読書家の女優 南沢奈央さん推薦! 可愛すぎると米国で話題を呼んだ『ツイート・ウォーズ~キュートでチーズな二人の関係~』試し読み①
ペッパー
断じて言い訳ではない。アラームは確かに鳴ったけれど、オーブンからは煙なんて大して出てはいなかった。
「あーら、おたくのマンション、火事じゃなくて?」
ノートパソコンを半開きのところまで閉じた。ちょうどペンシルベニア大学にいる姉とスカイプで話している最中で、画面の半分に姉の顔、残りの半分には『大いなる遺産』についての小論文が立ち上がっていた。書いては書き直し、をもう何回くり返したことか。さすがのチャールズ・ディケンズもいい加減しびれを切らし、お墓の中で足をばたつかせているんじゃないだろうか。
「違うよ」と答えながらキッチンに直行、オーブンのスイッチを切る。「ギリいけるかな?」
オーブンを開けたとたん、煙がボワッと吹き出し、その先には真っ黒こげのモンスター・ケーキが鎮座していた。
「ダメだわこれ」
パントリーから脚立を出してきて火災報知器のアラームを止め、ありとあらゆる窓を全開にした。ここはマンションの二十六階。眼下にはアッパー・イーストサイドの風景が広がっている――無数の超高層ビルの明かりは、まともな人間ならとっくに寝ているはずの時間になってもまだ、煌々と灯っている。しばし目を奪われた。息をのむほどのこの眺めに、どうしてもまだ慣れない。ここに来てもう四年近くになるのに。
「ペッパー?」
あっ、そうだ。ペイジだ。パソコンをまた開ける。
「鎮火いたしました」親指を立てて見せた。
ほんとかよ、と言わんばかりにペイジは片眉を上げたが、すぐに前髪を手で梳かしにかかる。わたしもつられて自分の前髪に触れたくなり、結果、モンスター・ケーキのバターをべったり前髪にくっつけてしまった。ペイジがあーあ、と渋い顔をする。
「ねえ、本気で消防車を呼ぼうってときには、もっと高いカウンターに乗っけてね。超絶セクシーな消防士の突入シーンなんて、絶対見逃したくないじゃない」と、ここでペイジの目が画面の中の、わたしじゃないところに向いた。決まってる。ふたりでやっているベーキング・ブログへの投稿が、まだ途中のままなのだ。「てことは、今夜投稿する分の写真は撮れないってことね」
「先に焼いといたのが三つあるから、粉砂糖だけかけちゃえば撮れるよ。あとで送っとく」
「やば! モンスター・ケーキばっか、どんだけ作ったのよ? マムは? まだ出張中?」
ペイジと目を合わせないように、コンロの上を見る。焼きあがったケーキがずらりと並んでいた。ペイジがマムのことを訊くなんて、この頃めったにないことだけに、答えにはいつも以上に気を遣わなきゃいけない気がする――いやでも、今は危うくキッチンを丸焼けにしかかるほど、小論文で追い込まれているのだ。なのにそれよりもっと気を遣わないといけないってなんなの。
「明後日ぐらいには帰って来るでしょ」と言ってから、どうしても我慢できなくてこうつけ足した。「こっちに来たいんなら、来れば? この週末は出かける予定もないし」
ペイジは鼻にぎゅっとしわをよせる。「パス」
わたしは頬っぺたの裏側を噛む。ペイジときたら頑固にもほどがある。こんなだから、わたしがペイジとマムの間にできた溝を埋めようとどんなに手を尽くしても、結局事態は悪化するばかりなのだ。
「むしろそっちがペンシルベニアまで来ればいいじゃない」あっけらかんと言ってくる。
すごく行きたかった。でもこの『大いなる遺産』の小論文だけではない、やらなきゃならないことが山積みなのだ。AP(アドバンスト・プレイスメント)統計学の試験とか、AP生物学プロジェクトとか、ディベートクラブの下準備とか。おまけに明日は、わたしが女子水泳部のキャプテンになって初めて迎える部活の日。挙げだしたらキリがない――わたしにのしかかる、とんでもなく大量のストレスが氷山だとしたら、これでもまだほんの一角にすぎないのだ。
