_きみだれ_書影_枠なし_

4つの視点、まったく違う世界。衝撃の「同僚」小説『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里著) 試し読み #3

「きみだれ」書影(枠付き)


特別掲載『きみはだれかのどうでもいい人』第1章 ためし読み #3


 しょっぱなから、ついていない日だった。  
 朝、洗面所で髪を結ぼうとしたら、いつも使っている黒いヘアゴムが見つからなかった。前の晩お風呂に入るときにいつもの場所、三面鏡の右側の扉についた収納にたしかにしまったはずなのに。母に心当たりを訊ねようにも、わたしはラッシュを避けるために家族のだれより早起きしている。結局、唯一置いてあったウールのシュシュを使うはめになった。虹色のプードルみたいな見た目のそれは、派手すぎて最近ではほとんど使っていなかった。  
 玄関ではブーツのファスナーが途中で噛んでしまって、ストッキングにパンプスという心もとない足元で寒空の下に出るしかなかった。電車は強風のためというふざけた理由で遅延して押し寿司状態だったし、やっと最寄り駅に着くと顔を真っ赤にした男が駅員さんを怒鳴りまくって改札をひとつふさいでいた。おかげで残りの改札にも行列ができていてさらに時間を食い、ぎりぎりで滑り込んで女子更衣室でコートを脱ぐとボタンがひとつ取れていた。なんとか席に辿り着いたとたん、今度は課長から電話があった。息子さんが熱を出したので、病院に連れていくために午前中は休むという内容だった。  
 始業後はすぐに重い仕事をするのがためらわれて、まずはきのう、須藤さんや田邊さんに任せた入力作業の途中経過をチェックしてみた。肩慣らしのつもりだったけど、須藤さんの担当した箇所を読んで肩は慣れるどころかますます重くなった。一言一句間違えずに打ち込もうとするあまり、どうでもいい枝葉末節や明らかな誤字脱字までそのままにしてある。こういうのをお役所仕事と呼ぶんだろうな、と皮肉なことを考える自分に閉口しているところに、須藤さんがいつもの紙コップを持って現れた。  
 データ入力よりはるかに単純な事務作業をお願いすると、須藤さんは初めて巣から飛び立つ前の小鳥のように肩をいからせて「はい、かしこまりました」と答えた。居酒屋みたい、そのうちよろこんでーとか言い出すんじゃないの、と田邊さんがバカにしている良い子の返事。封筒をひたすら糊付けするとか、しまいっぱなしにされた大量の文房具から使えるものだけを選り分けるとか、須藤さんに割り振る作業を考えるのはわたしだ。いくらでも思いつくのは、かつて自分が押しつけられたことをそのまま頼めばいいからだ。  そんな余計なことまで思い出してしまったせいもあって、結局午前中はずっと肩の重さが抜けなくて仕事にならなかった。このままじゃいけない、もうすぐ昼休みだからそこでちゃんと気持ちを切り替えよう。そう決めた矢先に窓口に呼ばれて──いまに至る。
「わざわざ人の女房脅しに来て、てめえ、どういう了見だよお!」  
 使い古したツナギを着た男は、そう叫んでわたしのハンコが押された黄色い封筒を机に叩きつけた。
「あれから女房は怯えてなにも手につかねえんだぞ、ふざけんじゃねーよ!」  
 封筒には住所が書いてなかったので、このあいだの臨宅で直接届けたものだとわかった。くしゃくしゃになっているのは怒りまかせに握り潰したせいだろう。頭を下げながら時間を稼ぐあいだに、だんだんと記憶が戻ってくる。  
 午前中に回った何軒かのひとつだ。不動産と車に関するわりと大きな未納があって、呼び鈴を押すとほとんどパジャマみたいなスエット姿の女性が出てきた。こちらが名乗っても終始ぼんやりした態度で、お金のことは主人でないとわからない、と繰り返すばかりだったので、とりあえず手紙を見るように伝えてほしいとだけ頼んでその場は引き下がった。顔までは、思い出せない。詳細は伏せたとはいえ、税金の件で、と県の職員が来ればおおよそ察しはつきそうなものなのに、恐怖も羞恥も、動揺すら感じられなかった。わからない、という台詞だけが、訓練されたオウムみたいに流暢だったことしか印象にない。  
