見出し画像

ココロノコリ 1-10


「ほらほら、ここだって! めっちゃいっぱいパトカー停まってたもん!」
 川村の問いかけにふいをつかれて、答えあぐねている内に、坂の上のほうから嬌声が降ってきた。そちらを振り返る雄大の視線を追って、川村がかすかに驚いた顔をした。
「えー、ちょっとやめなよ。人死んでんでしょ? 怖いじゃん」
「あー、暗くて全然見えないわ。落ちたの崖の真ん中へんだもんね。もっとこう、血がドシャーってなってて、チョークで描いた人型とかあるかと思った。ドラマみたいにさ」
 図書館の職員と思われる人影が幾人か、連れ立ってこちらへ向かってくる。
「でもほら、見てアレ。ガードレール。ガチ凹んでんじゃん」
「うわ。マジか。さすがにちょっとヒくわー」
「反対側歩こうよ。なんか、ついて来たりしたらヤだもん」
「ちょっと、怖いこと言わないでよー」
「あたし帰ったら塩かぶろ」
 怖い怖いと言いながら、半ば以上楽しそうに通り過ぎる女たちを、雄大は苦笑して見送る。
「なんだアレ、人のこと悪霊かなんかみたいに」
 視線を戻すと、川村の真っ黒い大きな目がまっすぐに自分を見つめていて、雄大を驚かせた。
「伊東くん」
「な、なんだよ」
 きゅ、と。
 たじろぐ雄大の肘のあたりを、川村がつかむ。革のライダースジャケットを通しているのに、まるで心臓を直接にぎられたみたいに、鼓動が速くなる。
(バカじゃねぇの、俺)
 何を通していようと関係ない。たとえ直接ふれられたところで、今の雄大には実体がない。川村にもだ。だから、どんなに距離が近づいても、結局のところ、これは。
(錯覚、なんだし──いや、でも)
「──聞こえるの?」
 自分より頭半分小さい川村に、そうして近くから見上げられると、わずかにかがむだけで唇が重ねられそうなその距離に、どうしようもなく、心がざわめく。
「何が」
「さっきの人たちの声」
 意気込んでわけのわからないことを訊く、川村の頬が上気している。
「……うん」
「僕には聞こえない」
 川村の、もう片方の手も、雄大の腕に置かれる。それほど強くつかまれているわけではないのに、おそらく初めて見る川村の笑顔に、身動きができない。川村の黒い瞳が、月光を映して光る。
「聞こえないんだ。死んでるから」
「は?」
「死んだあと、家で気がついてから、生きてる人の声が聞こえないんだ。生きてる人がたてる音とかも」
 雄大は途方に暮れて、司書たちが下って行った坂の先に目をやる。
「いや──だけど」
「うまく説明できないけど、分かるんだ。生きてるものの音が聞こえないのは、自分が死んだからだって」
「でも、俺は──」
「伊東くん。今、何が聞こえてる?」
「何がって……」
(心臓の音)
 期待をこめて見上げる川村の、つくりもののように綺麗な顔から、目をそらす。
「川村。近ぇよ」
「──あ」
 慌てて手をはなし、ついでに過剰なくらい雄大から離れて、川村は謝る。
「ごめんなさい」
 ずいぶんと悲しげな顔をされて、雄大はうろたえる。
「や。別に」
 川村が、目の前で教科書に火を付けられるのを見たことがある。やった奴らがヘタレだったのか、ライターの炎に限界があったのか、表紙が焦げる程度で大事には至らなかった。そのときも、顔色一つ変えなかった川村が、今夜は表情をくるくる変える。
(何が聞こえるかって……)
 今、何より大きく聞こえているのは、自分の鼓動だ。止まっているはずの、心臓の音。それから、川村の息遣い。絶えているはずの、川村の呼吸。それから、生きている間にはほとんど聞くことのなかった、川村の声。──そんなことは言葉にできなくて、雄大は丘の下の幹線道路に視線を移す。
「車の音、とかは、聞こえてるけど?」
 ほんのかすかに、川村の息が乱れた気がして、振り返る。
(──え)
 ぽたり、と、一滴だけ。
 この一年、何をされてもこぼすことのなかった川村の涙を、初めて、雄大は見た。
「良かった……」
「え?」
「たぶん、だけど」
 月の下で、川村の黒い瞳が雄大を見上げる。
「伊東くんは、生きてるんだと思う」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?