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「ウィルス」は隔離して

思い出話

「そういえばそんなことがあったなあ」
山下は都心のビルの二階にあるオフィスから、通りで渋滞している車を見ながらつぶやいた。

「子どもとはいえひどい話だった。いじめが問題になってあれで校長先生がやめたからな。いい先生だったんだけど…」
久しぶりに旧友を訪ねた黒田は、少し顔をしかめて言った。

「結局クラスのみんながあの後反省文を書いて、しばらく毎日そのことを話しあう時間があったよな」
「そうそう、オレはあの時泣いたからよく覚えている」
山下が窓の外の空を見上げて言った。彼は昔と変わっていないようだ。

「ただトイレ掃除のときに上靴が脱げて、たまたま便器に落としてしまっただけの話だったのに、クラスの何人かの女子が理恵のことを「汚い」って言いだして敬遠したのが始まりだった」
「いつのまにか『バイキン』っていうあだ名ができて、それから彼女、学校に来なくなっちゃったんだ」
「そうだった。かわいそうだったよな」

「近所に住んでいて仲もよかったのに、オレどうしても『やめろよ』の一言が言えなかった。だからクラスの話し合いのとき自分の不甲斐なさに泣いてしまったんだ」
「学校のクラスというバリバリの同調圧力の世界の中だったから、その一言が切り出せなかったんだ。でももし今その場に居たとしても、まだオレには言えないかも知れない」
山下はいかにも情けない顔をした。

そんな山下の言葉に被せるかのように、黒田が身を乗り出して言う。
「いや、お前は悪くないよ」

「いじめられる方も、きちんと対抗すればいい話じゃないか。担任の山口先生はすぐ気づいて、何回も理恵にもいじめた側の女子にも話をして解決しようとしていたんだ。だけど理恵が『そんなことはありません』って言って、どうしても事実を認めなかった。級長の谷口も先生に真相を知らせていたんだよ」

「そうだったのか。でも仕返しとかが怖いから本当のことは言えなかったんだろうな」
「考えてみれば、オレもそれが嫌で彼女を守ってあげられなかったんだからな。集団の中だと、人は普段自分が思っているより意外に弱くなってしまうのかも知れない」
「実際オレはいつもそんな感じなんだよ…」
  話をしているうちに山下は、別のつらい出来事を何か思い出したようだ。そういえば前に山下が職場の人間関係で悩んでいるという噂を、誰かから聞いた気がする。

「相変わらず優しい奴だ」
山下の言葉を聞きながら黒田はそう思った。

 通りに目をやると、渋滞はいつの間にか解消して通りの人出も少なくなっていた。イチョウ並木に風が吹きこみ、落ちかけていたイチョウの葉っぱが一斉に枝から外れて落ちていく。

「すぐに冬だな」
 彼は静かにつぶやいた。

濃厚接触者

「総務課の荒川課長のご家庭の方が陽性判定となりました。無症状ですが外出禁止で自粛期間中とのことです。これに伴い荒川課長が濃厚接触者と認定されましたので、荒川課長はお休みになります」
「荒川課長とここ1週間で接触があった方は、人事部で午後面接調査をしますので、必ず申し出てください」
 新谷課長が丁寧に説明をした。新谷課長は女性であるが相当優秀な人で、特にこういう事務処理的な連絡もきちんとしていて早いので、その点前任の大場課長と違ってやりやすい。
 大場課長なら、あまり業務に関係のないこんな話、人事が直接こちらに呼びに来るまで忘れているに違いない。

「陽性か。怖いね」
「ご家庭の方って子どもさんかな?」

「最近荒川さん、娘が夜出歩いていて困るってこぼしていたからなあ」
「本当なのそれ?」「じゃあ自業自得?」

「何を言っているんだ。不謹慎だぞ」
 黒田は大きな声で一喝した。
「病気になることは別に悪い事じゃないだろう。大丈夫か?お前たち」
 彼女たちこの課の後輩女子社員は本当に困りものだ。ある事ない事すぐ噂を広めてしまう。言われる方はたまったものじゃない。

 窓の外は今日も快晴である。
ただ通りのイチョウはずっと前に全部落ちてしまい、冷たい風が吹き抜けている。
「鍋がおいしい季節になったのにな」
 以前ならこんな日は張り切って外回りをして、得意先の人と会社の経費で上等なランチを食べたり、夜ともなれば繁華街へ繰り出したものだ。
でも今はこんなわけのわからない騒動で、それもできない。

「あ~あ」黒田は大あくびをして、席を立とうとした。
 その時、社内放送が流れた。
「第2営業部の黒田主任。14:00に人事課までお越しください」

「あれっ、部が違うオレにも調査が入るのかな?」
「そういえば新谷課長が『該当するんじゃない?』って言っていたな」
 実は黒田には覚えがある。実は先週総務の荒川課長と駅前の黒猫亭で一緒に昼飯を食べたのだ。
あんまり黒田が最近の外出不足で煮詰まっているので、いつもは社食で済ませている先輩の荒川が昼食に誘ってくれたのだった。