 一緒に生活している相手にすべてを預けている人間特有の、電源を切ったテレビみたいな空白っぷりだった。とてもこの人が言うように、怯えてなにも手につかなくなるタイプには見えなかったけど。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」  
 この言葉は、クレーム対応研修で真っ先に習った便利ワードだ。自分の行動ではなく、相手の心に与えたダメージに対して謝る。そうすることで、非を認めたのなら筋を通せと揚げ足を取られることを防げるのだ。
「何度か会社あてにお電話を差し上げたのですが、繋がりませんでしたので……」
「うるせえ! だいたい俺は税金自体に納得いってないんだからな。法律にかこつけて弱い人間からばっかり搾取しやがって、てめえら恥ずかしくねえのかよ」  
 そうですね、納得いかないのは当然だし自由ですよ。  
 ぶっちゃけ、わたしだって税金は高いと思いますよ。いちおう払う身分でもありますから。時給換算すると何時間、何日、何か月分、それがこんなに簡単に持ってかれるんだなってむなしくなる気持ちもわかります。ただでさえ生活が苦しい人たちからお金を頂くことに、罪悪感はもちろんありますよ。偉い人たちの不正が明るみに出るたびに、そりゃあ払いたくなくなるだろうなって溜息のひとつもつきたくなりますよ。  
 で、あなたはじゃあ、なんでそれを大事な奥さんにあらかじめ説明してあげないんですか? 僕は税金に納得がいかないから払っていないんだ、もうちょっとしたら預金とか土地とか差し押さえられちゃうかもしれないけど、まあなんとかするから心配しないでねって。それって結局、後ろめたかったからですよね? そもそも滞納すれば取り立てがあることくらい、予想できるじゃないですか。いくら現行の体制に不満があったって、ルール違反をしておいて黙ってお咎めなしで済まそうなんて虫がよすぎませんか?
「大変、申し訳ございません」  
 そんな本音を殺して、わたしは「てめえら」の一員として頭を下げる。  
 それがプロだからだ。わたしは、人のストレスを受け止めてお金をもらっている。深く礼をしながらも角度に気をつける。髪をまとめるカラフルな飾りが相手の視界に入ってはいけない。そこにだけ、ひどく無防備な急所を抱えている気分だ。
「わたくしどもとしては、支払いについてお伺いしてそれを実行していただければ、奥様はもちろんご本人様にも、今後ご迷惑をおかけするつもりはありません」
「金ができたら払おうと思ってたのにその気もなくしたっつうんだよ。どうせ私腹を肥やすのに使うんだろ?」
「そういったことは一切ございません」
「ウソつくな、目を見りゃわかるよ。だいたい俺は、おまえみたいに世の中舐めくさった女が大嫌いなんだよ。ブスが人の金使って化粧してんじゃねえ!」  
 たいして広くない待合スペースに「ブス」が響き渡り、見て見ぬふりで順番待ちをしていたお客さんの何人かが、ちらっとわたしの顔を確認したのがわかった。  
 外見重視の採用を公務員が始めたら大問題だと思うけど。それにしても、そうですか。ピアスも外して花柄のスカートもネイルも我慢して「ご不快」を与えないようにしてるんですけど、朝の貴重な二十分を費やしている化粧が気に入りませんか。くすんだ肌の色や霞みたいに薄い眉をそのままにして、ありのままの姿で現れればいいんでしょうか。いや、そもそもブスだから気に入らないんでしたっけ? すみません、美人じゃないのは知ってましたけど、生きてるだけで不快なレベルとは思わなくて調子に乗ってました。整形したほうがいいですか? でもそれだとまた血税使っちゃうんで、死ねばいいですか?
