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ココロノコリ 1-6



 この一年、無抵抗の若葉に執拗に嫌がらせを繰り返した少年たちの中心には、いつも伊東雄大がいた。
 上靴が消える。教科書が消える。忍び笑い、あからさまな当てこすり、机の上の落書き。ある朝、窓際の自分の席に白い花を入れた花瓶が置かれていたときに、ああ、これはイジメなのだと、若葉はようやく理解した。理解して、同時に、少し呆れた。
(オリジナリティがない)
 まるでイジメとはこういうことをするものだというマニュアルでも参照したかのようだ。くだらない、と、頭では思っても、その個々の行為のわずらわしさがなくなるわけではなかった。
(さて──どうしよう)
 程度の低い葬式ごっこにつきあって、家に戻ったり、職員室に駆け込むほどにビビってはいない。けれど、大ぶりの花瓶が机に乗ったままでは、今日一日授業にならないし、第一目立つ。花瓶を本来の位置まで戻すにしても、教卓に向かうには、こっちの様子をうかがってニヤニヤしている伊東や小笠原のグループの席を抜けていかなければならない。
(まあ、とりあえず)
 若葉は花瓶を持ち上げて、すぐ脇の窓枠に静かに乗せた。多少バランスは悪いけれど、倒れてくるほどのことでもない。左側に気をつけて過ごせば、今日一日はこれでもつ。
 若葉が淡々と席につくと、教室に満ちていた緊張感が、心なしか緩んだような気がした。伊東たち一握りの少年以外は、自分と同じく平穏な日常を望んでいるのだと気づいて、若葉が小さく息をついたとき。
 パタン、と、一歩目の足音が聞こえた。かかとをふんだ上履きの底が、だらしなく床に接地する音。パタン、パタン、パタン。──この音は。
(伊東くん)
 こちらに向かう足音の主を見ないでいようと、若葉は手元に視線を落とす。パタン、と、若葉のすぐ右横で止まった足音の主は、ついさっき窓枠に安置されたばかりの花瓶を、あっさりとつかんで、あたりまえのように、若葉の頭上で、ひっくり返した。
「──!」
 驚きで、やはり、顔をあげてしまう。ほんの少し目元がキツすぎるのが玉に瑕の、若手俳優のように整った伊東雄大の顔が、わずかに首をかしげて、若葉を見下ろしていた。
(冷たい)
 首をつたって、シャツの内側に垂れてゆく水滴が、気持ち悪かった。けれど、伊東の、動物のそれのように意図の読めない瞳に見据えられて──動けない。
「んー……」
 眉を寄せて何かを考えていた伊東は、くるりとあたりを見回して、前の席に置かれていた、飲みさしのポカリスエットのペットボトルをひょいと取ると、若葉の肩のあたりで、さかさにした。
 そうして、若葉に童話に出てくるキツネを連想させたあの表情で、初めて、言ったのだ。
「水もしたたる、な、川村」
 怖い、でも、悔しい、でもなく。
(意味がわからない)
 花瓶の水がかけられたあと、それが解禁の合図だったように、若葉への嫌がらせはエスカレートした。いつの間にか、加わる者の人数も増えた。
 マニュアル通りの集団心理だ、と、若葉は思う。始めた伊東や小笠原より、後からそれに加わった、普段は目立たない生徒のほうが、より陰湿な嫌がらせをした。英語の試験の前に電子辞書がなくなったり、厳しい教師の担当科目に限って課題プリントが破かれていたりするのは、たいていそういう連中のしわざだ。
(受験のストレスとか、成績コンプレックスとか)
 あとはただ、周囲に取り残されたくなくて、迎合しようとするだけの者。日常についてまわる様々な困難に、若葉は淡々と対処することにした。目の前で行われる自分に対する嫌がらせを、全面的に否定する。闘うのではなく、なかったことのように振る舞う。それが、若葉なりの自衛の方法だった。
 高校生にもなって、馬鹿げた嫌がらせをする連中をくだらないと思ったし、興味もなかった。ただひたすらに、わずらわしかった。
 ──けれど。
(伊東くん、だけは──)
 怖かった。どんなに冷静になろうとしても、伊東雄大に対する、原始的な恐怖感だけは、克服しようがなかった。
(花瓶の水を、かけられただけなら)
 まだ、わからなくもない。若葉の反応を楽しもうとして花瓶を置いたのが伊東かその仲間なら、冷静にそれを除けた若葉にキレたのはわかる。怒ってその中身をぶちまけるのもわかる。けれど、そのあとの、あの。
(──ポカリスエット)
 まるでそれは、ただ、まだ濡らしたりないという判断で追加されたもののような気が、若葉にはした。その、意図の不明さが、怖い。
 伊東雄大は、まるで、単純に若葉を濡らしたいだけのように、見えた。

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