調査そしてホテルへ

 人事の面接調査はあっけないものだった。
「タクシーで移動して昼食を一緒に食べたんですね。じゃあ残念ながら当社の基準だと濃厚接触ということになります。ここへ今から行ってください」
ぽかんとした顔をしている黒田に、
担当者は、「次の方が来るので、もういいですか」と言う。
ずいぶん忙しそうである。
 慌てて黒田は反論する。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「衝立もあったし入口でアルコールもしたし、窓も換気されていましたよ。それでもダメなんですか?」
「はい。行き帰り一緒にタクシーでいきましたよね。荒川さんが言っていました。それで社内基準ではアウトです」
「いや、だって電車でもタクシーでもみんな乗っているでしょう」
「当社はイメージを落としたくないんです。世間の基準より厳しい基準でやれというのが社長の方針ですから」
「当分タクシーの相乗りは禁止って言われてますよね」
そういえばそんな布告があったのを思い出した。
「大丈夫ですよ。自粛して10日間ホテルにいるだけですから」

「嘘でしょう。10日も仕事ができなかったら大変な事になりますよ」
「ですから戻ってすぐ引継ぎをしてくださいね」

晴天の霹靂とはまさにこの事であった。
「冗談じゃないぞ」
「取引先の人だって黒田を特に気に入っていて『黒田さん以外では話にならない』なんて言ってくれる人もいるんだ。
突然10日も行けないなんて無茶すぎる。社長は会社をつぶす気なのか?」

「それよりも、明後日の芽衣のピアノ発表会はどうする。こんな状況だけど主催者が太っ腹で何とか予定通りの開催になり、妻と大輔も楽しみにしているんだ。行けなかったら芽衣がどんなにがっかりすることか」

「あれっ!?そういえば…」
「自分が濃厚接触者という事は、オレの家族はどうなるんだ?」

「そんなこと言ったら無限にみんな監禁されちゃうぞ」
「無症状感染というのがそもそもおかしいのに、無症状の陽性だの濃厚接触だの言うから、こんなおかしなことになるんだよな」
「『お前濃厚接触者』って言ったら、決めた人の都合通りに無限に監禁できるよな、これ…」
「どうなっちゃうんだろう」
「まず連絡だな…」
 夕暮れの街を急いで歩いていく黒田の頭の中には、次々にいろんな考えが錯綜した。
だがいつまでたっても、考えが一向にまとまらない。動揺しているから思考力が鈍っているのかも知れなかった。

「大体一番おかしいのが、発信元の荒川さんの娘さんからして、誰一人熱も出ていない無症状だっていうことだよな」
「こんなバカなことってあるかよ。コントみたいだ」
黒田の思考はとりとめもない。

「健康なオレをホテルなんかに監禁して何をしようって言うんだ…」
今まで軽い気持ちでいたが、急に「閉じ込められる」という現実が不安となって感じられ始めたのだ。
 

閉じ込められて

 しかし、意外にもホテルの毎日は快適だった。毎日ハードワークを続けている黒田にとっては、良い骨休みだとも言えた。
会社ともホテルの部屋からオンラインで連絡ができたので、必要な仕事だけはスムーズに進めることができた。いわゆる在宅勤務というやつだ。
 また幸い取引先との連絡も、オンラインでやり取りすることを先方が快諾してくれたので、黒田はとりあえずホッとした。

 検査も切望したため初日にやってもらえた。すぐ結果が出て陰性だった。黒田としては「無実の証明」を得た気分だったが、陰性でも10日は隔離なのだそうだ。よくわからない基準だがどうも抵抗はできそうにない。

 そのため楽しみにしていた発表会参加もやはり無理ということになってしまった。会場で妻が撮影した動画を送ってもらってそれを見るのがやっとだった。

 黒田はオンラインで送られてきた動画をしばらく楽しそうに見ていたが
いつの間にか動画を見つつ涙を流している自分にふと気づいた。
芽衣との練習の日々を思い出していたのかも知れない。

 黒田は、芽衣がピアノを始めた日からよく一緒にピアノを弾いてきた。
彼は昔ミュージシャンを目指した時期があって、キーボードは何でも上手に弾ける。それもあり娘にはどうしても自分でピアノを教えたくて、自宅にいる日は、妻を差し置いていつも自分が教えてきた。休みの日に半日くらい一緒に弾いていることもあった。
 だからこの初舞台を、黒田は自分のことのように楽しみにしていた。
いや、ひょっとすると気づかないうちに、これは自分の発表会だと思い込んでしまっていたのかも知れない。

 昨年は残念ながら中止だったが、幸いにも今年チャンスができた。そして期待が高まり、すべてに優先して発表会をみんなで見に行こうと準備していた、そんな矢先の出来事であった。

