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心躍る一品を届けたい。 第1回日本おいしい小説大賞受賞作『七度笑えば、恋の味』第1章全文公開! #2


『七度笑えば、恋の味』試し読み つづき)

 
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 積み木の塔の崩壊は、数日後、唐突にやってきた。
 その日は朝から慌ただしかった。皆川さんから連絡があり、小学生のお子さんがインフルエンザになったため、少なくとも五日は出勤できない、とのことだった。
 残りのスタッフでなんとか昼食の調理と配膳を終え、食器の洗浄の後、夕食の準備についての打ち合わせが始まった。
「──え?」
 角木リーダーの指示を手帳に書き留めながら、思わず声が洩れてしまった。
 皆川さんの代わりに調理を担当することになったのは、私ではなく、墨田君だった。私の担当は通常通り、食材のカットや下拵え、盛り付け、という普段と変わらぬものだった。
 ロッカールームで白衣を脱ぎながら、顔が強張っていくことに、自分でも気付いていた。先に部屋を出て行く墨田君の「お先です」という声に特別な意味などないはずなのに、まるで丸めた紙やすりでもねじ込まれたかのように、耳の奥がざらざらした。
 ランチトートと水筒を掴み、コートを羽織る余裕もないまま外に飛び出していた。川にかかる橋を渡り遊歩道を駆け降りて、いつものベンチを目指す。下ばかり見ていたせいか、甲高いブレーキ音に顔を上げると、自転車に乗った中年の女性が目前に迫っていた。ハンドルにはリードがくくりつけられ、白い大型犬がつながれている。慌てて飛びのいた拍子にバランスを崩し、そのまま無様に尻もちをついた。
「どこ見てるのよ、気をつけなさいよっ」
 女性は苛立った口調で吐き捨てると、そのまま遊歩道を走って行った。みるまに小さくなる彼女の背中と、犬のお尻の上でリズミカルに揺れる尻尾を、呆然と見送る。トートバッグは地面に落ち、自転車のタイヤの跡が黒く残っていた。小脇に抱えていたはずの水筒が遊歩道のなだらかな坂道を転がってゆく。立ち上がることもできず、ただその行方を目で追った。
 溺れているように息苦しくて、マスク越しに何度も息を吸った。頭の中を、どうして、という疑問だけが駆け巡る。
 どうして墨田君なのだろう。無神経で仕事は雑だし、がさつだし、遅刻をしてもミスをしても悪びれない墨田君が、どうして選ばれたのだろう。
 どうして私じゃなく、墨田君だったのだろう。
 鼻の奥が疼くのは、寒さのせいだけじゃない。次第に、目の縁までもが熱くなる。
 仕事さえ手を抜かなければ、わかってもらえると思っていた。コミュニケーション能力よりも大切なのは、丁寧に誠実に仕事に取り組むこと。そう自分に言い聞かせていたのに、全てが否定された気がした。
「『気をつけなさいよ』じゃねぇよなぁ。自転車通行禁止の標識が見えてねぇのは、そっちじゃねぇか」
 はっとして顔を上げると、匙田さんが立っていた。なぁ? と同意を求めるように視線を落とされても、咄嗟のことに何の反応も返せない。匙田さんは地面にへたり込む私の横を通り過ぎると、数メートル先の歩道のくぼみにひっかかっていた水筒を拾った。
「……ありがとうございます」
 思わぬところを見られてしまった恥ずかしさと緊張のせいで、私の声は不安定に震えていた。匙田さんは何も言わずに水筒を差し出す。でも、私の手が水筒の下半分を掴んでも、匙田さんは手を放さなかった。私達は水筒の端と端を持って見つめ合った。
「あんた、今日は何時に上がりだい」