自分がどんな顔をしていたか知らないが、すっかり全部代弁してくれていたみたいだ。ペイジが参りましたとばかりに両手を上げていたから。
「ごめん」思わず謝った。
「だからさ、なんでそうやってすぐ謝っちゃうかな」とペイジ。目下フェミニズム論の講義にどっぷりはまっていて、なにかというとすぐ、それを盾に突っかかってくる。「でもって結局、何がどうなってるわけ?」
まだ残る煙を、窓に向かってバタバタ扇ぎながら答えた。「どうって、わたしが?」
「だってなんか……変だもん……華麗なる卒業生総代とか、目指しちゃってる?」画面の向こうから指さしてくる。
「成績が気になるだけ」
ペイジの鼻息が荒くなる。「うちにいた頃は、気になんかしてなかったよね」
ペイジが言う「うち」は、ナッシュビル。わたしたち姉妹が育った場所。
「こっちは大変なの」知ってるくせに、という口調にはならないようにした。現にペイジは、わたしと違ってストーン・ホール・アカデミーには行かなくて済んだわけだし。超一流でやたら競争が激しい私立の進学校なのだ。あの『ゴシップ・ガール』のブレア・ウォルドーフなら、この学校に足を踏み入れて二分後にはもう、メラメラと闘志をたぎらせていたに違いない。マムがわたしたちを連れてこっちに移り住んだ時点で、ペイジはもう四年生になっていて、イーストサイド地区の公立高校に行くと言って譲らなかった。そもそも、もう前の学校から、大学出願に有利な成績をもらってしまっていたのだ。「評価の基準が厳しいの。大学進学となるとなおさら競争が激しくなるんだもん」
「だとしてもあなたはあなたでしょ」
あーもう、だから平気だったのは、ペイジがフィラデルフィアに行ってしまったあのときまでの話なんだってば。今や、クラスメイトからは殺戮ロボットと言われている。あとは「ぶりっこ優等生」とか、「ペッパーお嬢さま」とか。じゃなければジャック・キャンベルが、週の始めにわたしの名前の上にくっつけると決めたあだ名が、その一週間の通り名になったりもする。クラスいちのお調子者と誰もが認め、わたしのいちばん嫌なところを何かにつけチクチク刺してくる同級生だ。
「それにほら、コロンビア大学に早期意思決定の願書も出したんでしょ? もしかしてBプラスなんかもらったらおしまいだとか思ってる?」
そうは思わないけど、実はそうだったりしなくもない。ホームルームで女子たちが話していた。すぐ近くのあの高校でさ、卒業目前でやる気を失くしちゃった生徒がいたんだって。そしたらね、コロンビア大に合格を取り消されたんだって。と、なんの確証もないこんな噂ごときでも疑心暗鬼になってしまう、そんな心境をわかってもらいたかった。ところがそのとき不意に玄関のドアが開き、カツカツカツ、と、マムのヒールがフローリングを叩く音が聞こえてきたのだ。
「じゃね」とペイジ。
わたしが画面を振り返ったときにはもう、スカイプは切れていた。
ため息まじりにパソコンを閉じたのと同時に、マムがキッチンに入ってきた。飛行機に乗るときのいつもの格好だ。黒のタイトジーンズにカシミアのセーター、そして大ぶりの黒のサングラス。ただこんな遅い時間にかけているのはさすがにおかしいと言わざるを得ない。マムはサングラスを外すと、完璧にセットしたブロンドの髪にちょいと乗っけてわたしを、そしてピカピカにしておいたはずのキッチンに吹き荒れたハリケーンの爪痕をも、じっと見ている。
「早かったね」
「てっきりもう寝てると思ったわ」
一歩踏み出してわたしを引き寄せハグ。なのでわたしもほんの少しきつめに、ケーキのバターまみれの人間にしてはたぶんやり過ぎなほどには、ハグを返した。ほんの数日だったけど、マムがいなくて寂しかった。しんと静まり返った中に一人でいるのにはまだ慣れない。ペイジもダドもここにはいてくれない。
マムはハグしたまま、わかりやすくクンクンと匂いを嗅いだ。焼き菓子が焦げた匂いを思いきり嗅いだに違いないのだが、体を離すと、さっきのペイジそっくりに方眉を上げただけで、何も言わない。
「小論文の課題があるの」
