上方落語協会志演義③〜繁昌亭創成期~

2006年9月15日に「天満天神繁昌亭」オープンしました。建設前の上方落語協会員の予想(不安)に反して連日、大入満員で、全員がビックリしました。

現在の繁昌亭運営の基礎は、どのようにして出来上がったのか?
そしてどのような紆余曲折があって、今の運営になっているのか?

そこらをお話したいと思います。ある意味、当時を知る芸人さん達は懐かしい気持ちになる情報です。まずは「創成期」編です!
(※一応、協会のルールも覚えてる範囲で書いています。少し間違ってたらすいません)

【大前提】今の繁昌亭について

<繁昌亭昼席の番組について>2024年5月7日現在

①繁昌亭昼席の番組は、繁昌亭番組編成委員会が番組を決定。
 ※1週間交代で番組が変わるのが基本。
②昼席のトップ(前座枠)は事実上、「東京の二つ目」資格を持つ人。
 ※「東京の二つ目」という身分については、知らない方は、下記YOUTUBEを参照)


③昼席の二つ目以降の出番は、入門10年以上。
昼席の二つ目以降の出番資格については、ここ数年でも少し変動あるような気はします…。昼席の二つ目は「東京の真打」になるかならないかぐらいの人が多いです。
④楽屋の用事は、楽屋番という係が行う。
※東京の前座さんがする仕事内容に近い:階級ではなく、楽屋番は仕事内容
※楽屋番頭(がくやばんがしら)は、楽屋番のスケジュール管理を行う。
⑤鳴り物担当は、鳴り物担当者のスケジュール管理を行う。
※トップで鳴り物が打てる人間でスケジュールが合う場合はその人が兼務
昼席の出演管理は「最も出演していない噺家が選択上位になる表」をエクセルで作成し、その上位の者に事前にスケジュールを聞き、番組編成委員会が、できるだけ、より上位のメンバーを中心に番組を色合いで組む。
※遠方の噺家や本人や師匠などの特殊事情の出番は、注釈をエクセルに記載《大阪に来れる時期に出番を自ら打診・しばらく休演・1枠のみ出演等をかつては記載していましたが、今はどうか不明です》
⑦表には「まねき(看板)」があり、一定の芸歴を越した人間あるいは繁昌亭大賞各賞を受賞した人は、表に出してもらえる。
当初は芸歴30年で全員作成してもらえるとなっていた。後に25年で全員作成してもらえる。かつては「繁昌亭大賞・輝き賞」以外の繁昌亭大賞各賞を受賞した人は看板を作成してもらえた。←輝き賞は芸歴10年以下が対象で受賞しても「トリ・中トリ」以外の出番だったため、輝き賞を受賞した人には「まねき」は作成しなかった。

<繁昌亭昼席の「落語」出演資格>2024年5月7日現在

①上方落語協会会員《大前提》
②入門3年以上かつ、楽屋番を30回以上かつ1年以上経た者

(※以前はこれに「わちゃわちゃ落語会」「火曜の朝席」の出演経験者)
→この条件をクリアした者は、昼席の出演管理エクセルに登録し、
 登録後直後できるだけ早期に出演。

※楽屋番頭は、昼席出演資格を新たに有した噺家を事務局に告げて、
 昼席出演管理エクセルに登録してもらう。
③2018年4月(上記ルール施行当時)において、昼席出演経験者は上記の条件をクリアした者とみなす。
※また一定の芸歴を経て(8年?10年?・・・このルールの設定時の二つ目以上の出番位置の芸歴を持ち)、新たに協会に入会した噺家も上記の条件をクリアした者とみなす(現状、「免除の芸歴」は正確には不明)
※前座枠から二つ目以降への昇進時期は1月1日を基準とした芸歴区分だったと思います(現状、正確には不明)。
※前座枠に出演する者は、公演時点で6年目(6年目を含む)までは送り出し(終演時刻+送り出し)までを出番時間(業務時間)。7年目以降で飛び出し可能。

<繁昌亭朝席・夜席について>2024年5月7日現在

朝席・夜席は協会員への貸席となっています。
借りる時の条件は下記です。

①上方落語協会会員のうち、芸歴10年以上経た者《大前提》
②トリは上方落語協会員で芸歴10年以上の人間の落語
(②については正確には不明?知らない間にルールが変化してるかも?)
③夜席において協会員が誰も借りない「空き枠」となった場合は、協会主催の公演を打つ。
※その他、何か協会や繁昌亭が必要と考えた繁昌亭主催公演は適宜行われる。

【繁昌亭創成期】

それこそ、繁昌亭ができた当初、ルールが二転三転したり、偉い師匠方が突如叫び出す「後出しジャンケンのようなルール」や「相手によって変わるルール」によって、下っ端の協会員は怒られることが多々ありました。

そんな状況を見て、
月亭八方師匠が「まあ、今は戦後のドサクサみたいなもんやから…」とよく言うてはりました。
もちろん、システム改善のためにルールは日夜変更しても良いとは思いますが、そもそもそのルールが穴だらけや「ルールの発布や施行の方法・猶予期間・周知期間」について考え方が無茶苦茶だったり、大変な時代でした。
(今でもまあ、噺家がやることですから・・・という部分は多分にあります…)

<夜席を江戸落語にも貸していた!>

前述のように、現在の繁昌亭夜席は、上方落語協会員が借りて公演を行う形です。
※ただ、あくまで主旨は、上方落語協会の代わりに、上方落語協会員が上方落語の定席の夜席の番組公演を担っているというのが本来の意味なので、借りられるのは協会員であり、番組のメインが「協会員による上方落語」である必要があります。