「五時半、ですけど……」
「じゃあ、終わったら郵便局の隣のコンビニに来な」
 すでに何度も待ち合わせをしてきたような自然さで言うと、匙田さんは私が握っていた水筒を、意外な力強さで持ち上げた。つられて私が立ち上がると、素っ気なく手を放し、坂道を下って行く。
 しばらくそのまま、私はその場に立ち尽くしていた。結局、匙田さんの姿が点のように小さくなってから、のろのろと動き出す。いつものベンチに腰を下ろし、ランチトートの中でひしゃげていたサンドイッチを取り出す。少しへこみがついてしまった水筒の中のコーヒーは、飲み口から白い湯気がこぼれているのに、ちっともあたたかさを感じなかった。
 昼休憩が終わる三分前に施設に戻り、慌ただしく白衣に着替えた。調理室に入ったのは、私が最後だった。
 野菜を洗ってカットする作業を進めながら、どうしても目が墨田君を追ってしまう。以前は居酒屋の厨房、その前はラーメン屋で働いていたというだけあって、中華鍋を振って青椒肉絲を炒める手さばきは、文句なしに鮮やかだった。

 ❖❖❖

 コンビニの駐車場で、匙田さんは煙草を吸っていた。私を見つけるとすぐに灰皿に捨てた。相変わらず、初夏のような薄着にダウンジャケットという出で立ちだ。左手にはスーパーのビニール袋を下げている。
「寒くないんですか?」
「寒いに決まってるだろう。伊達の薄着ってやつよ」
 鼻と耳たぶを赤くして、匙田さんはかすかに口角を上げた。笑った、のだろうか。顔に刻まれた皺のせいで、寒さに顔をしかめたのか微笑んだのか、判別できなかった。
 匙田さんはダウンの裾を翻して背を向けると、いつものように風を切って歩いて行く。戸惑う私を肩越しに見て「置いてくぜ」とだけ言って、あとは一度も振り返らなかった。
 背が高いせいか歩幅も大きく、気を抜くと本当に置いて行かれそうになる。私が通勤に使っている星川駅とは反対方向にある天王町駅の方面に向かって、迷いのない足取りで進んでゆく。途中、全国展開のショッピングモールの前を通り過ぎ、交通量の多い道路から脇道に入って古い住宅街を抜けると、小さな商店がいくつも並んだ通りに出る。そこから一本裏道に入り、シャッターが閉まったまま錆びついている店や雑草が伸びた空地の前を通り過ぎる。
 一体どこに連れて行かれるのだろう、匙田さんがいくら入居者のひとりだとはいえ、よく知りもしない人について行くのは軽率だったのではないだろうか、と不安になりかけたとき、急に匙田さんの足が止まった。目の前には、二階建の木造家屋。軒先に貼られた緑色の店舗テントは、劣化してところどころに穴が空き、白抜きでプリントされた文字も掠れている。
「居酒屋、やぶ、へび……?」
「安心しな、蛇も鬼も出やしねぇよ。今にも潰れそうな小ぎたねぇ店だが、まぁ入りな」
「でも、まだ営業時間外なんじゃ……」
 入り口には『準備中』と書かれた木札が下がっている。怖気づく私にはお構いなしに、匙田さんはひょいと首を傾げてテントをくぐり、曇りガラスの引き戸を開ける。
 中央にL字型のカウンター、入り口から左手の小上がりに座卓がひとつあるだけの、こぢんまりとした店だった。カウンターの奥には古い型の石油ストーブが置かれ、その傍らに、背中を丸めた老人と、膝に分厚い本を載せた男の子が座っている。
 店の中には、マスク越しからでもわかるほど、香ばしい匂いが漂っていた。
「何だよ藪さん。いいもの食ってるじゃねぇか」
 匙田さんはくだけた調子で言いながら、店の奥に入って行く。私もおそるおそるあとに続いた。
「いいだろ、絞り立ての新粕さ」
