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ココロノコリ 1-3


 ほんの少し不思議そうな、夜の色の瞳が、雄大を見上げる。
 こいつはいつもそうだ、と、雄大は思う。頭から水をかけても、目の前で机を蹴りたおしても、泣きも、わめきもしない。ただ、人を噛む犬でも見るような、怯えと蔑みと好奇心の混ざった目で、雄大を見る。
「伊東くんの、家……」
「──は?」
 沈黙されることに慣れていた川村から反応が返って、雄大は寄りかかっていたガードレールからすべり落ちそうになった。
「三枝木町でしょう? 歩いて、来たの?」
 雄大には、川村の言葉の意味が分からない。
「何言ってんの、お前」
 川村はいつものように、動揺のない静かな顔で雄大を見返した。けれど、いつものようには黙りこまずに、考え考え、言葉をつなげる。
「僕は、気づいたら、家にいたんだ。自分の柩があって、お坊さん来てて、お通夜で。ああ、死んだんだなあって思って、それで」
 そういうことか、と、雄大は理解し、カツン、と、上げた踵でガードレールを蹴る。
「俺はコレ、越えちまったとき、ああもう死んだなぁ、って思ったからな」
 加速と、ninja250と、少年二人分の命の重みに耐えかねてひしゃげた、白いガードレール。
「じゃあ、あれからずっとここにいるの?」
(──そういえば)
 ぶつかって、体がはねて、またどこかにぶつかって。そうして生の記憶がとぎれてから、ぼんやりと立ち尽くしている自分に雄大が気づくまでに、かなりの時差がある。
「気がついたら、ここにいたけど。もう、片づいてたな」
 ガードレール下の崖と、その先の林に目をやる。
 自分のも、川村のも、遺体は目にしなかった。警官が何人かと、事故を目撃したと思われる通行人が、現場検証をしていた。その作業も、終わりに近いころだったと思う。
「やっぱ、陽ィ落ちねぇと出られないのかもな。ユーレーだから」
「そうかな」
 川村が、自分の右手を街灯のほうにかざしてみている。一度も日焼けなどしたことがないような、透けそうに白い肌だ。雄大は思わず、その白さから目をそらす。
「で、なんだよ」
「──え?」
「巻き添えくって死んじまって、恨み言でも言いに来たのか? あいにくこっちもユーレーじゃ、化けて出がいもねぇだろうけどな」
 こんなふうに川村と話すのは初めてだ。何かがとりかえしのつかないほど転がり始めて、川村へのイジメが加速する前、ただのクラスメイトだったころですら、個人的に言葉を交わした記憶がない。
「そういうわけじゃ、ないんだけど」
 黒目がちで、線が細く、ともすれば少女と見間違えそうな外見なのに。当たり前に変声期を過ぎた川村の声は、少しかすれて、その華奢な身体から想像されるよりは、幾分かだけ、低い。
「伊東くん、あのとき」
 よく考えれば、と、雄大は思う。自分はもう、死んでいるのだから。
(川村を見ても、いいんだな)
 ずっと恐れていたこと、川村のこの、人形めいた小さな顔や、華奢な手足、ぞくりとするほど黒い瞳に、見惚れてしまっても。そんな自分の姿はもう、誰の目にも見えないのだと思う。
「ブレーキ、かけなかったでしょう?」
 それでも今更、あたりまえのように川村を視界に入れることなどできなくて、うつむいた雄大の耳に、その問いかけが飛び込んでくる。
「最初から、そのつもりだったんじゃないかなって。気になって」
「…………」
 ガードレールに乗り上げて、体が跳ね上がって。腰に回されていた川村の腕が、ほどけるのを感じた。視界の隅で、川村の身体が跳ねるのを見た。薄れていく最後の意識で雄大は、自らの死への恐れより強く、俺はあいつを死なせてしまったのだと、思った。
「死のうとか思ってたわけじゃねぇよ」
 次に気がついたら、この坂に立っていた。周囲を見渡してみたけれど、川村はいなかった。ああ、あいつは成仏したんだなと、思った。俺と違って、罪がないから。
「言ってんの、そういう意味ならな」
 自分はここを動けない、と雄大は思った。
 本当のことを告げるまで、この場に立っていなければならない。告げるべき相手は、もう、いなくても。それを言葉にしないでは、ここを去れない。  そう思って、ただ、陽がくれて、夜が深まるのを、眺めていた。
 ──俺には、心残りが、ある。

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