マムはずらっと並んだケーキを眺めている。「前からずーっと読んでるんじゃないの」しかめっ面で訊いてきた。「あの『大いなる遺産』のやつ?」
「まさにそれ」
「先週書き終わったんじゃなかった?」
ごもっともだ。いよいよ追い込まれたなら、前に書いたのを引っぱり出してきて提出すればいいとは思う。ただ問題は、ストーン・ホール・アカデミーで追い込まれるというのは、痛めつけられ、二度と立ち上がれないほど打ちのめされるのとほぼ同義だということ。わたしはアイビー・リーグの入学選抜を争っている。初代イエール・ブルドッグの直系の子孫だというだけで入学が優先される、そういう生徒たちがライバルだ。良では足りないし、優なら大丈夫、でもない――ライバルはぶっつぶすのみ。さもなければぶっつぶされる。
いや、あくまでも比喩的に言えば、だけれど。そうそう、比喩で思い出した。比喩表現まみれのこの本、なぜだろう、二回も通読したし、どれだけつけたかわからないくらい注釈もつけまくったのに、それでもやっぱり、AP文学の先生の眠気を吹っ飛ばすような解釈が、これっぽっちもできないのだ。わかってもらえる文章を書こうとすればするほど、明日の水泳部の練習のことが頭に浮かんできてしまう。キャプテンとして迎える練習初日。しかもプージャは夏休み中、強化合宿に参加していたというし、ということは、今はもうわたしより速くなっているかもしれないわけだし、つまりわたしの地位をいつ揺るがしにかかるか、いつみんなの前で大恥をかかせにくるかわからないわけで――。
「明日は学校に行かないで家にいる?」
目をぱちくりさせてマムを見た。マムの肩からもう一つ頭が生えてでもきたみたいに。そんなことは絶対できない。一時間でも無駄にしたら、周りのみんなに置いていかれる。
「ううん、大丈夫、行くから」カウンターに腰かけた。「会議ばっかり無限に続くって言ってたけど、終わったの?」
マムは、何がなんでもビッグ・リーグ・バーガーを海外展開させてみせると心に決めていて、ここ最近は本当にその話しかしない――パリやロンドン、ローマにまで出向いて投資家たちに会い、ヨーロッパのどの街に第一号店を出せばいいか見極めようとしている。
「まだなのよ。また行くことになると思う。ただ、明日からの新メニューの件で社内がもうてんやわんやなものだから、そのさなかにわたしが出張してるって、さすがにまずい気がするのよね」とにっこり笑う。「それにほら、ちっちゃなわたしにも会いたかったし」
フフッと鼻で笑ってあげたけれど、マムは全身デザイナーズブランドの完全武装、わたしはしわくちゃのパジャマ。現時点ではちっちゃなマムどころか、まったくの別ものだ。
「新メニューで思い出した」とマム。「タフィがね、あなたから全然返信が来ないって」
かなりイラっとしたけど、顔には出さないようにした。「ああ、それね。お店に行列ができるようなツイートのアイデアはないかって訊かれていくつか送ったの。たしか、何週間か前ね。そのあと宿題が山ほど出ちゃって」
「忙しいのはわかるけど。あなたには才能があるんだから」と、わたしの鼻にちょんと触れる。小さい頃からこのしぐさだけは変わらない。わたしが寄り目になるのを見て、マムとダドがよく大笑いしてたっけ。「それにほら、言ったわよね、家族にとってもすごく大事なことだって」
家族にとっても。わかってる。そういう意味で言ったわけじゃないのは。でも神経を逆なでされたのは確かだ。わたしたち家族がどこから始まって、今どこにいるか、考えてもみてほしい。
「うん、わかってる。ダドはきっと、わたしたちのツイートを待ち望んで夜も眠れないのよね」
マムは、ダドのことは言わないでとばかりに目を見開いた。ダドのことに限っては、こんな風に愛おしそうに、それでいて苛立たしそうにしてみせるのだ。両親が数年前に離婚し、それからいろいろなことが変わってしまったけれど、二人は今も愛し合っている。マムが言うとおり、恋愛の「真っ最中」ではないにせよ。