 藪さんと呼ばれた老人は、匙田さんを見上げてにいっと笑う。歯は殆どなく、桃色の歯茎だけが見えた。鮮やかなブルーの野球帽をかぶり、小柄な体に格子模様のちゃんちゃんこを羽織ったちぐはぐな装いが、やけに可愛らしい。
 ストーブの上には網が載せられ、白いカッテージチーズのようなものが焼かれていた。藪さんが菜箸で慎重に裏返すと、まだらについた狐色の焦げ目が見えた。マスクをほんの少しずらし、香りを吸い込む。見た目はお煎餅のようでもあるけれど、フルーティな甘い香りと発酵食品特有のくせ、強いアルコールの香りは──
「……酒粕、ですか?」
「ご名答」
 私の問いかけに、藪さんは人懐こそうな顔で笑う。裏面を軽く炙った酒粕をひと齧りし、熱さをやわらげるように口のなかでほくほくと転がしながら、手にしたおちょこに口を寄せる。
「おいおい、飲み過ぎなんじゃねぇか。客に出す分がなくなっちまうぜ」
「いいじゃないの。どのみち、心配するほど客なんか来ないさ」
 カウンターに置かれたブルーの一升瓶は六分目ほどに減っていた。表面に貼られたラベルには『しぼりたて』と書かれている。
「やっぱり新酒はたまらないねぇ。口の中で、ぽこぽこ蕾が開くみたいだよ」
 顔を皺くちゃにして唸る藪さんの手から、匙田さんはひょいとおちょこを取り上げると、立ったまま口をつけた。
「若過ぎやしねぇか。俺はもっと熟れた方が好みだね。最近はボジョレーがどうしたこうしたって馬鹿騒ぎしてるけどよ、あんなのを有難がって飲むのは日本だけだって話じゃねぇか」
「初鰹に初茄子、初物好きは昔っからさ。女房と畳は新しい方がいい、なんて諺もあるじゃないさ」
「くだらねぇ。そんなだから、日本はロリコン大国なんて言われちまうんだよ」
 ぽんぽんと切れ味のよい台詞の応酬に、口を挟む隙もなく立ち尽くしていると、藪さんが意味ありげな視線を私に投げる。
「匙ちゃんが言っても説得力がないや。こんな若い娘さんを連れて来といてさ」
「そんなんじゃねぇよ。俺にとっちゃぁ、ロリコンを通り越して子守りだぜ。祥坊と大して変わらねぇよ」
 そう言って匙田さんは、藪さんの隣に座っている男の子の頭を掴んだ。迷惑そうに顔をしかめる黒縁眼鏡の彼は、十歳前後だろうか。
「何だい、新しい彼女じゃないのかい?」
「そんなわけあるかい。道端で泣きべそかいて震えてたから、ちょいとあったかいもんでも食わせてやろうと思ってよ。厨房借りるぜ」
「泣いてなんか……」
 小声で反論する私にはおかまいなしに、匙田さんは慣れた様子でカウンターの内側に入った。使い込まれた三口コンロの横には、綺麗に磨き上げられたステンレスの作業台があり、後ろの壁に取り付けられたフックには、フライパンや調理器具が吊り下げられている。
 匙田さんは薄手のシャツの袖をまくると、ビニール袋から次々に食材を取り出した。
「三平汁でも作ろうと思ったが、生憎、新巻鮭が品切れでよ。でも新粕があるなら、ちょうどよかったぜ」
 まるまるとした瑞々しい白菜、不格好ではあるけれどたっぷりと水気を含んでいそうな大根、艶々とした切り身のサーモン。藪さんが頬をほころばせる。
「粕汁かい? いいね、あったまるねぇ」
「俺はいらない」
 男の子が本から顔を上げ、素っ気なく言う。匙田さんは色褪せた帆前掛けを締めながら顔をしかめた。
「おいおい、食わず嫌いは、人生半分溝に捨てるようなもんだぜ」
「前に給食で食べたことはあるよ。残したけどね」
 そう言って眼鏡の鼻当てを指で押し上げると、彼は再び本に視線を落とした。あどけない顔には似合わない大人びた口調だ。
 でも確かに、根菜や豚肉、ネギなどを煮て、酒粕と溶かし味噌で仕上げる粕汁には、独特の酸味とえぐみがある。寒い季節には体が内側からあたたまる料理ではあるけれど、正直に言えば私も苦手だ。
