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「じかに見る」ということ(筆者:あおいみかん)

ぼくたちは、普段、自分が見ている世界に疑いをもたない。
しかし、自分の見ている世界は本当に、見ている通りなのか。

人は見たいようにこの世界を見ていると言われる。
この世界はあなたがつくりあげた世界だとも言われる。

いま目の前に広がる世界は本当に存在するのだろうか。
もし、見ているものがまぼろしだとしたら、現実もしくは真実をぼくたちはどうやって知ればいいのだろうか。
また、その方法はあるのだろうか。

ぼくたちの見ている世界

今日も目が覚めると、窓の外はいつも通りの世界が広がっており、日常と言われる一日が始まる。
みんな、それぞれが、それぞれの今日を生きている。

そんな世界が当たり前にあり、ぼくたちはそのことになんの疑いももたない。
今見ているものが現実であり、真実だと信じて疑わない。

しかし、それはたくさんの幻を含んでいて、真実から程遠いものかもしれない。
言い換えれば、脳が作り上げた仮想空間に生きているといっても過言ではないと言われたら、あなたはどう思うだろうか。

そのことについて池谷裕二氏は次のように、説明している。

『進化しすぎた脳』

その動物にとっての世界とは、動物に固有のもので、動物の目や体や脳によってつくられた〈世界〉が、その動物にとって世界そのものなんだよ。

『進化しすぎた脳』(池谷裕二)

世界がそこにあって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。(中略)世界を脳が見ているというよりは、脳が(人間に固有な)世界をつくりあげている、といった方が僕は正しいと思うわけだ。

『進化しすぎた脳』(池谷裕二)

つまり、ぼくたちが見ているこの世界は、ぼくたちの脳が作り上げたもので、ありのままの世界ではないということだ。

幻の世界

吉村萬壱氏も『生きていく上で、かけがえのないこと』という著書の中で、見ることについて次のように池谷裕二氏を引用している。

『いきていくうえで、かけがえのないこと』

池谷裕二の『進化し過ぎた脳』によると、網膜から入った情報のうち、大脳皮質の視覚野に到達するのは3パーセントに過ぎず、あとの九十七パーセントは脳自身が作り出しているという。我々は世界をありのままに見ているのではなく、見たいものだけを見ているようだ。

『いきていくうえで、かけがえのないこと』(吉村萬壱)

また、池谷裕二氏は、色さえもありのままではなく、ぼくたちは脳が作り上げた幻の色を見ているのだという。

『夢を叶えるために脳はある』

赤と緑と青の3色以外のすべての色は、幻の色だ。赤と緑の色センサが同時に刺激されると、黄という幻色になる。赤と青のセンサが同時に刺激されると、紫という幻覚が脳内に浮かび上がる。

『夢を叶えるために脳はある』(池谷裕二)

僕たちの目(網膜)は、赤と緑と青の3色のセンサしかもっていない。
それなのに、この世界がカラフルに見えるのは、脳がこの世界に彩りを与えているからに他ならない。
つまり、ぼくたち人間にとって、赤、緑、青以外は、幻の色でいろどられた世界であり、本当の色の世界を見ているわけではないということだ。

「じかに」見る

ここまで、自分の見ている世界が、ありのままの世界ではないということについて書いてきた。

では、いったい僕たちの世界は、本当はどんな姿をしているのだろうか。
そして、それを見る、もしくは知る術はないのだろうか。

若松英輔氏が『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』の中で、柳宗悦むねよし氏の言葉を引用し、脳が作り出す世界から脱する方法のヒントになることを書いている。

『自分の人生に会うために必要ないくつかのこと』

どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。じかに物が目に映れば素晴らしいのである。大方の人はなにかを通して眺めてしまう。いつも目と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。
(「茶道を想う」『柳宗悦 茶道論集』)

『自分の人生に会うために必要ないくつかのこと』(若松英輔

人は何かを見る時に、すでに知っているという記憶を見ている。
それに気づいて“「じかに」見る”ことが、ありのままに見ることの第一歩であり、全てである。
そう言っているように感じた。

なぜ「じかに」見ることができないのか

脳が作り出した説明可能な事物ではなく、存在そのものを「見る」こと、即ちありのままの世界を見ることには恐怖と魅惑とが伴う。優れた詩人はきっとそのような世界に生きているに違いない。この畏怖すべき実相世界は、恐らく人間の支配を受けない神の領域に属するものだろう。しかし普通のごく平凡な精神が、そんな世界に果たして耐えられるだろうか。それに耐えられないからこそ、我々は見たいものだけを脳内で営々と作り続けてきたのではないか。
 しかし、本当は全ての人間が、捏造世界ではない、この直接的なありのままの世界を心のどこかで知っているような気もする。(中略)しかし、見ないということと、知らないということとは違う。直接には見なくとも、その気配を感じることはできる。純粋な注意を向けるならば、見ないままで「見る」ことが可能かもしれない。

『いきていくうえで、かけがえのないこと』(吉村萬壱)

吉村萬壱氏は、人は本当の世界を見た時に、精神が耐えられないから見たいものだけを見ているのだという。

では、ぼくたちはあるがままの世界を見たらどうなるのだろうか。

そのことについて、若松英輔氏はその著書『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』の中で岡本太郎氏の体験を紹介している。

ハッと驚いた。体が震え上がる思いだった。涙がポロポロ出てきて、わが人生、絵に感動したってことはほとんどないんだ。しかし、あれには、全身が圧倒されてしまった。
(『ピカソ[ピカソ講義]』)

涙は美術館を出ても止まらなかった。岡本はセーヌ河をたどって歩く下宿までの道のりも、涙を流しながら歩いたという。

『自分の人生に会うために必要ないくつかのこと』(若松英輔)

おそらくこの時、岡本太郎氏は「じかに」見たのではないだろうか。
その生々しい体験がありありと伝わってくる。
きっと「じかに」見た時、人はそういう体験をするのだろう。

「かなしみの涙」

若松英輔氏によれば、かつては、「愛し」さらには「美し」と書いて「かなし」と読んだという。

『悲しみの秘儀』

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。

『悲しみの秘儀』(若松英輔)

ぼくたちは、「じかに」に見た時、「かなしみの涙」を流すのだろう。
そのときの感動とでもいうべき体験は、この「愛」や「美」の字を用いた「かなし」のことで、だからこそ、その時、自然と涙があふれてくるのではないだろうか。

画家は、だれもが素晴らしいと想うものを描くのではない。
日常のなかに垣間見る美をキャンバスに映しだすという。

ぼくは、絵にはうとく、絵についてよくわからずに生きてきたが、もし、「じかに」見えた時には、「愛し」や「美し」を体験し、きっとそれを「かなしみの涙」が教えてくれることだろう。

そんな体験は、おそらく言葉にはできない。

きっと言葉を得るまでの子どもたちは、「じかに」見ているのではないかと思う。
大多数の人にとって、ある歳までの記憶がない。
それは、それ以前の「あるがままの体験」や「じかに見たもの」は言葉では表現できないからだ。

一度でいい。
「じかに」見たい。
この世界を。

あおいみかん


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