しかし、繁昌亭が出来る寸前は、そんな大儀名分よりも経営維持の方が重要なので、毎日昼間は寄席でやるが、夜に誰も借りない場合は「ピアノの発表会とかそういう貸館業も必要ではないか?」などの心配も出ていました。
そんな不安もあったので、初期はまだルールが整備されておらず、繁昌亭夜席で「立川談春独演会」が2日間行われました。また「三遊亭好楽一門会」もあった気がします(好楽一門会かは不明ですが、東京の落語家の一門会は少なくとも1回はあった)。
※繁昌亭の立川談春独演会の2日目に、私は楽屋へ見学に見に行きました。立川こはる(現・小春志)さんが、まだ前座としてついていました。

<ルール変更の大航海時代!>

この時期の繁昌亭ブームによって、上の師匠方が(皆が?)、
「繁昌亭とは上方落語の定席だ!(上方落語の殿堂・聖地)」
というふうに自信を持っていき、そういう風に運営の舵を切っていきます。

そうなると、
「繁昌亭の運営ルール」もそれに対応するように変更されていきます。

つまり、繁昌亭ブームによって、すぐさま
「夜席で、江戸落語やピアノの発表会を呼ばないと経営が…」などという心配は一気に吹っ飛び、

「繁昌亭で江戸落語の会をさせるとはけしからん!」
 (→いやいや、「良かったらやって下さい」言うて開催したやん…)
「繁昌亭は、上方落語を本格的に見せるところや!」

という風に上の師匠方の(皆の?)意識改革がなされました(笑)

しかし、そうなると、
「繁昌亭が上方落語を本格的に見せるところである」という主旨を守るルール作りが必要になります。(逆に言えば、「それ以外の主旨の公演はルール違反である」ということを明示する必要が出ます。)
そんな訳で、それを実現すべく、
上方落語協会の総会では、しょっちゅうルール変更が提唱されました(笑)
※しかも、ルール変更のタイミングが突然であり、変更の準備期間がなく、右往左往しました。まあ「ルール変更に準備期間が必要」などと考えるような年配の師匠など、当時はいないのですから、現場のスタッフだけでなく、平会員はそれに合わすのに大変でした(今もそういうところはありますが…)。もしそれについて言おうものなら、「ワシらに文句あるんか!」「ワシらも頑張ってるんやから、お前らも頑張れ!」という返事がエライ人から返って来るのは目に見えていますので、「頑張りようがないけど、頑張る(お客様を怒らしたり、自分が損したりしながらすり抜ける)」という”いかにも日本人らしい形”で対処していました。
(※まあ今も、噺家は徒弟社会なので、そういう部分はあるのかもしれませんが・・・)
そんな訳で、繁昌亭創成期は、ルール変更の大後悔時代ともいうべき時代だったと思います。
オープン直後、月亭八方師匠が「戦後のドサクサみたいなもんやから」と言うてはったと書きましたが、そのドサクサ期間は体感としては長く、
私は

「この戦後のドサクサみたいな期間はいつまで続くんやろう…」

と思いましたし、途中から

「あぁ、時代というのは常に変わり続けていて、常に過渡期なんやな…」

という思いになりました(今もそう思っています)。

【第1次三枝政権からの運営組織→繁昌亭創成期】

上方落語協会は、現在も理事会は別として、実働組織として委員会制度があり、各委員会が具体的に協会事業において責任をもって活動しています。

第1次三枝政権発足から繁昌亭創成期においては、
下記のような委員会がありました。
(他にもあったのかもしれませんが…思い出せる範囲で下記です)

●繁昌亭運営委員会:繁昌亭の番組含め、繁昌亭全般について決める
●番組編成委員会:島之内寄席などの協会主催公演や外部委託公演の番組を決める(繁昌亭の公演以外)
●企画委員会:協会について考える(会長のアイデアを具現化)
●広報委員会(のちに「んなあほな編集委員会」):協会誌「んなあほな」の編集
●図書委員会=平成落語荘の管理、過去のビデオ映像のDVD化等

※第1次仁智政権で、仁智会長が委員会の名称を変えるまでは、ずっと
「番組編成委員会(通称・番編)」と「繁昌亭運営委員会」とをゴッチャにしている人が多かったです(笑)
 

※なお、露の五郎会長時代には、そういう組織があったかは知りません。
私は三枝会長時代に「企画委員会の委員」として「委員長=仁智師匠」に呼ばれました…。呼ばれた時は、「ええっ?こんな芸歴若いのに?何で?」と思いましたが、企画委員会は「アイデアを出し合う部署なので、芸歴関係なく、参加してほしい」ということでした。その意味では当時、めちゃくちゃ若かったです。(副委員長という役職があったのかは不明ですが、仁勇師匠がそういう感じで参加されていました。他には敬称略で、あやめ・松喬(当時・三喬)・遊方・銀瓶・染雀・米紫・たま、、、発足はこのメンバーだった気がします。時期によって入れ替わりがあるのですが、「三風・三扇」の両師は途中だったと思うのですが、発足時だったかも…。ちょっとうろ覚えです。←三風師匠はアイデアマンなので、仁智師匠が来て欲しいという話だったのですが、「既に別の委員を重複していたのでどうする?」的な部分があり、後から参加だった気はします)

以下、本日の記事の目次です。


それでは、繁昌亭創成期の色んな出来事をご紹介します!
(ただし、事実と噂とが錯綜するエンタメとして「三国志演義」気分でお読み下さいませ)

【楽屋番制度】

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