「仕方ねぇなぁ。それなら祥坊も食いやすいように、ちっと洋風に変えてやるか」
 匙田さんは苦笑いで、冷蔵庫から蓋付きの水差しを取り出した。中に入っているのは昆布だろうか。液体を鍋に注ぎ、柔らかく戻った昆布は、鮮やかな包丁さばきで千切りにする。大根は分厚く皮を剥いて半月切り、白菜は軸と葉に分けて一口大に。一連の動作には、ほんのわずかな無駄もなく、見惚れるほどだった。
 ときどき鍋の灰汁をとりながら、鮮やかな包丁さばきで大根の皮を千切りにする。きんぴらでも作るのだろうか。
「格好いいでしょ、匙ちゃん」
 藪さんの笑いをこらえた声に、はっとする。気が付けば、身を乗り出すようにしてカウンターの向こう側を覗き込んでいた。
 赤面する私に微笑みかけながら、藪さんは隣の椅子を勧めてくれる。
「匙田さんは、板前さんだったんですか?」
 それなら、『まずい』と言って私達の料理に口をつけなかったことにも納得がいく。
 匙田さんはフライパンを煽り、先程の昆布と、同じように千切りにした大根を躍らせながら「ただの素人芸さ」と笑った。胡麻油の良い香りがする。きんぴらだろうか。
 昆布だしを入れた鍋からは、大根と白菜の軸がくつくつと煮える音がする。
「匙ちゃんはね、この店の常連さん。店主のアタシなんかより、よっぽど腕が立つのよ。まぁ、裏番長ならぬ、裏店主ってところかねぇ」
「飲んだくれの店主が十時をまわると潰れちまうからよ。つまみが欲しけりゃ自分で包丁を握るしかねぇのさ」
 小柄な藪さんに合わせてか、調理台はかなり低めに作られているようだ。匙田さんは背中をかがめてサーモンに胡椒をふり、そのまま鍋に入れた。湯通しをして霜降りにするなり、表面を焼くなりして臭みを取らなくていいのだろうか。
 そんなことを思っていると、頬のあたりに視線を感じた。いつのまにか隣に座っていた男の子が、じっと私の顔を覗き込んでいた。
「なんで泣いてたの?」
 真っ直ぐな質問にうろたえる私に、匙田さんがすかさず助け船を出す。
「職場の人間関係のいざこざ、ってやつだな。よくあるこった」
「大人なのに、いじめられてるの?」
 呆れ顔を作る彼に、匙田さんは苦笑いで「おめぇは人のこと言えんのか?」と言う。補足するように藪さんが「この子、保健室登校なのよ」と教えてくれる。藪さんのお孫さんで、祥太郎君というらしい。
「誤解しないで欲しいな。別に、クラスの奴らとうまくやれないわけじゃないよ。ただその労力を割くのが馬鹿らしいだけだよ」
 強がりとも本気ともつかぬことを言う祥太郎君の隣で、私も改めて自分の状況を顧みる。今の状態を『いじめ』と呼ぶのは、あまりにも被害者意識が勝ち過ぎる。
「私も違うんです。いじめとか、誰が悪いとかじゃなくて。ただ私が、新しく入ってきたスタッフと打ち解けられないだけで──」
「あの奇天烈な髪の色の兄ちゃんだろう? 悪い奴じゃぁなさそうだけどな」
 鍋に収まり切らない白菜の葉を蓋で押さえつけるようにしながら、匙田さんが言う。
 悪い奴じゃない。それは私にもわかっている。でも悪気がなければ何をしても許されるのだろうか。
 確かに仕事は速い。でも野菜の洗い方も、食材のカットも盛り付けも、全てが大雑把だ。事前の打ち合わせではメモを取らないし、そのせいでミスをしても悪びれない。なのに、それなのに──選ばれたのは私ではなく、墨田君だった。
「私の、何がいけなかったんでしょうか」
 ぽつりと洩れた呟きに、匙田さんの動きが止まる。
「すみません、忘れて下さい」
