「じかに見る」ということ(筆者:あおいみかん)
ぼくたちは、普段、自分が見ている世界に疑いをもたない。
しかし、自分の見ている世界は本当に、見ている通りなのか。
人は見たいようにこの世界を見ていると言われる。
この世界はあなたがつくりあげた世界だとも言われる。
いま目の前に広がる世界は本当に存在するのだろうか。
もし、見ているものが幻だとしたら、現実もしくは真実をぼくたちはどうやって知ればいいのだろうか。
また、その方法はあるのだろうか。
ぼくたちの見ている世界
今日も目が覚めると、窓の外はいつも通りの世界が広がっており、日常と言われる一日が始まる。
みんな、それぞれが、それぞれの今日を生きている。
そんな世界が当たり前にあり、ぼくたちはそのことになんの疑いももたない。
今見ているものが現実であり、真実だと信じて疑わない。
しかし、それはたくさんの幻を含んでいて、真実から程遠いものかもしれない。
言い換えれば、脳が作り上げた仮想空間に生きているといっても過言ではないと言われたら、あなたはどう思うだろうか。
そのことについて池谷裕二氏は次のように、説明している。
つまり、ぼくたちが見ているこの世界は、ぼくたちの脳が作り上げたもので、ありのままの世界ではないということだ。
幻の世界
吉村萬壱氏も『生きていく上で、かけがえのないこと』という著書の中で、見ることについて次のように池谷裕二氏を引用している。
また、池谷裕二氏は、色さえもありのままではなく、ぼくたちは脳が作り上げた幻の色を見ているのだという。
僕たちの目(網膜)は、赤と緑と青の3色のセンサしかもっていない。
それなのに、この世界がカラフルに見えるのは、脳がこの世界に彩りを与えているからに他ならない。
つまり、ぼくたち人間にとって、赤、緑、青以外は、幻の色で彩られた世界であり、本当の色の世界を見ているわけではないということだ。
「じかに」見る
ここまで、自分の見ている世界が、ありのままの世界ではないということについて書いてきた。
では、いったい僕たちの世界は、本当はどんな姿をしているのだろうか。
そして、それを見る、もしくは知る術はないのだろうか。
若松英輔氏が『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』の中で、柳宗悦氏の言葉を引用し、脳が作り出す世界から脱する方法のヒントになることを書いている。
人は何かを見る時に、すでに知っているという記憶を見ている。
それに気づいて“「じかに」見る”ことが、ありのままに見ることの第一歩であり、全てである。
そう言っているように感じた。
なぜ「じかに」見ることができないのか
吉村萬壱氏は、人は本当の世界を見た時に、精神が耐えられないから見たいものだけを見ているのだという。
では、ぼくたちはあるがままの世界を見たらどうなるのだろうか。
そのことについて、若松英輔氏はその著書『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』の中で岡本太郎氏の体験を紹介している。
おそらくこの時、岡本太郎氏は「じかに」見たのではないだろうか。
その生々しい体験がありありと伝わってくる。
きっと「じかに」見た時、人はそういう体験をするのだろう。
「かなしみの涙」
若松英輔氏によれば、かつては、「愛し」さらには「美し」と書いて「かなし」と読んだという。
ぼくたちは、「じかに」に見た時、「かなしみの涙」を流すのだろう。
そのときの感動とでもいうべき体験は、この「愛」や「美」の字を用いた「かなし」のことで、だからこそ、その時、自然と涙があふれてくるのではないだろうか。
画家は、だれもが素晴らしいと想うものを描くのではない。
日常のなかに垣間見る美をキャンバスに映しだすという。
ぼくは、絵には疎く、絵についてよくわからずに生きてきたが、もし、「じかに」見えた時には、「愛し」や「美し」を体験し、きっとそれを「かなしみの涙」が教えてくれることだろう。
そんな体験は、おそらく言葉にはできない。
きっと言葉を得るまでの子どもたちは、「じかに」見ているのではないかと思う。
大多数の人にとって、ある歳までの記憶がない。
それは、それ以前の「あるがままの体験」や「じかに見たもの」は言葉では表現できないからだ。
一度でいい。
「じかに」見たい。
この世界を。
今後の活動費に使わせていただきます!