」

 私は少し考えてから答えた。

 「そうかもしれないね」

 復職後の私は、上司から栄転の誘いを受けても断り、友達から合コンの誘いを受けても断り、親から見合いを提案されても断った。ちゃんと手入れをすればちゃんと報いてくれる花との生活に満足していた。植物は噓をつかない。もちろん不倫もしないし、突然いなくなったりもしない。私にはこれで十分、そう思っていた。しかし周りの人達は扱いに苦慮していたのかもしれない。暑さにも湿度にも乾燥にも弱い。このマステバリアのように。

 私が深いため息をつくと、伊藤君がクスクスと笑い始めた。その声でようやく私は我に返った。

 「なに?」
 「謙遜しないんですね。いつもの先輩なら、いやいやそんな、って言ってますよ」
 「でもマステバリアって…」
 「綺麗じゃないですか、すごく。すごく綺麗な花です」

 伊藤君は、お気に入りのおもちゃを見つけた少年のような目でマステバリアを見ていた。君はそんな表情もするのか。こちらの事情も知らないで、なにがこの花、先輩みたいですね、だ。私だってその花が大好きなんだ、一目ぼれしたんだ、君のような若造になにが分かる!
 ひとしきり心の中で悪態をついたあとで私は、長い間止まっていた時計の針が動き出すような感覚をおぼえた。

 「俺、マステバリア、買って帰ろうかな」
 「止めときなさい、育てるのすごく難しいから」
 「そうなんですか?じゃあ先輩、育て方教えてください」
 「そっちにしたらいいじゃない」
 「サンスベリアですか?俺に似ているっていう」
 「ところで伊藤君って寒いの苦手?」
 「なんですか急に」
 「すごく肌の色、白いしさ。寒いの苦手?」
 「どっちかっていうと、得意です」
 「そうなんだ。じゃあ伊藤君はサンスベリアに似てないね」
 「どういうことですか?」

 伊藤君はサンスベリアじゃなかった。では一体どんな人なんだろう。ころころと表情を変える人。私をマステバリアみたいだと言った人。そしてものすごく年下の人。
 開いた天井から風が吹き込み、花や木が仄かに香った。

 「いいかおりですね」
 「そうね」
 「同じにおいが好きな人とは、きっとうまくいくと俺は思います」

 伊藤君はいつもの笑顔でこちらを見つめた。やはりその笑顔からマイナスイオンが出ているのかもしれない。私は小さく頷いて返した。

(了)

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