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家族の手ざわり

 家族ってなんだろう?
 改めて考えると、うまく言えない。
 決めてしまいたいような、決めつけられたくないような。
 それは逃れたい血縁だったり、求めてきた理想の暮らしであったり、現実とのギャップ、消えて欲しい黒歴史、思いもよらなかった楽しさ。
 言えるのは、一点一箇所、一つのカタチにとどまらないこと。常に同じでもないし、ずっと変わらないとこも混ざってる。

 そう、
 家族は、色んなものが混ざって在る、
 色、かな。
 それぞれの色も場所もずっと同じじゃないし、変わらない色もある。
 境界も滲んだり、くっきりラインがひいてあったり、さまざま。

 その混ざりようといったら。
 例えば、私は実家に戻れば、母にいまだにちゃん付けで名前を呼ばれる。
 私もうアラフィフですよ。
 こちらから見た母だって、幼い頃見たドーンとした安定感はなく、ちっさくちっさくなって、コケたら骨折れそうなんですよ。
 でも、子を心配するのは変わらない。
 この間も実家に帰省していいか、と母に電話したら、来る間も帰る間も、家に着くまで心配するのがしんどいから帰るな、と。
 …会いたいのか会いたくないのかよく分からなくなる。
 そこで、電話を代わって夫に母と話してもらった。
 帰省で(私が')200キロ一人で車を運転するの、しんどいやろし。
 あ、言ってくれた。
 正直しんどいなーと思っていても言えなかったのに、母親だけがその気持ちに気づいていた。夫に気ーつかって言えないでいるところまで、見透かされていたかのように。

 電話が終わった後、夫は
「言葉の端々で会いたい、と思ってるのが分かる」
とのたもうた。
 横で聞いていた私は、どこでどう聞いたらそんな話になるんだ?といぶかった。まあ、空気の読めない私には分からない、会いたいのと心配とムラ社会での世間体が、母の中で混ざりまくっているのろう。

 当日、ドキドキしながら実家の前で電話すると、そうなんー?と普通にドアをあけてくれた。
父も母もニコニコこちらをみている。お互いに笑顔で立ち話して、またね、と別れた。
 車に乗り込むと、両親が居なくなってしまうことへの不安がシュルシュルと萎んだ。そのとき、はじめて、私はそれがすごく怖かったんだと気づいた。

 めんどくさいね。
 たぶん、家族って面倒くさくて、親にとって子は、いつまで経っても小さい子で、時折深い所での繋がりにハッとさせられる。
 そんな手触り。




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