「俺がどんだけ苦労して会社興したと思ってんだよ。とりあえず席にいて、だれでもできる仕事してりゃ金もらえる無能なおまえとはわけが違うんだ」  どれだけ苦労したかなんて、知ってたら怖いでしょう。だれでもできる。そうかもしれませんね。替わりましょうか? 仕事中にいきなり生まれ持った顔を罵られるくらい、だれにでも耐えられることですもんね。
「ご事情はお察ししますが、みなさまにお支払いをいただいているものである以上、おひとりだけ特別というわけにはいかないんです。一度には難しいようでしたら……」
「うるせえな、甘ったるい匂いさせやがって殺すぞブス!」  
 ブス、のタイミングでまた机が叩かれた。それを合図に、いつのまにか出勤していた課長が背後に立つ気配がした。あまり早く「上の者」が出ると逆に相手を刺激するおそれがあるので、暴力に訴えられる直前まではひとまず静観するというのが所内の方針だった。
「この者の上司ですが、なにか失礼がありましたか」  
 大柄で声も低い課長が横に座った瞬間、相手の勢いは目に見えて弱くなった。  
 失礼がありましたかじゃねえよ、とかなんとか、口の中でもごもごと毒づいている。でも、急に態度をやわらげたら格好がつかないからよきところでほとぼりを収めようという、子供じみた魂胆は明白だった。なんでもいいから終わってほしいと願っていたはずなのに、そのとき初めて、お腹の中だけで渦巻かせていた声が噴き出しそうになった。  
 これくらいでビビるなら最初から調子乗んなよ。弱い者いじめしてんのはそっちだろ、このクズが。  
 やっと男が帰ったあと、課長はトラブルがあったときの常で、別室にいる所長のもとへ経緯を報告しに行った。直接の担当だったはずのわたしは「お疲れ。記録つけといて」と頼まれただけで、同伴するようには言われなかった。
「もー、環ちゃんってば。まっじめー」  
 ひとりで席に戻ると、さっそく田邊さんが前のめりに話しかけてきた。
「課長がいなくても、他の人呼べばいいのに」
「そういうわけにもいかないですよ。わたしの案件ですし」
「さっさと替わってもらっちゃえばよかったんだよ。ヘンに環ちゃんが頑張るより、そっちのほうが早く済んだかもよ?」  
 怒鳴られること自体はどうってことなかったのに、無邪気にそう言われた瞬間、そしてそれを否定できなかった瞬間、髪の結び目を手刀で思いっきり叩かれたような心地がした。  
 なんとか笑顔を作ろうとしたタイミングで、目の前の電話が鳴りはじめた。  
 田邊さんの手が届かない、わたしと須藤さんの席のあいだにある電話機への直通だった。お客様からの連絡をこちらに取り次ぐのもアルバイトの方の仕事です、と何度かやんわり伝えてはいるけど、わたしや課長や田邊さんがいきなり怒られたり泣かれたりする現場を横で見ているせいか、須藤さんはなかなか受話器を取りたがらない。  
 でもバイトとはいえ仕事なんだから、やりたくないことはしない、じゃ困る。  
 わたしはパソコンに向かい、さっきの案件を記録するのに集中しているふりをした。呼出音が三度鳴ったところで、須藤さんはいつもと違うことに気がついたらしい。ためらいがちにこちらの様子をうかがい、それからようやく、なにかをあきらめたようにのろのろと、まるまるとした腕を受話器に伸ばした。  
 そしてその腕で、机に積み上げていた大量のクリアファイルを床にぶちまけた。  
 ぱしゃーん、と水風船が割れるような音がして、ああああ、と小さな悲鳴を上げながら須藤さんは椅子から腰を浮かせた。視線だけでなく顔や肩ごと、おろおろと床と机のあいだを往復させる。なんら事態が改善しない、そのあいだにベルだけがもう二回鳴る。  