「なんでこんな目に遭わなくちゃあいけないんだろう」
 ようやく、黒田は今自分に行われていることのおかしさに本気で気づき始めた。

 これまでは他人事だった。叱りはしたが、黒田も実は後輩の女子社員たちとあまり変わりのない感覚だったのだ。自分の身に被害が及ばないと人はなかなか本気にはなれないということかも知れない。
 世界の国々では独裁政権の国も多い。その国で生きていれば大変なんだろうが、日本で普通に生活していれば、かわいそうだとは思いつつも「自分はそうじゃなくてよかった」くらいにしか思うことはない。
 今回のこの隔離措置だって、自分が隔離されなければ「まあ、しかたないんじゃない」くらいにしかきっと思いはしなかっただろう。

「あの時と同じか」
黒田はこの間山下と話した、いじめの話を思い出していた。
「いつも周りの人が全く無関心なんだ」

 ホテルは会社から遠く離れた都心にあり、その最上部の特設の自粛施設としての階(17階~20階)に黒田は宿泊していた。
ここの見晴らしは素晴らしく都心の様子がよく見渡せる。
 出張でホテルに泊まることはよくあるけれども、東京では意外にホテルに泊まることはないので、その点については黒田は少し新鮮な気分だった。

 ホテルの外はまるで別世界である。時々羽田に向かう飛行機が静かに空を横切る。ここから見渡す街は、オフィスから見るのと違ってイチョウ並木も見えず何だか近未来の世界のようにも見える。
映画に出てくるような未来都市。それに近いものがそこにはあった。
「この風景と比べて、ここに閉じ込められているオレの境遇は一体何だ」

「これからは、こんなことが普通の世界になっていくのかな?」
 黒田は急に真顔になった。

オレはバイキン?

「監禁」と言う言葉が、本当は適切ではないことを黒田はよく理解している。でも自分が望まないのに、10日間もホテルに缶詰めになるのは、黒田からすれば立派な「監禁」だった。

 ある時どうにも我慢ができなくて、外出しようと黒田は決意した。
1階に降りて外の空気を短時間でいいから吸いに行こうとしたのである。

 隔離施設では食事なども自分の階で取れるように準備されているので、基本的に1階におりることは特別な場合を除き許可されていない。エレベーターも止まらない設定になっていた。
だから下に行こうとすれば、階段を下りていくのであるが、ようやく1階に着きカギをフロントに預けようとしたところで、案の定止められてしまった。
 黒田はずるいことが大嫌いなので、ダメだとわかっていても真正面から行ってしまう。鍵なんて持ったまま出ればいいだけなのに、それは彼の美意識が許さない。
「ちょっと外の空気を吸うだけだから」
そう言っても、係員は「お客様それはちょっと」と言うばかりである。当然と言えば当然のことである。
 
 黒田は叱られた子どもような気分になり、仕方なくまた上に戻ろうとして、途中までエレベーターで行こうとした。
そして、何気なくエレベーターの横の貼り紙を見て黒田は愕然とした。
そこにはこう書かれていた。

「濃厚接触者の方はエレベーターは利用しません。どうか安心してご利用ください」

「なんだ。この言い方は」
 黒田はつい辺りに聞こえるような大声で叫んでしまった。

 そしてショックを受けて引き返そうとしたとき、さらに黒田を落胆させる出来事があった。
 黒田の様子を見ていた後ろにいた家族連れの客が、4人一斉に黒田の周りから見事に後ずさりをして、しかも母親と父親はこちらから明らかに顔を背けたのである。

 黒田はこの時初めて、自分が今世の中から「バイキン」扱いされている立場なのだという事に気づいてしまった。

 思い出してみるに、あの時黒田は、「理恵自身がきちんと対抗すればいい」という趣旨のことを山下に言ったが、追い込まれてみればとてもそんなことは無理なのだとわかった。
 世の中の人すべてに順に「自分は健康だ。ウィルスなんて持っていない。陰性だ」なんて言っても何も通用するはずがないのだ。
現に目の前の家族に、自分が安全な人間だと理解してもらえる術すら思いつかない。

 何しろ国が「濃厚接触者」は「隔離」と言っている。熱がなく病気でもなく、さらにウィルスの曝露(ウィルスが体についていること)さえなくてもとりあえず「隔離」である。
 周りの人にだって罪はない。「隔離されている人」に会えば「怖い」と思うのだって当然だ。
 それは論理ではなく感情だから止めることはほぼ無理といってもよい。考えようによってはよく計画されたものである。

 だから黒田は悟ったのである。
「オレは今、周りの人にとっては『バイキン』なのだ」

「世の中が悪くなっていくとき、必ずその根本には他人の痛みへの無関心というものがある。あの時泣いたと言った山下の方が、オレよりまだずっとましだったな…」

 肩を落とした黒田は、エレベーターをあきらめて、とぼとぼと一歩ずつ階段を登り始めた。

隔離期間は、まだわずかに3日過ぎたところだ。






 






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