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読書家の女優 南沢奈央さん推薦! 可愛すぎると米国で話題を呼んだ『ツイート・ウォーズ~キュートでチーズな二人の関係~』試し読み③


『ツイート・ウォーズ~キュートでチーズな二人の関係~』
著:エマ・ロード 訳:谷 泰子
装画:美好よしみ 装丁:BALCOLONY.
定価:2,530円(10%税込)
2023年3月16日頃発売

第2回はこちら

ペッパー

ウルフ:
丸一日音沙汰なしだから、きっときみは選ばれし精鋭の中に入ってしまって、ラッカーにスマホを取り上げられたんだと思うことにするよ。武運長久を祈る

 更衣室のロッカーにおでこを押しつける。終業のベルが鳴ったのは十分前。それまでにタフィからは実に三十二本ものメールが届いていた。
 これはどうしたら? から直近のメッセージは始まっている。添付されているツイートのスクショを横目で見る。パンパンに詰まったマクドナルドの袋を手に、口いっぱいにフライドポテトを頬張っている男子の自撮り写真で、こいつをグリルしてみやがれこのヤローと見出しがついている。これも、わたしたち宛てに来た数千のツイートの中の一つにすぎない。#GrilledByBLBというタグをつけ、会社のアカウント宛てにツイートしてもらうという企画で、そのうち少なくとも二百ツイートには、くすっと笑えるツッコミのリプライを返そうということになっている。
 もっと言うと、「わたしたち」の本当の意味は、「わたし」なのだ。タフィの全身のどこを探しても、毒舌の骨は見当たらないのだから仕方がない。
 ツイートの下書きを素早くタフィに送る。なんとか足どりを緩めずに済んだ。ゴミを燃やすのは違法ですから。
 タフィは一分もしないうちにアップするはず。ということは、次の挑戦者を見つけるまであと五分、それからタフィなりのリプライツイートを考えようとして諦めて、わたしにメールしてくるまでさらに十分かかるということ。でもそのときにはもう、わたしはプールに入ってしまっている――めずらしく本気で楽しみにしていた。ここ最近で唯一、完全に音信不通になれる時間だからだ。
 じゃあ本当は泳ぎたくないのか、っていうとそうではない。ペイジもわたしも子どもの頃からサマー・リーグで泳いでいたし、わたしなんかは六歳のころからもう、ほかの子をけながらプールを何往復もしていた。あの頃は楽しかったな――どちらかというと競争するより、合間に芝生でウノをやったり、水泳教室のあと、少し歩いたところにあったフードトラックの山盛りのベイクドポテトを、両親にねだって買ってもらったりするのが楽しかった。でも引っ越してからは、楽しく泳ぐなんてことはもうなくなった。みんな、毎シーズン参加賞としてもらえるロゴワッペンを集めるためだけに、ここに集まっている。大学出願に使えるから押さえておきたいだけ。何百時間もかけて何百回も汗をかき、髪を塩素で脱色させ、ときどきは泣いたりして……その全部が、たった数個の文字を印刷しただけに落とし込まれてしまうのだ。
 「ヘイ、ペップ? ウォームアップはわたしがやっとこうか、じゃなきゃ今すぐ出てこられる?」
 ペップ・・・。大嫌いなあだ名。もしかしたらペパローニより嫌かもしれない。そういえばペパローニもあのジャック・キャンベルの発案だった。
 いや、問題なのはペップと呼ばれることよりも、実は今そう呼んでいる人物のほうかも知れない。「すぐ出るから」とプージャに言い、バックパックをロッカーに突っ込んだ。なんだかタフィも一緒に押し込んでいる気分だ。ついでにウルフも。
 プージャは束ねた髪をスイムキャップに入れると、オーケーとばかり親指を立ててみせる。「ならいいわ!」
 プージャが角を曲がるのを見届けてから、わたしは天を仰いだ。今のやりとり、表面上は確かになんの当たり障りもない。でも、わたしはプージャという子を知っている――わたしがストーン・ホールに来て以来ずっと、プージャとは何につけても大接戦を演じてきたのだ。試験ではしょっちゅう一ポイント差だし、競泳のタイムも千分の一秒差と、同じ教師の授業をとっている限りずっとそんな関係なのだ。人生において、プージャと張り合うのがここまで常態化してしまったとなると、たぶん間違いない。死の床についたわたしに、プージャが電話をかけてきて、いけしゃあしゃあとこう自慢するに決まっている。わたしのほうが絶対先に死ぬからね、と。
