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サスペンス作家による『ゴッサム・セントラル』序文を公開!

『ゴッサム・セントラル:狂気と哄笑と』に掲載されているイントロダクション、「ノワール・タウン」を全文公開! 『解雇手当』『メアリー・ケイト』(共に邦訳は早川書房刊)や、IDW『ゴジラ』を執筆した人気作家が語る、『ゴッサム・セントラル』の魅力とは……?

『ゴッサム・セントラル:狂気と哄笑と』書影


著:ドゥエイン・スウィアジンスキー
複数のクライム・サスペンス小説を手がけた作家である。インタラクティブ・ミステリー『バットマン:マーダー・アット・ウェイン・マナー』も手がけた。マーベルでは『ケーブル』『イモータル・アイアンフィスト』の脚本も手がけている。

「ノワール」の雰囲気漂うコミックス

「ノワール・コミックス」「ブルベイカー」「ルッカ」という言葉は、私の脳内において、もはや切っても切り離せないほどに結びついている。どれか一つの単語(ブルベイカー!)を思い浮かべれば、他の二つの単語(ノワール・コミックス! ルッカ!)が自然に想起される。これはもう神経症患者のけいれんのようなものだ。自分ではどうすることもできない。どれほどバーボンを流し込もうと、どれほど煙草を吸おうとも、止めることなどできない。私は煙草を吸わないのに。

その理由の一部が極めて個人的なものだということは認めよう。私が初めて読んだノワール・コミックは――ここでいうノワールとは、宿命的なほどに不運な物語という意味だ――ブルベイカーのシーン・オブ・クライム:リトル・ピース・オブ・グッドナイトだった。私がハメット/チャンドラー/ケイン/マクドナルドの愛読者だということを知っているエージェントが勧めてくれたのだ。このグラフィック・ノベルは現在でも、“漫画本”なんかには興味がないというミステリーファンに私がお薦めする一冊になっている。この8年間に少なくとも6冊は買っている。もしかするとそれ以上かもしれない。その本を誰かに貸した時に、自分の本棚に置いていないことに耐えられないからだ。それ以来、ブルベイカーの名前がついているコミックは――『スリーパー』『クリミナル』やそれ以外の作品も――すべて購入している。デイヴィッド・グーディスウェイド・ミラーフレドリック・ブラウンが書いた本を必ず購入するのと同じ理由だ。それがどんなストーリーであろうと、どんなメディア(小説、コミック、脚本、ホメロス風の叙事詩)だろうと、優秀な作家は自分の世界観を作品に注ぎ込むものだ。ブルベイカーは私好みの言語を使っている。ただ、私の言語とは少し異なるというだけだ。

グレッグ・ルッカを初めて知った時も同じような感じだった。ルッカと私は、同じエージェント(コミックおたくのデイヴィッド・ヘイル・スミス)と契約しているのだが、ある日彼が教えてくれたのだ。ルッカは南極を舞台にしたハードボイルド・ノワール『ホワイトアウト』(他の作家が“どうして自分が先に思いつかなかったんだろう”と嫉妬するほど天才的な設定の作品)を書いているだけじゃなく、『ディテクティブコミックス』の脚本も担当しているよと。私はすぐさま地元のコミックショップに駆けつけて、できる限り多くのバックイシューを買い込んだ。私はルッカが描くゴッサムシティにすぐさま惹きつけられたが、自分の予想とは違っていた。彼のゴッサムは90年代のバットマン映画で描かれたティム・バートンのゴス系ワンダーランドでもなければ、ジョエル・シュマッカーの極彩色のカジノでもなかった。そうではなく、ルッカが紡ぐ物語に出てくるゴッサムは都会のジャングルであり、それは私が愛する50年代のゴールドメダル社のペーパーバックに出てくる都会と同じ類のものだった。暗い街。(私の想像では)臭い街。人を傷つける暴力。虐げられる善人。私にとっては魅力ある世界観だ。これこそ完全にノワールだ。

事件の絶えない陰鬱なゴッサム

これでわかってもらえるだろう。ノワール。刑事。ルッカ。ブルベイカー。コミック。私の脳内ではそれらの境界線はあいまいとなり、切っても切り離せない密接な関係となっているのだ。