 匙田さんがそんなことを知るはずがないのに、馬鹿げた質問をしてしまった。匙田さんは何も言わず、洗い終わった包丁を一振りして水気を落とすと、丁寧に布巾で拭った。
 石油ストーブだけでは肌寒かった店の中が、鍋からこぼれる白い湯気に、ほっこりとあたためられる。少しずつ肩の力が抜けていくのがわかった。ことことと鍋の蓋が揺れる音に、眠気すら誘われる。人見知りで臆病な私が、初対面の人達に囲まれてこんなにもリラックスできていることが、我ながら不思議だった。
 湯気の向こうで動く匙田さんの節くれだった手。無駄のない動作で丁寧に灰汁をすくう仕草。その様子を見て気が付いた。こんなにも心が落ち着くのは、匙田さんが調理場に立つ姿が、死んだ祖母を思い出させるからなのだと。
 幼いころから特異な容貌のせいで仲間外れにされていた私は、学校が終わるといつも逃げるように家に帰った。友達と公園で遊んだり、ファーストフードで時間を忘れてお喋りをするような青春は、私にはなかった。
 母は仕事で家を空けることが多く、町役場の職員だった父は、私が小学三年生のときに交通事故で亡くなった。幼い私の傍にいてくれたのは、いつも祖母だった。
 泣きながら帰った日、祖母は決まっておやつを作ってくれた。薩摩芋がゴロゴロ入った鬼まんじゅう、半生の果肉のサクサクとした歯応えが楽しい林檎のホットケーキ、鰺の中骨をからりと揚げて、甘辛いたれをからめた骨煎餅。
 祖母が作るおやつは、軟膏に似ていた。切り傷のときも火傷のときも、これをつければ治る、と家族が迷信的に信じ込んでいた黄色いチューブの万能薬。お皿が空になる頃には、私は泣き腫らした瞼を細めて笑っていた。
 ……そうだ。昔の私は、今よりもずっと泣き虫で、食いしん坊だった。
「ほら、上がったぜ。熱いうちに食いな」
 匙田さんの言葉に我に返る。目の前に置かれたのは、ぽってりとした地の厚い、有田焼風の丼だった。八分目程に盛られた白いスープからは、鮭と白菜、大根が顔を覗かせている。
「わりぃな。こんな場末の居酒屋には、シチュー皿なんてハイカラなもんはねぇのよ」
 思わず目をみはる私に、匙田さんはスプーンを手渡しながら言う。私が戸惑ったのは、器がミスマッチだったからではない。祥太郎君に合わせてアレンジするとは言っていたものの、まさかここまでシチューに寄せたものが出るとは思わなかったからだ。
 隣の祥太郎君は、すでに丼に顔を埋めるようにしてスプーンを口に運んでいる。その様子に、ごくり、と喉が鳴ってしまう。
 カウンターに置かれた木製のミルに藪さんが手を伸ばし、なんの躊躇もなく私のスープの上で黒胡椒を挽く。
「たっぷりかけた方がおいしいのよ」
 と笑いながら、さらに大量の胡椒を自分のスープの上に挽いている。
 もともと香りの強いスパイスは苦手なはずなのに、黒胡椒のスパイシーな香りが、ミルクの香りのまろやかさを際立たせ、さらに食欲を刺激する。
 ためらいながらもマスクを外す。顔を見られることの怖さを、鼻いっぱいでおいしそうな香りを吸い込みたいという欲求が上回った。
 ほっこりとした湯気と共に立ちのぼる甘い香り。まずはサーモンをスプーンですくい、おそるおそる口に運ぶ。心配していたような生臭さはなく、日本酒のすっきりした香りで、旨味だけが存分に引き出されている。冬野菜の甘みが溶け出したミルクスープは、じんわりと私の舌をあたため、喉をすべり落ちてゆく。スープが通っていった道筋が、熱を持ったように温かくなる。
「……おいしい」
 呟くと同時に、涙が溢れていた。匙田さんがどんな魔法を使ったのかは知らない。それでも、酒粕の香りがする熱いミルクスープは、頑なだった私の心を、たったひと匙でほどいた。
