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社会人1カ月過ぎて感じたこと

自責思考という言葉の罠

「自責で捉えろ」「なんでも自分事化しろ」

学生時代のインターンの時からずっと言われてきたことですが

頭では分かっているけれど、実際にはできないランキングTOP3の1つだと個人的に思っている。

入社してからの研修でも何度も耳にする機会があったが、どこか腹落ちしない感覚に陥っていた。そんなあるとき、大学時代にお世話になった方とオンラインで話しているときに言われた言葉に今まで抱えてきた頭のモヤモヤがスッと消えた。

「しょうたろう、いいか。自責思考とは問題解決することなんだよ」

今までの私は、「自責=自分の責任にすること」だと思っていた。

正しくは「自責=自分の責任において問題解決をすること」だと知った。

今までの私は「自責で捉えろ」と言われてもどこかで「いやぶっちゃけ俺のせいじゃねえしなあ・・・」って心のどこかで思っていたわけだ。

でも他人の責任範囲でも自分の責任下で問題解決をする。こうやって自責を解釈をするとわかりやすい。

そもそも、自分の責任じゃないものを自分の責任として捉えると、正しい原因を出し、根本の問題解決をすることができないようにも感じる。特に僕は感情移入がとても苦手なので、うまく自分事化してとらえられない。

他人の責任でも自分の責任において問題解決をする。

パフォーマンスとモチベーションについて

僕はモチベーションという言葉が嫌いだ。いや、正確には嫌いになるように自分をコントロールしている。理由は簡単で、基本的にメンタルが弱いからモチベーションに頼ってるとシンプルに疲れちゃうから笑

まぁ個人的な話は置いといて、やっぱりパフォーマンスとモチベーションは仕事においては分ける必要があるなと思った。

社会人はプロ。お金を対価としてもらうプロとしてパフォーマンスとモチベーションは切り分けるべき。例えば、メッシが「今日はモチベーションが上がらないから休むわ」って言ったら「いや、プロだからやれよ!」ってなる。それと同じで我々もプロである以上、ここはしっかり分けなければいけないなと思う。

心理的側面でいうと、モチベーションというものはある一定成果が出るとか認められるとかその辺りに紐ついていることが多いかと思う。なので、モチベーションが低い状態でもPDCAを回す→結果がでる→結果が出ると周りから認められる→モチベーション上がる、みたいな循環が健全なのではないかと感じました。

まぁ、私はちょっと頭おかしい系サイコパス人間の可能性が高いので全員これに当てはまるわけではないかと思うが、少なからず当てはまる人はいるのではないかと思う。

私の大好きな漫画の一部です。『左ききのエレン』 23話目より

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普通でいい

ここからは、ちょっと話の角度を変えたいと思う。

私は社会人になって、生まれてはじめて自分をレベルの高い環境に身を置いた。元々、劣等感とは仲が良くて、自分はあまり価値がない人間だと思っていたし、自信もなかった。受験も、普通にやれば入れるところばかり受けて、入学当時の順位はだいたい上位のほうだった(卒業の時は下位の方笑)

意図的に自分よりレベルの高い環境に身を置くことを避けてきたし、正直怖かった。でもその結果、何事も人並みにこなせるようになっていたし、このままぼんやりと生きていくこともできたが、私は社会人というタイミングでそんな環境を飛び出す決断をした。

大学時代、その劣等感をエネルギーにして、ヒッチハイク、バックパッカーなど様々なことにチャレンジをしてきた。少しずつ自分の嫌いな自分から抜け出しているような感覚になってきて、昔イメージしていた、すごい人に、少しずつ近づいているのかもしれない。そう思っていた。

そして大学卒業直前、インターン先の後輩と話す機会があった。

後輩「新しい趣味を探したいんですよね~」

私「なんでもやってみればいいじゃん!」

後輩「なにか始めると人と比べちゃって…」

ふと自分の昔の姿と重なった気がした。

もし自分が逆の立場で、目標とかがなくて日々暇を持て余していたら、劣等感を覚えたのかなと。

誰かがイキイキと楽しく生きることで、誰かにとっての劣等感に繋がることもある。他人のことだから関係ないと片づけてしまったらそれで終わりだが、それだったら私はすごくなくていい。普通でいい。

長所伸長

そんなことを考えながら、あっという間に4月に入って社会人生活が始まった。大学時代、少しずつ克服してきた劣等感はすぐさま私のもとにやってきた。考えてみれば当然だろう。意図的に自分よりレベルが高い環境に身を置いたのだから。

実際、同期も先輩も、自分より2周り3周りもすごい人だらけだった。みんな前向きでエネルギーにあふれている。そんな人たちを目の前にした私は、自分は大したことのない存在なのだろうと思うわけだ。

さらっと書いたが、現実はもっと残酷だった。今まで少しずつ積み上げてきた結晶が、少し目を離した隙に簡単に崩れ落ちていく感覚。しかし、その惨めさと同時に、憧れもあった。その人が見ている景色を見るために努力して、すごい人になって、すごい体験をしてみたいとも思う。

あれ?ふいに卒業前の後輩との会話がフラッシュバックしてきた。自分が力を付けたことで周りに劣等感を与えることもあるということを。

もしかして、自分が努力することって、有能感という限られた幸せになる食べ物を奪いに行くことなんじゃないか。

あなたがすごくて、自分が劣等感。じゃあ自分がすごくなって、周りに劣等感。それでいいのか?

ビジネスの世界で生きていると、有能感の感じ方が「仕事ができる」の1つになってしまいがちだなと思う。逆に言えば、それを奪い合うことでしか幸福感を得ることができない

一方で、有能感の感じ方が1億くらいあったら、みんながそれぞれ有能感を獲得することができる。だから、有能感をみんなの物にするために、色んな「すごい」を見つけて、それぞれがそれを伸ばす。長所伸長ってやつだ。

強くなりたい、弱くなりたい

やっぱり私は「強く」なりたい。もっと自分のできるところに目を向けて、自分に自信をもって生きられるくらいは「有能感」をつくっていきたい。でも同時に弱くもなりたい。「弱い」ところはちゃんと弱いままでいい。弱みを打ち消して、他人の有能感を奪いにいこうなんて、みんなハッピーになれないから。

自分は自分らしく生きていく。自分の安心感を他人からの評価で作ってしまうと、それが消えてしまった時どうしようもなくなる。本物の安心感って、自分の信じる自分を突き詰めていくことなのかなと思う。


最後に好きな言葉を載せておきますね!ではまた!

この世界は残酷だ。しかし、それでも君は確かに自分で選ぶことができる   引用:苦しかったときの話をしようか ビジネスマンの父が我が子のために書きためた「働くことの本質」


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