そして、あろうことか、そんな彼らが『ゴッサム・セントラル』を始めるというではないか。

DCユニバースに落とし込まれた、魅力的な刑事ドラマ

これを読んでいる読者は、本書の設定についてすでに承知していると思うが(これもまた、“どうして自分が先に思いつかなかったんだろう”と嫉妬に駆られるような巧みな設定であり、ブルベイカーやルッカを見つけ出して蹴り飛ばしたくなるほどである)、本書はDCユニバースの裏通りで語られるハードボイルドタッチの警察ドラマである。ブルベイカーとルッカは『ロー&オーダー』のような現代の警察ドラマを借用したというよりも、50年代にエド・マクベインが作り出した独特かつスピーディな展開の警察小説を再現したというべきだろう(マクベイン自身は警察小説という表現を嫌っていたが)。マクベインは一人の警官を主人公にしたのではなく、一つの分署に属する全刑事を主人公にしたのだ。

『ゴッサム・セントラル』において、ブルベイカーとルッカはマクベインの発想をバットマンが住む街にうまく導入した。彼らが描くヒーローは中折れ帽をかぶり、煙草をくわえた古臭い人物ではない。極めて現代的で、複雑で、欠点があり、とてもリアルな存在である。読者はキャラクターの内面を深く知ることができる。そうした点が、本書の魅力ともなっている。

冗談を飛ばす刑事たち

誤解しないでほしい。ゴッサム市警が手がける事件の数々は、暗く複雑で、驚きとサスペンスに満ちている。「狙撃ゲーム」は古典的な時限爆弾/暗殺計画のスリラーであり、静かでありながら不意打ちを食らわせるショッキングな場面で幕を開ける。「人生は失意に満ちて」は、古典的な“応接間の死体”のミステリーであり(ただし、ここはゴッサムなので、殺された若い女性はゴミ箱に捨てられている)、複数の刑事の視点から事件を描いている。「未解決」は、10年前の悲惨な暴力事件を中心にしつつ、現代においてゴッサムの重大犯罪課の面々がその余波に巻き込まれる様子を描いている。

『ゴッサム・セントラル』の暗い魅力

先ほど述べたように、『ゴッサム・セントラル』の暗い魅力は、こうした事件だけではない。それらの事件にブルベイカーとルッカが割り当てた刑事たちも忘れてはならない。私が現代の刑事ドラマに対して抱く不満は、主人公の刑事たちの私生活がほとんど描かれないということである。彼らはステレオタイプ的な薄っぺらい人物(熱心な刑事、エキセントリックな刑事、ゴス系の刑事など)にすぎない。他の人の好みはどうか知らないが、私はたとえ架空の刑事でも血肉を備えている人物像のほうが好きだ。問題を抱えているほうがいい。興味を持てるような人物のほうがいい。

それこそ、ブルベイカーとルッカが『ゴッサム・セントラル』でやっていることであり、それは簡単にできることではない。ゴッサムというのは、覆面をしたスーパーヒーローが頭上をスイングし、ヤバい“冷凍銃”を持ったスーパーヴィランがすぐ隣にいるような世界なのだ。ゴッサム市警の刑事たち(ジョシー・マック、マーカス・ドライバー、ダグマー・プロホノフ、レニー・モントーヤ、デル・アラツィオ、その他大勢)は単にリアルというだけではなく、ゴッサムのような場所でしか存在できない人物でもあるのだ。

先ほど言及した“世界観”の話に戻ろう。私にとって、ノワールの定義はとても単純だ。すなわち、ノワール=歪んでいる、だ。どんなに激しく戦おうとも、どんなに立派な男(あるいは女)になろうと努力しても、それを押し潰そうとする大きな力が働いているということ。いや、もっとひどい場合には、そうした大きな力が、我々のちっぽけな存在など何も気にかけていないということ。断言はできないけれど、『ゴッサム・セントラル』の魅力は、主人公たちが古典的なノワールのキャラクターだという点にあると考えざるをえない。彼らは、大きな親指で押し潰そうとしてくる世界において、ささやかな善行をしようと努力している普通の人々なのだ。

それにもかかわらず、ゴッサムの刑事たちは銃を持った陰気な公務員ではない。彼らは恋に落ちる。互いにイタズラを仕掛け合う。喧嘩もする。互いの弱みを支え合う。私が好きな場面の一つは、この単行本に収録されている最初のエピソード「夢想家と理想家」において、受付係(そしてバットシグナルの点灯係)のステイシーが友人に語るシーンだ。

「刑事は恐ろしい凶悪犯罪を捜査してる。男も女も凄惨な流血現場を歩き回り、死者のために答えを探しつつ……その一方で笑いも忘れない」

こんな人々と一緒に過ごせるのなら、巨大なコウモリの格好をした男と付き合う必要なんかあるまい。