「ゴーレ・ニェ・モーレ。『悲しみは海じゃない』っていう、ロシアの諺だよ」
 祥太郎君はそう言うと、ポケットから出したティッシュをカウンターに置いた。情けない涙声で「ありがとう」と呟き、下を向いて鼻をかむ。
「海じゃねぇから飲み干せるってか。伊達に本ばっか読んでねぇな。憎いね、色男」
 匙田さんは祥太郎君を茶化してから、私に向き直った。
「何があったか知らねぇが、全部飲み干しちまいな」
 濡れたレンズと涙のせいで、匙田さんの顔は見えなかった。それでも、向けられたまなざしにあたたかさを感じた。
「こんなか弱い女の子を泣かすなんて、とんでもない野郎だねぇ。匙ちゃん、ちょっとこらしめておやりよ」
「黄門様気取りかい。還暦も古希も過ぎたジジイに向かって、無茶言うんじゃねぇよ」
 匙田さんと藪さんの小気味の良いやり取りを聞きながら、あの日、休憩室の前で耳にした、みんなの笑い声を思い出す。
 ……嫌いだ。大っ嫌いだ。
「違うんです。……違うの」
 眼鏡を外し、ハンカチで目を覆う。
 確かに私は墨田君が嫌いだ。大っ嫌いだ。がさつで乱暴で大雑把で、いい加減なのに自信満々で──でも嫌いなのは、そのせいじゃない。
 私が墨田君を嫌いなのは、私にはできないことをやすやすとやってのけるから。思ったことを何でも口にして、人懐っこくて、みんなに好かれているから。認められているから。
 だから私は墨田君が嫌いで、墨田君を嫌いな自分が、大嫌いなんだ。
 ハンカチで顔を拭い、スープに向き直る。そこからはもう止まらなかった。スプーンで掬い切れない分がもどかしく、最後には丼を持ち上げ、ラーメンのスープを飲み干すように一滴残らずたいらげた。
 空のお皿を下ろし、素顔のまま息を吐く。気付けば、三人の視線が私に釘付けになっていた。匙田さんも藪さんも、祥太郎君さえ、目を見開いて私の顔を凝視している。
 静まり返った店内に、匙田さんの手から落ちたおたまが床に当たる音が、やけに大きく響いた。
「ごちそうさまでした。おいくらですか?」
「お、おう。こんなまかないみてぇな料理に、金なんか取らねぇよ。どのみち今は準備中だ」
 匙田さんは顔をひきつらせたまま、早口で呟いた。ぽかんと口を開けた藪さんのおちょこからは日本酒がこぼれ、カウンターに小さな地図を作っている。祥太郎君は珍しい昆虫でも見つけたような顔で、じっと私を見つめていた。
 立ち上がって頭を下げ、マスクと眼鏡をつける。引き戸に手を掛けた瞬間、匙田さんが言った。
「明日も待ってるぜ」
 勢いよく振り返ると、匙田さんは拾い上げたおたまを洗いながら、私とは目を合わさずに素っ気なく言った。
「昼は準備中の札を下げてるが、この飲んだくれジジイは仕込みなんざそっちのけで暇してるからよ。ひとり酒も味気ねぇし、話し相手になってやりな。あんただって、便所の横で震えながら弁当を広げるよりも、ここで食った方がうめぇだろう」
 拭ったばかりの涙が再びこぼれ落ちないように急いで頭を下げ、店の引き戸を閉める。匙田さんの声は、いつもの調子に戻っていた。そのことに、とても救われた。
 モッズコートのファスナーを閉め、匙田さんの歩き方を真似て、いつもより歩幅を広げて駅に向かう。肌のわずかな隙間を刺す冷たさは夕方以上だったけれど、酒粕のスープのおかげで、体の芯はあたたかかった。墨田君への嫉妬と劣等感で真っ黒になっていた胸の奥に、あたたかなミルクスープが流れ落ち、混ざり合い、灰色のマーブル模様に変わっていた。溺れているような息苦しさは、いつのまにか消えていた。
 遠目に見る『みぎわ荘』。一階の調理場と食堂の窓には、まだ灯りが点いている。