 溜息をこらえながら、わたしは腕を伸ばした。受話器を耳に当てて声を出す直前の一瞬で、ぐっと丹田に力を入れる。
「お待たせいたしまして、申し訳ございません」  
 続けていつも以上にはきはきと話しだそうとしたところを、切羽詰まった声で『染川裕未さんをお願いします』と遮られた。名乗りも名乗られもしないうちに用件だけを言われるのは珍しいことじゃない。ただ、電話口から聞こえたのは性急な口調とは裏腹な、いまにも消え入りそうなくらいか弱い年配の女性の声だった。
「申し訳ございません。染川は異動になりました」  
 そう伝えると一瞬、息を呑む気配があった。
『いらっしゃらないんですか?』
「わたくし後任の中沢と申します。代わりに承りますので、お名前を……」
『どちらに行かれたかご存じですか?』  
 ご存じもなにも、まだこちらにいますよ。  
 染川裕未はいつもどおり、総務担当の末席に座っていた。いつもどおりうつむきがちで、だからここから視線を送っても目は合わない。パソコンで作業をしながら、たまに堀主任になにか指図されている。備品の管理とか新年会の席次とか、きっとそんなことだ。  
 中学生のとき、文化祭の実行委員をやってクラス展示の準備を取り仕切ったことを思い出す。ちょっと浮いていた女の子に、ひたすら段ボールを同じサイズにカッターで切ってもらったこと。もはや名前も覚えていない彼女は黙々とそれをやってくれたけど、ろくに手伝わずにサボっている子たちのほうがじつは気を遣わなくていいぶん楽だった。いなくてもだれも困らない、気がつきもしないかもしれない、ただ出て行ったってなにができるわけでもないし、まわりの人間としても追い払うわけにもいかないから、居場所を守ってあげるためにいちおうすべきことだけは最低限与えておく。彼女には、そういう立ち位置しか残っていなかったのだ。
「失礼ですが、お名前を伺ってよろしいでしょうか」
『わたしではなく、息子のことなんです。染川さんならよくご存じですから』  
 なんとか聞き出した名前をシステムで検索して、データベースに保存されていた記録を表示した。  
 初動担当で受け持っている案件は、半年経っても未納のままだと自動的に実動担当へと引き継がれる。ただ、方針の目処が立っていないとそれができない。はっきりと支払いを拒まれた場合は強硬手段に出ればいいけど、所在不明とか連絡がつかないとか、連絡がついたとしても現実味のない約束しかできていないとか、そういう場合は厄介だ。中でも最後のパターンは、こちらの責任でもあるのでかなり冷たく拒否される。  
 この人は、正確に言えばその息子は、最後のパターンにあたるらしかった。息子は何度も滞納を繰り返しているたちの悪い常習犯のようで、電話や窓口でのやりとりがもう数年にわたって続いている。ただ、その記録が目に見えて長くなったのは染川さんが担当についてからだ。母親が電話で事情を説明している。本人は住民票の手続きもせずに家を出て、ほぼ音信不通。支払いについては、自分は家庭環境のせいでずいぶん苦労したのだからそのくらい親が肩代わりすべきだと主張しているらしい。めちゃくちゃな理屈だが、なぜか当然のようにそれを前提として話が進んでいる。自分は体が弱く、治療費もかかる上、年金しか収入がないので一度には払えない。でも必ず払うから、どうか息子の財産を取り上げたり生活を脅かしたりしないでほしい。下手に刺激したら、なにをされるかわからない。
