見出し画像

ココロノコリ 1-8


 みゃあおう、と、夜の底から甘い声がして、雄大は足元を見下ろした。サンダル履きの雄大の足にするりと身を寄せる、猫の毛皮のしなやかさが、自分にはもう本当の触覚はないのだろうことを忘れさせる。
 川村の小さな顔から目をそらさせてくれたことに感謝して、雄大はその猫の、小さな白い身体を抱き上げた。
「うわ、あったけぇ」
 そう口にしてから、そういえば川村の言うとおり、なんだか少し寒い気がすることに気づく。晴れた夏の宵だというのに。
 腕を返してじゃれつく猫を遊ばせていると、川村が小さくつぶやいた。
「さっきの猫……」
 事故の話から川村の気がそれたことで、雄大も少しだけ緊張を解く。
「死んでても、猫にはさわれるもんなんだな」
 ビロードのような背中に頬をつけ、ピンと立つ小さな耳に口をつける。雄大は、生きているものが好きだ。
「伊東くん、それ、たぶん……」
「飼い猫だな。馴れてるし、毛並みいいし」
 川村は、言いかけていた言葉をのみこんで、うんそうだね、と肯いた。
 雄大は猫を前脚でぶらさげ、下腹をのぞきこんで確認する。
「オスだな」
「え……」
 たったそれだけのことで、川村はふわりと赤くなる。
(──可愛いな)
 そう思ったのが表に出ないように、雄大は手の中の猫をめちゃめちゃに撫でる。猫は心地よさげに雄大を見上げ、撫でれば撫でるだけ鳴いた。何かに飢えていたように身を寄せる小さな身体から、わずかに鼻にかかった甘い鳴き声が、夏の夜にこぼれでる。
「え。あ、れ……?」
 みゃあ、みゃあ、と──一声鳴くごとに、猫の満足がこぼれて流れて、夜に溶けていく。その甘い一声ごとに、雄大の掌の中で、猫の存在が薄くなる。そして。
「わ。消え──!?」
 ひときわ高く一声鳴いて、夜の底で小さく光っていた白い猫は、雄大の指の間をすりぬけ、昇華して、夜の空気に戻っていった。
「やっぱり……」
 猫の消えた先を追うように、川村の視線が空をさまよう。その先で、きりきりに細い三日月が、砥がれた刃物のように雄大を見下ろしている。
「やっぱりって、何だよ」
「死んでたから、さわれたんだと思う。死んだ猫だったから」
 雄大は、急速に仔猫のぬくもりの薄れてゆく自分の両手を見下ろした。
(死んだ猫……)
 死んだ猫を抱き上げることができるのは、自分が死んだ少年だから。その事実が身に染みて、少しだけ、手が震える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?