 私と墨田君の仕事ぶりで、私が負けていることがあるとすれば、協調性だ。他のスタッフとの信頼関係だ。確かに、常に顔を隠し、何を考えているかもわからない都市伝説の怪人のような女なんて、誰も信用できないだろう。いっそのこと、明日からは素顔で出勤してみようか。そんな考えがよぎらないわけでもない。
 でもつい今しがたの、私が顔を晒した瞬間の藪さんと匙田さんの表情と、店を出たあとに引き戸越しに聞こえた会話──『驚いたねぇ。匙ちゃん、知ってたの?』『知るわけねぇだろ、目ん玉が転げ落ちそうだったぜ』──を思い返すと、やはりまだ勇気が湧かない。
 結局、私自身が一番みんなを信用していないのだ。
 星川駅から相鉄線に乗り、横浜駅で降りたときには、ホームの電光掲示板の時刻は午後六時四十五分を指していた。いつもより一時間遅く到着したせいで、通勤ラッシュが終わりかけている。
 JRの南改札を抜けて貸しロッカーの鍵を開け、キャリーケースを取り出す。キャスターを転がしながらトイレに駆け込み、一番奥の個室に鍵をかける。
 ジーンズにセーター、モッズコートという服装から、ツインニットにフレアスカート、タイツに着替え、スニーカーをショートブーツに履き替える。
 狭い個室での着替えは初めのうちこそ手間取ったけれど、パートを始めて半年が経った今では、かなりスムーズに動けるようになった。これが私の、出勤前と帰宅前の密かな習慣だ。
 キャリーケースのファスナーを閉め、カシミアのコートを羽織って個室から出る。鏡の前に立ち、後ろで一つにまとめていた髪をほどくと、艶のある毛束が肩に当たって弾んだ。眼鏡を外してケースに入れ、マスクも外す。
「──私……綺麗?」
 小声で呟いたはずなのに、端の方でハンカチをくわえて手洗いをしていた女性が、ちらりと私を見る。足早に出て行く横顔には、『いやな女』という言葉がくっきりと浮かび上がっていた。
 化粧ポーチを開け、洗顔と保湿が一度にできるシートで顔を拭う。ルースパウダーをはたき、薔薇色の口紅を塗りつけ、貸しロッカーに再びキャリーケースを押し込む。今日は丁寧にアイメイクまでする時間がない。ブーツのヒールを鳴らしてエスカレーターに向かう私に、多くの視線が向けられているのを感じる。
 ちょうどホームに到着したばかりの根岸線に乗り込み、入り口の手摺に体を預けるようにして立つ。ドアガラスに映る、スパンコールをちりばめたような横浜の夜景。そこに、私の大嫌いな女の顔が重なる。
 ほっそりとした顎のラインとは対照的に、肉感的な唇。毛穴ひとつない白い頬。真っ直ぐに通った鼻筋の両側に配置された、アーモンド型の瞳。長く濃い睫毛に縁取られたその場所は、濡れたような潤みをまとって煌めいている。
 美しい。謙遜が嫌味にしか聞こえないほど、私の顔は美しい。
 だがこの美しさは私にとって、今のところ邪魔にしかならない。

 ❖❖❖

 待ち合わせ場所は、桜木町駅の北口から出てすぐのところにあるダイニング・カフェだ。可愛らしいトナカイのオブジェが飾られた窓際の席で、夫の圭一が微笑みながら右手を上げる。
「珍しいね、桐子が残業なんて」
「ごめんなさい。遅番の子がインフルエンザになっちゃって」
 駅の階段をヒールで駆け下りたので、息が上がってしまった。そんな私を見て、夫は笑いながらメニューを差し出す。
「そんなに急がなくてもよかったのに。何か飲む?」
「大丈夫。遅くなっちゃったし、それに……」
 言葉が続かない私に、夫はすかさず、半分ほど水の残ったグラスを差し出してくれる。
 夫は優しい。待ち合わせに遅れても、機嫌を損ねたり声を荒らげたりはしない。
 都内の私立高校で司書をしている夫とは、毎朝一緒に出勤し、仕事終わりに自宅の最寄り駅のカフェで待ち合わせをするのが定番だった。