『あんな手紙が来たから、びっくりして。事情は染川さんにお話ししているんです。なにかの間違いじゃ、ないんでしょうか』  
 手紙、と復唱しながら、記録の最後にぽつんと、自分の名前を見つけた。家に直接行って催告状をポストに入れた、という簡単な内容。そこに書かれた外観の様子、そしてあらためて見返した住所で、あの路地の奥にあったゴミ屋敷だと思い至った。
「いいえ、これまでのことは承っております。ただ、お支払いがしばらく止まっていたようなので、今後のご予定を確認するためにお伺いしたんです」  ご予定、と、不本意な言葉を聞いたように繰り返された。  
 沈黙のあいだに、わたしはまた染川さんの記録を読み返す。長い長い文章の中から、肝腎な部分だけを拾い上げようとする。パソコンの画面を埋め尽くしてなお余りある、これを書くためにいったい彼女はどれだけ時間をかけたのだろう。もしかしたら、実際に話していた時間より長いかもしれない。 『生活するだけで、精一杯なんです。主人にも先立たれて。わたしもこの歳ですし、最近とみに体もきつくて、いつ主人の後を追うかわかりませんし』  結局、染川さんが彼女に送ったという支払い用紙は桁を間違えたのかと疑うほど低額の分割用だった。なるべくまとめて払う、と口約束はしているけど、そんなの守られるわけがない。現に支払いは二、三度あったきり止まっている。
「ご事情はお察ししますが、このままですと状況が悪くなる一方です」
『それはわかっているんですが……』
「やはり、息子さんに払っていただくわけにはいかないんでしょうか」
『ですから、それは染川さんに説明したとおりで』  
 細かった声が少しずつ大きくなっていく。これは、と口元をぎゅっと引き締めた。思っていたよりずっと厄介な案件だ。
「息子さんの連絡先が不明ということでしたら、こちらで現状をお調べすることになります。法律上、こちらにはその権利……義務がありますので」 『それはやめてください。お願いだから、息子には手を出さないで』  
 この頑なな調子だと、音信不通だというのは嘘かもしれない。興味深そうにこちらをちらちら見ている田邊さん越しに、もう一度、総務担当のほうへ視線を送る。染川裕未は相変わらず、パソコンの画面を注視したまま顔を上げない。  
 ふいに、あの子があんなに、足音にも気づかないほど手元の仕事に集中するのは、わたしのほうを見ないようにするためじゃないかと思った。
「ですが、お母様にはお支払いが手に余る状態なんですよね。それに本来、納付の義務があるのはお母様ではなく息子さんです。こちらには息子さんの所在なり、財産の状況なりをお調べして、未納分を払っていただく責任があります。なにもしないまま、ただ見過ごすというわけにはいかないんです」  ねえ染川さん、気持ちわかるよ。この人、かわいそうだね。こんな人にお金払ってくれとか息子の居場所を教えろとか、なかなか強くは出られないよね。こういう人たちを少しでも助けたくて公務員になったはずなのに、自分はなにをしてるんだろうって思うよね。
『どうして染川さんはいないの?』  
 でも仕事なんだから、やりたくないことはしない、じゃ困るんだよ。  
 こんなに長々と自分はがんばったんだぞって痕跡を残すより、その時間でもっとやるべきことがあったんじゃないの? こんな冗談みたいな約束をするのがプロとして尽くせる最善策だったの? 結局あなたはこの人じゃなくて、こんなかわいそうな人に同情してしまう優しくて感受性の強い自分っていうスタンスを守りたかったんじゃないの? 放っておけば問題はそのまま風化して、なにもかもいつのまにか解決するとでも思ったの?