 誰だっていつかは死ぬけど、それはまあ置いておくとして、よりにもよってシーズンの初日に、プージャにウォームアップの指揮をまかせるなんて死んでも嫌だ。ようやく勝ち取った女子水泳部キャプテンの地位なのだから。一度だけプージャに圧勝したことがあって、おかげで票が集まった。多数派を勝ち取ったのだ。マーティンコーチはショックを和らげるためなのか、何らか画策したらしく、プージャを副キャプテンに任命した。なんにせよだから余計に、わたしは固く決意した。シーズン初日が始まったばかりのタイミングで、わたしの立場を揺るがしにかかるなんて絶対に許さない。
 プールデッキに出ると、塩素臭が鼻をつく。あんまり好きになってはいけない臭いだろうとは思う――し、たぶん好きではない。嗅いでいると胸が痛くなるし、肺の中に大量に吸ってしまうと、タイムリープしてしまう。行き先は去年の夏だったり、五年前だったり、じゃなければ、まだ子ども用プールで腕に浮き輪をはめていた頃だったりする。
 正体不明の懐かしさにいつまでも浸っていたところが、ふとプールに目を落とすと、けっこうな数の人がもう入っていて、手やら足やらで水を切って泳いでいるではないか。
 一瞬凍りついた。プージャがタッチの差でここに来て、勝手に練習を指示したのだろうか。あんなばかみたいなツイートをもう一つ作るのに、一分も余計にかけてしまった、そのせいで部員全員の前で醜態を晒さないといけなくなるなんて。ところがそこへ、プージャがつかつかやってきたのだ。ものすごく怒っている。
 「大変なことになったんだけど」
 睨みつけている先はプールの側壁。そこにしがみついて、ゴーグルに溜まった水をぶんぶん振り落している人物に、まったく見覚えがないのだ。向こうのほうまで目をやると、実は十五人程度の一団が入っているだけだと分かった――ここのプールでわが校が使っていいことになっている三レーンを、ほぼぴったり埋められるくらいの人数だが、うちの部員にしては少なすぎる。
 誰かがこちらに泳いできて、力いっぱいフリップターンしたものだから、わたしもプージャもずぶ濡れになってしまった。そいつの顔は水の中でよく見えなかったが、誰かわからないにせよニヤニヤ笑っているみたいだ。体じゅうからニヤニヤ笑いが染みだしているような感じ。すると、はっと気づいた。あれはジャック・キャンベルにほかならないし、あの集団はうちのダイビング部のはみ出し者連中だ。
 プージャはまだ頭にきていて、わあわあ一人でまくしたてている。そこでプールに向かって一歩踏み出し、こう言った。「わたしがなんとかする」
 勢い込んでプールの縁までかけてゆき、思いきり息を吸って踏み切った。結果、飛び込んだのはジャックの後ろ一メートル足らずのところだった。数秒で追いついて足をトントン叩いてやる。が、感じないのかバタ足を止めない。スピードアップして足首をつかみ、思いっきりグイッと引っ張る。
 驚いて一瞬もがいてから、ジャックは水から顔を出した。黒髪をブンブン降っている。スイムキャップがとれたその顔を見たとたん、バカだこいつ、と思った。モフモフの犬が、飼い主の手漕ぎボートの上ではしゃぎすぎて飛び出してしまったような感じ。すると手櫛で髪を、ものすごい早業でオールバックにしたものだから、危うくのけぞりそうになった。見開いた茶色の瞳とわたしの目がばっちり合った。あまりに近すぎて、もうすでに塩素で赤みを帯びてきているのさえ分かる。
 「なんだよ、ペパローニじゃないか」と、コースロープのフロートをつかむ。「『シャークネード 〈注:二〇一三年アメリカのSFディザスター映画。竜巻でサメが降ってくる〉 』ごっこなんか仕掛けてこないでくれるかな」
 「なに考えてるの?」
 「えっと、今? きみがぼくを溺れさせようとしてるから、監視員が止めにきてくれないかな、って考えてる」
 「あなたはここにいちゃいけないのよ。プールを押さえてるのはわたしたちなんだから。だいたいあなたたち、飛び板はどうしたの?」
