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【掌編小説】まーやとの約束

まーやとの約束
神宮 みかん
 リストラされた私はとぼとぼと歩道を歩いていた。このままではいけない、と現実を受け止める為に顔をあげた。
 次の瞬間、横切ろうとしている影と黒光りする高級車に気づいた。私は危険を感じて右側の歩道から左側の歩道に石を投げた。高級車はクラクションを鳴らして何もなかったかのように走り去っていった。
これが私とまーやの出会いである。
私はまーやの如何ともしがたい愛らしさを即座に好きになり、まーやを抱き抱えようとした。
でも、まーやは驚いたのであろうか。
一目散に逃げ出した。
逃げるまーや。追う私。どちらも必死だ。
まーやが急に右に曲がる。逃がすか、と私も右に方向転換した。
右に曲がるやいなやおかしな光景が目に飛び込んだ。なんと、まーやはそこで毛繕いをしていたのだ。
私はなんとかこの手で触れたい、と恐る恐る近づいた。
 距離を詰めるにしたがい、まーやは、艶やかな毛並みを見せ人懐っこくニュア、ニャアと初めて出あった時の愛くるしさで鳴いた。
 私が抱きしめようとすると、まーやは私の腕を蜃気楼のようにすり抜け、進み続けた。幻影を見ているのだろうか。まーやの向かう先には木の板でまーやの家と彫られたイギリスの片田舎にあるようなロッジが建っていた。
ロッジの中は梁が高く、天井ではフィンが回り穏やかな雰囲気を作り出していた。
そこには誠実そうな男がいた。何をしているのだろう? と目を凝らすと、彫刻を掘っているようである。
男は彫刻に熱中しているのだろう。私には全く気付かない様子で言った。
「まーや。お帰り」
「ただいま」
 私はこのやりとりから、この茶色い三毛猫がまーやという名前であること、それと同時に言葉を喋れる猫であることを理解した。
 にわかに、ここは人間界だよな、と現実を疑う意味で外を見渡した。
外は美しいイングリッシュガーデンである。五月ということもあるのだろうか。木々が青々と生い茂っている。正面にあるケヤキの木には巣箱が備え付けられ、スズメが軽やかにステップをしながら出たり入ったりを繰り返している。
「まーや。遅かったね」
 男はまだ私に気づいていないようだ。
「車に轢かれそうになっちゃって。参ったよ。でも、この人が助けてくれた」
「よかったな。命の恩人が来てくれているんだな」
 答えるも、彼は振り向こうとしない。私は思い切って言った。
「少しお話をしませんか?」
「悪いが、私は振り返ることができないんだ。前を向くことを決めたのだ」
「どういうことですか?」
「私は体を壊して何事も上手く行かなくなり、ビルから飛び降りようとしたんだ。それを見ていたのがここにいるまーやだ。まーやの愛くるしい表情が死にたい気持ちを抑えてくれたのだ」
「そうなんですか?」
 私の質問に対して男が答えるよりも早くまーやは言った。
「そうだよ。僕が命の恩人だよ」
「それから私はまーやの家に連れてきてもらい、約束したんだ。後は向かない。常に前を見ている」
 即座に今の私が目に浮かんだ。
再起を諦めかけている私。目標を見失いかけている私を客観的に見ることができた。
私たちはまーやの家でゆっくりと喫茶をした。
帰り際、彫刻家は絵本も書いているので、よかったら読んで欲しい、と勧めてくれた。
絵本は電子であり、本が持つ特有の重みはなかった。
でも、愛くるしく笑う猫が表紙の絵本を見開くと、そこには愛情が詰まった猫たちの話が描かれていた。
手に取るようにまーやが傷ついた彼の心をどれほど癒し、癒しているのかを理解することができた。
きっと、私の傷ついた心も癒すだろうと思えた。
 翌朝、靴を履いた私はまーやの家を目指して歩きだした。
 和やかな風が吹いていた。
 

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