『染川さんを出して。染川さんじゃないとしゃべれないわ。あなたは、怖い』  
 表面張力が膨れ上がるように、涙ぐんだ声がヒステリックに揺れた。幽霊みたいに存在感が薄かったはずのそれが、いまやきりきりと、爆発寸前の風船みたいにわたしの耳元を圧迫してきている。
「申し訳ございません。ただ、みなさまにお支払いをいただいているものである以上、おひとりだけ特別というわけには」
『搾り取ってるの間違いでしょ。あなたいったいなんなのよ、さっきから杓子定規なことばかり言って、こっちがどんな思いで毎日生きてるかも知らないで!』  
 ボランティアサークルに所属していたとき、自分のせいじゃないのに苦しい状況に陥ってしまう人、それこそ骨と皮だけになりかけているような人にも少なからず接してきた。わたしがこの仕事を選んだ理由は、必ずしも美しいものばかりじゃないかもしれない。でも、そういう人たちの力になりたいと思ったことも嘘じゃない。ひとりでも多くの人を救うため、みんなに平等に幸せになってもらうために、この女性や、さっきの男が忌み嫌う「法律」や「杓子定規」はできたんだろう。たぶん。少なくとも、そもそもは。  
 埒もなく考えだしたとき、電話口の金切り声の向こうからさらに甲高い音が聞こえた。  
 それは一度ではなく、しばらく絶え間なく続いた。最初はわからなかったけれど、やがてその正体に思い至る。そういえばあの家に行ったときも、中から同じ犬の、神経に障るほど元気な鳴き声がした。
『染川さんはあなたと違って、ちゃんと話を聞いてくれたわ。わたしが代わりにきちんと相談していれば、息子には連絡しないと約束してくれた』
「もし、そのように染川が申し上げたなら」  
 そんな記録はさすがになかったけど、わたしは足元をさらうように言った。  
 もちろん、名前を出された本人のところにまで届くほどの声じゃない。でも、向かいの席からは興味津々な田邊さんの視線がもろに飛んできたし、なぜか右横では須藤さんの肩が、感電でもしたようにびくりと震えた。
「職務怠慢ですね。彼女に代わって、お詫びいたします」  
 少しのあいだ、電話口からは犬の声だけが聞こえていた。  
 ただよく耳を澄ませると、その向こうからさらにまた別の音がしていた。一定のリズムとテンポを持ったそれは、どうやら音楽らしい。無言の時間が積み重なるほどにだんだんと存在感を増していく、こんな状況には不似合いな甘い声の男性ボーカル。なんとなく、沙穂の部屋からいつも聞こえてくるK‐POPを彷彿とさせた。流行りの曲なんてどれも似ているものではあるけれど。
『あなた、お名前は?』
「中沢と申します」
『そう。わかったわ』  
 その声は冷静で、いまにも破れて中身が溢れだしそうな、さっきまでのヒステリックな震えは収まっていた。反射的に安堵しかけたとき、
『遺書にあなたの名前を書いて死にます』  
 ばちんと鼓膜を直接叩くように、通話は切られた。  
 受話器を置くと同時に田邊さんがまた亀のように首を伸ばしてきたけど、わたしが無言でキーボードを打ちはじめたせいか、伸びかけた首はゆっくりと引っ込んでいった。電話しながら取っていたメモには気が滅入るような単語の断片だけが散らばっていて、ほとんど参考になる記述はない。余白だらけの紙の下半分では、流れ星に乗ったキキララが楽しそうに遊んでいた。わたしはその一枚を台紙から破り、足元のゴミ箱に捨てた。
「……あの、中沢さん。すみません」  
 横から須藤さんが身を乗り出してきたのは、そのときだった。
「はい、なんでしょうか」
「あの、このクリアファイルなんですけど。色がついているものや使用済みのものは分けておく、ってことだったんですけど、未使用で透明だけどロゴが入っているものは、どうすれば……」  
 いかにも申し訳なさそうなおずおずとした態度は、フロアの反対側にいる染川裕未を連想させた。媚びるようなか細い声は、さっきまで電話していた女性が最初のほうに出していたそれにそっくりだった。こんなときになんでそんなどうでもいいこと訊くんだろう、と考えてから、ふと気づく。わたしが、どうでもいいことしかさせていないからだ。
「須藤さん。少し、周囲の状況を観察する癖をつけてもらいたいんですが」  幼い妹に注意するように、優しい口調を作っていた。口角だって上げていた。  
 それなのに須藤さんは音がしそうなほどぎゅっと肩をすくめ、まるで不当に責められたように、みるみるうちに目を潤ませた。すみません、とつぶやく声までもう湿っている。こんなときばっかり反応が速いんだな。そう思うと、急激に頭の芯が冷めていった。  
