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からだ手帖 1月

人間のからだも、自然ならば
 養老孟司さんの本を読んでいて、「人間だって自然である」というくだりに、へえ?と納得のような違和感のような変な感じがした。

 自然だから、って、どういうことだろう。

 確かに生き物、地球上の他の生物同様、何かを食べ排泄し群れたり1人になったりしながら、生きている。だが、山とか、オオカミとか、雨晴れの天候とかみたく、野生、こちらのどうにもならないもの、と言うイメージが無かった。
 次の瞬間、明日なんてどうなるか分からないし、人工物のように、制御しきれない?

 制御しきれる、するものと、思っていたのか。

 社会というものの中で、常にここにいるもの、月曜から金曜の8時半から5時まで、その建物のこの部屋で白衣を着て笑顔で挨拶して患者を迎えているもの。 
 約束は守るもの。
 その枠に、合わせなければならない、ズレたら、できる限り戻して。
 相当の理由、病気や家族の不幸、介護でもないかぎり、それを破ることは許されない。
 私は、それらの「社会がまわる前提条件」が、イコール現実の自分だと思っていたらしい。


 一方で、子どもは自然、というのは、分かる。

 昨日の夜まで部屋を走り回っていだと思ったら次の朝に高熱。眠い、お腹空いていると機嫌が悪くなるし、ご飯いらないと言った10分後、ボクのおかずは?と席について待っていたりする(彼の分は姉にあげてしまったので、仕方なく自分のを分ける)。

 彼らの不調や病気は、予兆はある時もない時もあり、私達親は常にそれを嗅ぎ取ろうとする。土曜の朝なら仕事休まなくても病院に連れて行ける。診断名と薬がもらえたら何とか‥などと甘い思惑をいつも抱えて。しかし、だいたいが、仕事の始まる月曜の朝とか、病院が休みの木曜に、彼らは立ち止まるのだ。
 もう今靴履いてランドセル背負って家でないと、間に合わないっていう時に、なんかお腹痛い、と立ち止まるのである。

 こっち(母)がどんだけ早起きして、自分の支度全部すんで掃除も洗濯物も朝食弁当全部おわってても、無理やんね?

 毎日選択をせまられる。
a.学校でしんどくなったら先生に言ってとそのまま送りだす。
b.学校休ませて仕事休む。
c.学校へ車で送る。
d.受診して学校遅れて行かせ自分も遅れて仕事に出る連絡をする。
e.夫が仕事を休んで対応する(大体もう家出たあとなのでほぼ使えない選択肢)
 
 でも自分もう年休も僅かだしそもそも今日業者と打ち合わせも入ってて、今日の患者さん前もこっちの理由で休みになってるし…。
 このまま行かせても何とかなる気もする。
 でもインフルエンザやコロナだったら。
 登校途中で動けなくなるような腹痛に発展したら?

 アニメ呪術廻戦の中で、東堂が0コンマ何秒かの間に戦いの展開を考えるシーンがあったが、実際それぐらいで判断してる、というかせざるを得ない状況が毎日のように降ってくる。
 そして、時間切れとともに仕方なく判断し、本当にこれで良かったのか?という疑問と罪悪感が(仕事を休んだら職場に、子どもを送り出せば子どもに対して)、腹の底に残るのだ。
 毎朝目覚めて、何事もないよう、祈る日々。

 森で生き抜く野生動物か。
 
 あ、やっぱり、人間も自然だな。
 年末年始にかけて、私はギックリ腰で動きづらかったが、痛みが出にくいようその日その日で自分の体の様子を伺い、力の入れ加減とか、靴下履く時の足の向きとか、おそるおそるやっていた。
 制御とかじゃなく、お伺いして、付き合っていく感じ。
 私のようなタイプは、大きな痛みや、何かしらの不調がないと、自分の体が自然であることを忘れやすい。人間は、山や海や野生のオオカミと同様、その日その時の様子をみて小さな取捨選択を繰り返し、生きている。

 無理なもんは無理。自然なんだから。
 決まりきっていないから、美しい。


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