たしかに二人の間には愛があった。が、苦労のほうが断然多かった。マムとダドがナッシュビルでビッグ・リーグ・バーガーを始めたのが十年前、最初はただのパパママショップで、ミルクシェイクとバーガーしかやっていなくて、毎月の店の家賃を払うのもやっとだった。まさかビッグ・リーグ・バーガーがここまでフランチャイズ展開に成功し、アメリカで第四位のファストフード・チェーンになるなんて、誰一人思っていなかった。
わたしだって思ってもいなかった。まさか両親が、友好的どころか心底朗らかに離婚してしまうなんて。ペイジがマムを、離婚を切りだした張本人だからと徹底的に拒絶するようになるなんて。マムにしたって、裸足で駆けまわるカウガールから、ファストフード界の大御所に百八十度転身し、娘たちをマンハッタンのアッパー・イーストサイドまで連れてきてしまうなんて。
今、ペイジはペンシルベニア大学に、ダドはまだナッシュビルのアパートに暮らしていて、マムの指には、手術で縫合したのかと思うほどいつもスマホがくっついていて。だから家族という言葉でもって、十代の娘に罪悪感を抱かせて何かやらせようなんて、さすがに無理というものなのだ。
「どんなアイデアだったかもう一回聞かせてくれる?」マムが訊く。
ため息をこらえて話し出す。「とにかくグリルド・チーズを売り出すからには、ツイッターでみんなを毒舌でじりじりやりこめなきゃでしょ。毒舌の返信でぺしゃんこにされたい人は自撮り写真をうち宛てのツイートに載せる。で、うちからは、その写真についてなんらか気の利いた、ちょっと毒のある返信ツイートがくる、っていうわけ」
もっと詳しく説明してもよかった――ツイートへのありそうな返信としてこしらえた例を挙げ、#GrilledByBLBのハッシュタグを推奨するんだったわよね、新しく三種類の原材料から、ひねり出した決まり文句があったわよね、などと念押ししてもよかった――のだが、もううんざりだった。
マムは小さく口笛を吹く。「いいわよねそれ。けど、タフィのことだから絶対、あなたに手伝ってもらわないと無理って言うわ」
やれやれ。「そうね」
タフィも気の毒だ。気の小さい、いつもカーディガンを着ている二十代女子で、ビッグ・リーグ・バーガーのツイッターとフェイスブックとインスタグラムを担当している。マムは初のフランチャイズ展開に乗り出すタイミングで、新卒のタフィを雇った。ところがアメリカ全土に展開する段になり、マーケティングチームはこう決定した。ビッグ・リーグ・バーガーのツイッターアカウントは、ケンタッキー・フライド・チキンやウェンディーズといった企業のアカウントと同様の――辛辣で無礼で生意気な――存在となるべきだと。どれもこれも、かわいそうにいつも過労気味で、パワフルガールの逆を行くタフィには、まったく未経験の境地だったのだ。
で、わたしの出番。大学入学のためには絶対要らない才能に限って、大量に抱えているっぽいわたしなのだが、中でも、ツイッターに辛辣な投稿をする、というのが、得意中の得意ときている。この頃は「辛辣な投稿が得意」とはつまり、『スポンジ・ボブ』に出てくる美味しいレストランKrusty Krabにビッグ・リーグ・バーガーの画像を貼り、まずいレストランChum Bucketにはバーガー・キングの画像を貼ること、という説が、わりかしまかり通っているみたいなのだ――たまたまだけど、これはわたしが初めて画像加工し、投稿したものだった。去年、タフィがボーイフレンドとディズニーワールドに旅行するというので、マムがその間のピンチヒッターにわたしを指名したのだ。終わってみればいまだかつてないリツイート数を叩き出していた。それからというもの、マムはやたらわたしに、タフィを手伝ってあげてとせっつくようになった。
タフィはもうとっくに昇給してなきゃおかしいし、今年じゅうにはちゃんと部下をつけてあげて、睡眠時間を確保してあげなきゃだめよ、と釘を刺そうと思ったところが、マムはもう完全に背中を向け、目を細めてケーキを見ていた。
