現実

日記ではないですが、思ったことをまとめます。

現実は全て嘘だ。これは逃避ではない。私が思う事だ。

私たちが見ている、人、物、色、これらは全て作られた常識の上で成り立っている。
例えば市場で魚を見た時、魚だ、美味しそう、という視覚的情報のみを人間は取り入れている。
しかし、それは動物であり、その魚にも経験というものが存在する。
私たちが監視カメラではなく、人間である限り、他人や魚の視点を見ることができない。だけど、自分が今見ているものは魚であり、誰がどう見ても魚だと考えるだろう。それは昔の人間が海の中の生き物を狩り、食べた時から魚という種類の名前が付き、食べれると定義付けられた。私たちが見ている魚はその昔の定義により、食べれると判断している。
つまり、一番最初の人が魚を食べる直前までは未知の生物であり、この世界で自由に存在していた。
だが、いつしか人間が勝手に名前を付けて、侵略してきた。そのように、人間は様々なものに手を伸ばし、コントロールし、常識を作ってきた。ついには、電気を操り、空まで飛べるようになった。
そうして凝り固まった世界に生まれる赤ん坊は「これはリンゴだよ」「あいうえお言えるかな?」などと常識を一気に叩き込まれて、現代を生きることになる。だから、気づかない。自分が生きている世界の新鮮さに。常識の中にはもう新しいものなんてない。魚を食べる前の生物的な記憶を呼び起こさない限り、この世界をまともに見れない。

言葉だってそうだ。誰かが意思伝達の為に言葉というルールを作った。アルファベットはフェニキア人が元になっているが、フェニキア人の中にも作った人がいるはずだ。という事は、本来は人は分かり合えない生き物なんだ。そこを人間特有の知恵を使って、乗り越えた。これは素晴らしい事だ。だが、現代はその言葉の意味を考えないで使う人が多いし、私も気を抜けば考えないで使う。それは私たちが言葉というものを信じ、常に受け止めているからだ。

さらに、色に関して、私たちが普段見ている色は本物ではないと思っている。この人間という生物の眼球に見えている色なだけであって、全生物の視点を抜けば、思いもよらない色をしているに違いないと思う。何なら、私たちには見えていないものにも色があると思う。空気、感覚、感情、など常に色が動いている気がしている。だが、これを言っても絵空事でしかないと思われるし、じゃあ何色なんだと言われると、もちろん答える事ができない。だが、大切な事は信じている事だ。全てに色がある、と私は思うし、見えている色が全てだと言う人が大半だろうと思う。そういう学論もあるかもしれない。だが、信じる。他人が信じない事を信じる。

これまで、生物、言葉、色と書いてきたが、結局のところ現実と呼ばれるものは今見えているもの、聞こえるものなどの直接的情報のことである。発展しきった現代で、楽しく、面白く、情熱的に生きるには現実と向き合い、新しい何かを人生を通して見つける事が良いと考える。この発展しきった世界では難しいし、ほとんど飽和状態だと私は思う。
だからいつも現実はつまらないし、重く、残酷なんだ。では、どうすれば良いか。

それは信じる事だと私は思う。
何を信じ、自分のものにするかだ。魚を食べた人も、言葉を生み出した人も、最初の人は新しいものを信じたはずだ。何かを生み出す前はいつも、「そんなの現実的じゃない」と言われる。しかし、今生きている時代は、当時では非現実的と思われたもので出来ている。
絵画もそうだ。印象派の画家も、キュビスム運動もフォービスムも、最初は批判から始まった。モネの、印象・日の出を見た批評家が「印象だけで描いてる」という批判から、当時の画風が印象派と名付けられた。だが、彼らは信じた。ピカソもキュビスムの多面的に表情を捉える事こそがリアルなんだと信じた。
つまり、現実を見つめるのではなく、何を信じ現実とするのか。それが生きていく中で大切な事だと思う。見ている世界を純粋に見過ぎていると、ずっと受け身で直接入ってくる情報に押し潰されるだけだ。もっと浮世離れしても良いと思う。見ているものは全て嘘だと思い込むくらいが丁度良い。
現実は自分で作るべきなのだ。

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