 ジャックはいつものあの半笑いを浮かべた。自分で何か、いかにもキレものっぽいと思っているセリフを、これから言うぞというときのあの笑いだ。普段なら難なく無視する――が、わたしが言われていなくても、四年も近くにいたらさすがに気づくようになった。それは教室や図書室の平和な静けさだとか、水泳大会での試合の合間、プールデッキでみんながうとうとしかけた瞬間だとかを一気に台無しにしてくれるひとことだと。ジャックというのは、沈黙を埋めたがる人なのだ。何がなんでも注目を浴びようとはしないけれど、いつもなんとなく、気づいたら注目させられてしまっている、そういう人なのだ。
 予約してあったプールの数レーンを盗み、部活のキャプテン初日にばかみたいな思いをさせ大恥をかかせる、そういう人でもある。が、ジャックが何年もの間、いつかわたしをギャフンと言わせてやると心に決めていたにしても、今回ばかりは、ある意味わたしの沽券こけんに関わりすぎていて譲れない。
 「その飛び板が死ぬほど怖いくせに、大きな口を叩くじゃないか」
 思わず目を細めてしまう。「何言ってるんだか」
 ジャックの目が、ゴーグルの奥でギラリと光った。何を言ってるかぐらいすっかりくっきりわかっているし、こいつだってわかってるでしょうよ。
 水泳部とダイビング部は金曜日の部活終了後、ときどき居残って、使い古しのサッカーボールで非公式の水球試合をやっている。そして決まって、どっちが負けるかで、ろくでもない賭けをやっていたりもするのだ。だからジャックと仲間たちは負けたからってふざけてプールの水にクールエイドを混ぜていたわけで、それにわたしの中ではちょっと嫌な思い出も残っている。一年めにたまたま水泳部が負けたとき、高飛び込み台から無理やり飛び込まされたあの一件が、やはり忘れられないというわけ。
 ただ、正確に言うとわたしは飛び込んではいない。結局わたしの脳に生まれつき備わっている、死んではいけない、という進化のための衝動は、ほかの部員たちのそれよりうんと大きかったのだ。飛び板と水面との間の、限りなく無限に近い距離を見定めたとたん、一目散に駆け下りた。あまりの速さに、止めておこう! とはっきり決めたかどうかさえ思えていない。
 ジャックのくせに。まさかあの事件を、そんなにしっかり覚えているなんて。
 けど今は、賭けの話などしている場合ではない。「あなたたちのシーズンって、公式にもまだ始まってないんでしょ。わたしたちのプールなんだから上がってよ」
 ジャックはふうーっと息を吐く。ニヤニヤ笑いのワット数も幾分下がってきたようだ。「今年はイーサンがキャプテンでさ」わたしというよりはプールに向かって言っている。「イーサンに言ってくれるかな」
 「おーい、大丈夫かー?」だれかの声。「どうした?」
 ランドンに恋い焦がれているわけでもないのに、頬が勝手に赤くなる――ランドンの声で、わたしの顔の血管に何かパブロフの犬的な条件反射が起きているのかもしれない。振り返ると、ランドンがプールデッキの端に立っていた。もう十月も半ばだというのに、なんだか夏からさらに日焼けしたみたいだ。去年の今頃に比べたら筋肉量が少し増えたかも。観覧席に集まってきている二年生女子たちの目の直径が明らかに大きくなっているから、気づいたのはわたしだけではないみたい。
 「ぜんぜん大丈夫」と返した。「ダイビング部はもう上がるから」
 ジャックが鼻先で笑った。
 「探しものでもあるのか、イーサン?」とランドン。
 わざわざ顔なんか見なくても、ジャックが天を仰いだのは感じとれた。かまわず水の中をぐいぐい進み、プールの壁に近づいていく。耳にマムの声が響くけれど、何の役にも立たない。なるべく上機嫌でいてもらえるように・・・・・・・・・・・・・・・・・
出来ることはなんでもやらなくちゃ・・・・・・・・・・・・・・・
 困るのは、ランドンともなると、どこにいようといつもだいたい上機嫌だ、ということだ。やってあげることなど何もない。
 なんとか気の利いたセリフをひねり出そうと頑張ってみる。なんでもいいから、強く印象に残りそうな言葉はないものか。しかし何も思いつかないまま、壁にぶつかるところまで来てしまった。ウルフとしか呼びようのない男子には、それこそアホみたいなメールを推敲すいこうもしないでパパッと送ってしまえるのに、実生活において知っている人間をこうして目の前にしたとたんに、脳みそがささっと逃げ出してしまうのは、いったいどういうことだろう?