「モンスター・ケーキ?」
「ほかの何ものでもないでしょ」
「うーっ」と、さっき切り分けておいたほうに手を伸ばす。「こんなの、ちゃんと隠しておいてくれなきゃ。わたしに我慢しろなんて無理なんだから」
マムのこんな台詞を聞くと、やっぱりまだ変な感じがする。マムがこんなにわかりやすい食いし坊じゃなかったなら、そもそもダドと二人でビッグ・リーグ・バーガーを始めたりはしなかったはず。ナッシュビルのあのアパート。ベランダにわたしとペイジが立っていて、ダドは計算したり業者にメールを送ったりし、マムはミルクシェイクのハチャメチャな配合をこれでもかとリストアップしては、えんえん読み上げてわたしたちにお披露目してくれている。あれはそんなに昔のことではないんじゃないかと、ときどき思ってしまうのだ。
ここ五年あまり、わたしが見るかぎり、マムはミルクシェイクを飲むにしてもほんの一口か二口だけ――最近ますます、なんでも商売道具にしか見えなくなっているみたいなのだ。わたしもツイートで手伝ったり、ニューヨークとうまくやっていこうと頑張ったりして、どちらかというと前のめりになっているのだが、この変わりようがまたペイジの、マムへの怒りをさらに募らせる原因になっている。ベーキング・ブログにしても、ペイジがこんなにも熱心なのは、これに固執せざるを得ない何かがあるからじゃないか、とわたしはしょっちゅう思っている。
ただまあ、ほかのことはどうあれ、マムの弱点はモンスター・ケーキ――これだけは確かだ。子どもの頃にあみ出した、危険極まりない発明品である。ある日ペイジとマムとわたしは、うちのポンコツオーブンの限界を探ろうということになり、ファンフェッティのケーキミクスにブラウニー・バター、クッキー生地、それにオレオ、リーシーズのカップチョコ、ロロのキャラメルチョコをぶち込んで焼いてみたのだ。結果、それはそれはおぞましくもおいしいものが焼き上がり、感動のあまり母は砂糖衣でまん丸の目玉をくっつけた。こうして生まれたのが、モンスター・ケーキ。
もうかぶりついて唸っている。「はい、ごちそうさま、あっちに持ってって」
ポケットの中のスマホが震えた。出してみると、ウィーツェル・アプリからの通知が来ている。
ウルフ:
おーい。これを読んでるなら、もう寝なよ
「ペイジから?」
笑みを懸命にこらえた。「ううん、えっと――友だちから」まあ、嘘ではない。実は本名も知らないのだ。とはいえマムの知ったことではない。
マムは頷きながら、型の底にくっついたケーキのくずを親指の爪でこそげ取る。さあ気を引き締めなくちゃ――今からいつも通り、ペイジがどうしてるか訊かれるはずだから、わたしがしっかり仲立ちして――ところがどっこい、こう訊いてきた。「あなた知ってる? ランドンっていう男の子。同じ学校に通ってるそうなんだけど」
もしもわたしが、ベッドの脇に日記を広げっぱなしで置いておくようなおバカな女子だったら、たちまち正真正銘のパニックに陥っていただろう。でも生憎わたしはそこまでおバカな女子ではないから、仮にマムがコソコソ嗅ぎまわるような親だったとしても、全然大丈夫なのだ。
「知ってる。たしか水泳部で一緒だったと思うけど」と言いながら、本当はこう言いたかった――知ってるよ。一年生のとき、訳がわからないくらいめちゃくちゃに好きだった男子だよ。そもそもあの年、マムに放りこまれたのよね。お金持ちの子ばかりで、それこそ生まれたときからみんな知り合いの、ライオンの巣穴に。
初日の居心地の悪さといったら、わたし史上最高レベルだった。制服なんか着たことがなかったから、あちこちチクチクするしどこもかしこも身に合っていない気がしてたまらなかった。髪はまだ中学生の頃と同じ、どうにもまとまらないチリチリ状態。どの生徒ももうすでに、自分たちの小集団の中にすっぽりはまって守られていて、そしてどの集団をとってみても、カウボーイ・ブーツばかり六足も持っていたり、ケイシー・マスグレイヴス <注:ナッシュビルを拠点に活躍するカントリー・ミュージック・アーティスト> のポスターをクローゼットに貼っていたりする生徒が入り込む余地などなさそうだった。