 そうですか、またこっちが悪役ですか。  
 後頭部でぶちんと音がして、脳天気な髪飾りが弾け飛んだ気がした。
「あのですね。すぐ『すみません』っておっしゃいますけど、じゃあ具体的にどうしようってことは考えてくれてますか?」  
 きりきりと痛みはじめた胃に、思い出したように甘ったるい匂いが効いてきた。甘いのに、塩を塗りたくるような沁み方だった。机の上であれだけ派手にファイルをぶちまけたのに、紙コップのバナナココアは微動だにしていない。  
 甘ったるい匂いさせやがって、殺すぞブス。早くも忘れそうになっていた罵倒の言葉を思い出す。わたしには香水をつける習慣がない。正確に言えばなくなった。最初に配属された人事課で上司にしつこく注意されて、やけになってすべて処分した。誕生日に元彼がくれたベビードールも、高校生だった妹にもらった手作りの練り香水も。甘ったるい匂い。あれは、比喩ではなかった。
「そもそもそんなことを気にする暇があるなら、もうちょっと電話を取ってくださいよ。こちらに来て三か月になりますよね? わからなければ折り返させるって言えばいいだけじゃないですか。少しは頭を使ってください、まわりをよく見ていればなにを優先すべきかわかるでしょ?」
「ちょっとちょっと、環ちゃん」  
 慌てたように、向かい側から田邊さんがささやいた。  
 はっと我に返る。そこでやっと、自分が必要以上に大声を出していたことに気がついた。だいたいのことをバカみたいに響かせてしまう、うちのリビングのテレビみたいに。  
 周囲を見渡す。みんな大人で、プロだから、いつもどおりちゃんと働いている。だから無音ではもちろんなかった。たまたま窓口から人がいなくなっていたことも幸運だった。でも、打ち合わせなり電話対応なりそれぞれの仕事を素知らぬ顔でしながら、視線はなんとなくわたしのほうまで漂ってきているか、あからさまに逸らされている。  
 染川さんは、後者だった。隣にいる堀主任が露骨な眼差しを隠そうともしないだけに、その不自然さがより際立っている。  
 意識を近場に戻すと、言ってやってよ、とわたしを焚きつけていたはずの田邊さんが責めるような顔でこちらを見ている。須藤さんは小刻みに震えながら、す、まで言って息を呑み、ごめんなさい、とつぶやいた。縮こまったその姿は、道行く人に無視されるマッチ売りの少女みたいに哀れっぽかった。でもマッチを買わない人にだって、子供が病気とか奥さんが妊娠中とか、それぞれに事情はあったはずなのだ。  
 ぎゅっと拳を握る。  
 ここでめげてはいけない。ちゃんとアフターフォローをすればなんでもないことだ。交渉にしくじって病み上がりのアルバイトに八つ当たりしたなんて、くだらない悪評に飲まれてはいけない。そんな噂が人事課に届いたら今後に響くこと請け合いだ。あそこではあの女が、ちょうどいまの堀主任みたいに、目を光らせてわたしの失敗を待っている。  
 負けるもんか。思いどおりになんか、なるもんか。挫折なんか。するもんか。みんな人の挫折が大好きだ。失敗を知らずに生きてきた小娘は例外なく調子に乗っていていつか痛い目に遭う、そんな安いストーリーが大好きだ。どん底で不器用な人間たちのあたたかみに触れて「結果より大事なことがある」とでも悔い改めれば言うことなしなんだろう。手もお金もかかる妹に「教えられる心地」がしたという母。わたしがどうしても国立の大学に行きたかったのは、ストレートで公務員試験に合格したくて必死で勉強したのは、沙穂のために少しは学費を残したかったからでもあったのに。  
 平静を装ってパソコンに向かいながらも、後頭部が妙に熱くて、どくどくと脈打っていた。血が噴き出しているような気がして、さりげなく手を当てて確かめる。プードルみたいな髪飾りは、わたしの予想に反してバカみたいな手触りのまま、ちゃんとそこに留まっていた。どこへも、弾け飛んではいなかった。  

試し読み#4 へつづく)


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伊藤朱里 新刊エッセイ「この本私が書きました」
〈同じ景色を、違う目で(または聞けなかった声に寄せて)〉

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『きみはだれかのどうでもいい人』書籍詳細(公式HP)

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