 表面に水滴のついたグラスを取り、少しずつ口に運ぶ。隣のテーブルの女性客が、伏し目がちに私と夫の様子を窺っているのがわかる。
 夫は特別に美男子というわけではない。それでも、くせ毛をいかしてカットしたヘアスタイルとスタイリッシュなデザインの眼鏡、清潔感を意識したファッションの効果もあって、十分魅力的な男性に見える。夫の隣の椅子にかけられているカシミヤのコートは、私が今羽織っているものと同じブランドだ。私達はきっと、この上ないほどお似合いの夫婦に見えることだろう。
 ふと気付くと、夫が、目を細めて私を見つめていた。ニットの襟元から冷たい手を差し入れられたかのように、体が震えた。
「桐子、髪が乱れてる」
 テーブルの向こうから夫の手が伸びてくる。汗ばんだ私の額に貼りついた髪を丁寧に整え、そのまま、時計や鞄の表面に付いたわずかな傷を見つけようとするかのように、私の顔に視線を這わせていた。
「桐子、今日は口紅だけだった?」
 咎めるような口調に、慌てて言い訳を考える。
「今日は本当に忙しくて、レッスンのアシスタントもしたから、帰る前にシャワーを浴びたの。メイクする時間もなくて──でもおかげで少し体が締まったみたい。最近、運動不足だったから」
 夫はしばらく私を見つめてから「時間がなくても、身だしなみにだけは気を付けて欲しいな」と言って立ち上がった。あたたまった体の芯が少しずつ冷えてゆくのを感じながら、はい、と呟く。
 店を出て、煌びやかなイルミネーションで彩られた町を歩く。恋人同士のように指をからめて歩きながら、金色の光に照らされた夫の横顔を見つめる。
 職場でも夫の前でも、私は嘘と言い訳ばかりを考えている。夫は私の仕事を、ヨガ教室での受付兼アシスタントだと思っている。でもきっと、私が自ら打ち明けない限りは、夫が真実を知ることはない。
 夫は優しい。世界中の誰よりも『妻』を愛している。ただ、私についてはまるで関心がない。
「夕食は何にしようか。今朝フレンチトーストを作るときに使ったココナッツミルクが余っているから、トムヤム・ペーストとパクチーでリゾットにでもしてみる?」
 私は香りが強い葉野菜が苦手だ。辛い物も、エスニックも得意ではない。
 でも我が家でキッチンに立つのは夫と決まっていて、メニューの決定権も彼にある。そもそも夫の料理は私のために作られているわけではないので、私の好みなど知ったことではないのだろう。
「クリスマスのディナーはどうしようか。去年は鴨肉のコンフィだったから、今年はラム肉を使ってシェパード・パイにチャレンジしてみようかな」
 料理の話をしているときの夫は機嫌が良い。意見や不満は言わず、ただ微笑んで、そうね、と頷く。いつもの私なら。
「──出汁がら昆布と、大根の皮のきんぴら」
 湯気のたつスープ鍋の隣で匙田さんが炒めていた、胡麻油の香りの茶色いきんぴら。それを食べ損ねてしまったことが、今更になって悔やまれた。
 怪訝そうな夫の顔には、そんな田舎臭いもの、と書かれていた。
 それきり何も言わない私を見て、ただの冗談だと思ったのか、夫は何事もなかったかのように、最近購入したイギリスの料理研究家が書いたレシピ本について話し始めた。

──第一話 鮭と酒粕のミルクスープ〈完〉
(試し読みはここまでです)

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『七度笑えば、恋の味』
古矢永塔子 著
小学館

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