泣きそうになったあの事件も、まだ覚えている。英語のクラスに入るなり、恐ろしい事実に気づいたのだ。夏休みの読書課題が出ていたこと――しかも、初日に抜き打ちテストをするという。怖すぎて、先生に言えばいいのにそれもできなかった。するとランドンが机から身を乗り出してきたのだ。真っ黒に日焼けした顔に、まぶしいくらい満面の笑みを浮かべてこう言ってくれた。「ヘイ、気にしなくていいよ。兄さんが言ってたんだ、この先生は抜き打ちテストでぼくらをビビらせたいだけだって――実は大して重要じゃないんだって」
やっとのことで頷いて返した。あっという間にランドンは自分の机に覆いかぶさり、テスト用紙を睨みだしたが、そのコンマ数秒でわたしの、十四歳のおバカな頭脳は、これは恋だ、と決論づけていた。
そんな恋心も結局は数カ月しか続かなかったし、わたしから彼に話しかけたのもせいぜい六回かそこら。ただ、その日から今まで、恋だとか愛だとか言っていられないほど忙しかったので、わたしの中にはあのときの印象だけが残っていた。
「そう、よかった。うんと親しくなれるわよ。そのうち家に招待するから」
開いた口が塞がらない。マムが高校生だったのは確か一九九〇年代。にしても、十代の男女の交友関係の築きかたを、これほど根本的に間違えていいわけはない。
「は? どういうこと?」
「その子のお父さんがね、BLBの海外進出への、巨額の投資を検討してくれてるの」とマム。「なるべく上機嫌でいてもらえるように、できることはなんでもやらなくちゃ……」
身もだえしそうになるのをこらえた。数年前ランドンに出会ったときに、テイラー・スウィフトのベタな詩で呼び起こされがちな、甘酸っぱくどこか切ない感情を抱きはしたものの、彼のことをそんなに知っているわけでは全然ないのだ。とりわけこの頃の彼は、学校外でアプリ開発のインターンシップに参加しているとかで猛烈に忙しそうで、廊下ですれ違うことさえめったにない。ランドンはランドンであることに大忙し――とんでもなくハンサムで、誰からも好かれていて、たぶんわたしみたいな種類の人間とは住む世界が違うのだと思う。
「かもしれないけど。わたしたちほんとに友だちでもなんでもないし、だから……」
「あなたは人付き合いの天才だもの。いつだってうまくやってきたじゃない」マムの手が伸びてきて、わたしのほっぺをつねった。
天才だったかもしれない。前の学校までは。ナッシュビルにいたころは友だちがいっぱいいて、ビッグ・リーグ・バーガー一号店の売り上げのほぼ半分を担ってくれていた。放課後のたまり場になっていたのだ。けれどあの頃、友だちを作るために何かやらなくちゃいけないなんてことは一切なかった。みんなただそこにいてくれただけ。うちにたまたまペイジがいたのと同じ。みんなで一緒に大きくなったし、お互いのことはなんでもお見通しだった。つまり、その頃の友だち作りとは、意識して選びとるようなものではなく、わたしたちみんなが生まれながらに持っている素質にすぎなかったのだと思う。
当然だけれど、それは引っ越してきて、こっちの子たちのまるで違う生態系に飛び込んでみるまではわからなかったことだ。登校初日、全員がわたしを異星人でも見るような目で見てきたし、マンハッタンで暮らし、スターバックスとユーチューブのメイク動画チャンネルに入り浸って育ってきた子たちに比べたら、確かにわたしは異星人だった。あの日は帰ってきてマムの顔を一目見るなり、わっと泣き出してしまった。
とたんにマムは光の速さで動きだした。もしわたしが文字通り火だるまになって帰ってきたとしても、あんなに速くは動かなかったかも――一週間も経たないうちに、わたしのバスルームの棚には載りきらないほどの化粧品があふれ、スタイリストによるブロー&ドライやメイクアップの個別レッスンをこれでもかと受けさせられ、おかげでなんとかエリートたちのカリキュラムに追いつくことができた。わたしたち姉妹をこんな異質な新世界に放りこんだ張本人のマムだから、二人を何がなんでも馴染ませてみせると心に決めていたのだ。
