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やってんのか、やらされてんのか

 風越学園にいってから問いが生まれ続ける。視察日に、この学校の今後さらされる評価について気になっていたんだけど、中学校までなら高校みたいに○○大学に進学何名!みたいな評価のされ方はないので、一気に人気が落ちるとか、成熟していない社会から短絡的な評価をされることは無さそうと勝手に思った。

 もしも、思っているよりも評価されなかったら?評価に媚びて、評価を得るために教育内容が変わったら?

 1回そんなことを考えたみたけど、風越にはお互いにちゃんと話す土台があるから大丈夫そうだとは思う。そして、財政健全化や効率化に飲み込まれ、どんどん貧しい、豊かじゃない方にいく一般的な公立とは違うと感じている。

 評価に媚びてすべきだと思っている内容とは違う内容をやり出したときは、それはやりたくてやっているんじゃなくてやらされているとき。この前青木真也選手がnoteでそんな感じのこと言っていました。純度を下げずに降りずに創ります、と。自分を隠さず出す、それを見てくれってことです。

 お金を稼ぐためにすることは結構「やらされる側」になってしまうと思うのです。なにせそれをしないと生きていけないから、主導権が自分ではない相手にあるわけで。そういうときがあるとしても、そればっかりで生きていきたくはないなと思います。

 それでも周りからあまり認められるようなことをしていないなら、自ずと評価は下がると思います。そこで大事になってくるのは美意識じゃないでしょうか。

 読書をするきっかけになった本。今からもう一度読みます。1月25日。

追記:やってんのか、やらされてんのかって、心の持ちようの側面もあると思っています。回ってきた仕事をただやらされてやんのか、どうせならもう少し活きた仕事にするのか。そこは結構自分次第だと思っていて、どうせなら周りの人にとってもやり甲斐を感じる活きた仕事を作りたいです。PTAの仕事に取り組んでいるのはそんなところもあります。

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