あの惨めな日々を思い出すと、懐かしいような愛おしいような気持ちになるから不思議だ。この頃はマムもわたしも、当時よりずっと忙しくなってしまった――真夜中過ぎになぜかキッチンで偶然顔を合わせる。しかもふたりとも、いつでも退却できる体制のままでいる。
わたしが先手を打つ番だ。「もう寝ようかな」
マムは頷いた。「明日、スマホの電源は切らないでね、タフィが連絡してくるから」
「わかった」
もっと怒っていいんだろうとは思う。マムは、わたしが現実に取り組んでいる学業よりもツイッターのほうを優先すべきだと考えているのだから。しかも、国内でも指折りの進学校に入れたのもマムだからなおさらだ。でもまあいい、とも思う。何かしらでわたしが必要なら、それもいい。
部屋に戻ると、ベッドの上の枕の山に倒れこんだ。ノートパソコンと、中でまだまだわたしを待ち構えている課題の山とをわざと避け、ウィーツェル・アプリを開いて返信を書きこむ。
ブルーバード:
誰かと思った。眠れないの?
ウルフからの返信なんてないだろうなとしばらくは思っていた。が、やっぱりだ、ふきだしがまた現れた。ある意味スリリングで、ある意味さらに怖くもある――ウィーツェル・アプリでの会話には危険が伴うのだ。何から何まで全部が匿名だけれど、たぶんここにはうちの高校の生徒しかいない。最初のログイン時に、ユーザーネームが割り当てられる。何かしらの動物の名前と決まっていて、メインの、誰でも入れるホールウェイ・チャットにいる限りはそのまま匿名でいられる。
ただしアプリ内で誰かと一対一で話しだすと、ある時点で――いつなのかは謎――アプリがお互いの個人情報を開示する。ドカン! で、もはや秘密ではなくなってしまう。
だから簡単に言うと、わたしがウルフと話せば話すほど、アプリが互いの個人情報を開示するタイミングもどんどん近づいてくるというわけ。現にみんな不規則に、一週間だったりすごいときにはその日のうちだったり、互いの情報を開示されているから、わたしたちがこんなふうに、匿名のまま二カ月も続いているというのはわりと奇跡に近いのかもしれない。
ウルフ:
まあね。きみが名作をぶち壊すんじゃないかって、気になって寝るどころじゃないよ
たぶんそのへんも気にしながら、ここのところわたしたちは少しずつ、普通よりは親密になってきている。話の中身は、すぐバレるほどではないものの、どうでもいいほど些細なことでもない。
ブルーバード:
わりと有利なほうだと思うのよね。わたしって、名作でも立身出世の物語となら、けっこう近しいところにいるから
ウルフ:
そっか。どうやらぼくときみだけは、体のどこにも銀のスプーンを持たずに生まれてきた同士みたいだね
思わず息をのんだ。その瞬間、アプリが二人の情報を開示してしまいそうな気がしたのだ。開示してほしいけどしてほしくない。ちょっと情けないけど、みんながみんなに対して完全に心を閉ざし、競争心をむき出しにする環境に放りこまれて以来、友だちにいちばん近い存在になってくれたのがウルフなのだ。この関係を、ほんの少しでも変えたくはなかった。本当は、ウルフの正体を知ってがっかりするのが怖いんじゃない。わたしの正体がわかって、ウルフにがっかりされるのが怖いのだ。
ウルフ:
とにかくさ、金持ちじゃないならないでそれを逆手にとって、めいっぱい利用すればいいんだよ。だってほら、あの金持ちのアホどもはきっと、もっと頭のいい奴に金を払って、代わりに小論文を書いてもらってるんだぜ
ブルーバード:
やだなそれ。たぶんそうなんだろうけど
ウルフ:
まあいいじゃん。あと八カ月で卒業なんだ
ベッドにひっくり返って目をつぶる。その八カ月が、言うほどあっという間に過ぎてくれると思ったら大間違い、なんとなくそんな気がしてならない。