 助かった。イーサンが水から顔を出したのだ。これでもう、しどろもどろになってバカみたいなことを口走ったりしなくて済む。
 「やあ、ごめん――今からきみたちがプールを使うことになってるの?」イーサンが訊いた。
 「いや、好きに使ってくれていいんだ」とランドン。「インターンシップでもうヘロヘロでさ。きみたちさえよければ、ぼくはどっかでひと眠りしてたいよ」
 たぶんここで笑えばいいのだ――さすが二年生女子は抜かりなく笑った――でも、動揺しすぎていて、プールから上がることしかできなかった。その瞬間、わたしのキャプテンとしての権威が損なわれたのも、またちょっと水着が食い込み気味だったのも、わかりすぎるくらいわかっていた。半裸になってまで、何をやっているんだろう。水泳とはまったく、セクシーなんてものからこの世でいちばんかけ離れたスポーツなのだ。
 「コーチがさ、今年はもっと距離を泳いで、シーズン前から体力を強化しておかなきゃダメだって言うんだ」とイーサン。半分ランドンに、半分はわたしに言う。申し訳なさそうな顔をするぐらいの良識は、とりあえずあるわけだ。「交差訓練法クロス・トレーニングってやつ」
 「コーチは?」わたしは訊いた。
 「それがね、今週はお母さんに会いに行くんだって言ってて。でも今さっき、カンクン 〈注:メキシコにあるカリブ海に面したリゾート地〉 にいるよってインスタにストーリーを上げてたんだよ」イーサンは言いながら肩をすくめる。
 そうこうするうちに、マーティンコーチが体育館から姿を現した。ロビーで新入部員の親たちに、週末の試合のスケジュールについて話していたのだ。プールデッキで、濡れ方も様々で立っているわたしたち全員を一瞥いちべつすると、あからさまにため息をついただけで、ダイビング部のコーチはどこ? とも訊かない。トンプキンズコーチの姿を見ること自体がかなり稀で、もはや彼自体が神話みたいになっている。毎年、シーズンが始まってすぐの数週間、ダイビング部はいつもてんやわんやだ。それを思えば、コーチ不在でもちゃんとやろうと集まった部員たちを、わたしが責めていいんだろうか。
 コーチはわたしとイーサンを呼び寄せた。「トンプキンズがいつ戻って来るかもわからないし、当面のスケジュールを組むしかないわね。あなたたち、練習後に残って考えといてくれる? どっちがいつ、レーンを使うか」
 「レーンを分け合ったことなんて一度もないですけど」わたしは歯向かった。
 マーティンコーチは、もう一つのお決まりの顔、『ごめんね何を言ってあげればいいのかしらね』の顔をして見せる。「一応学校としてはね、プールを時間借りするための予算は、両方の部活のためってことになってるの。だからダイビング部にダメとは言えないのよ。だから考えて」
 イーサンは頷いた。そこで、練習が終わったら向かいにあるコーヒーショップで打ち合わせしようということになった。すでにわたしは頭の中で、その分を埋め合わせるため自分のスケジュールを、地殻変動並みに大幅に組みかえようとしていた――イーサンとの打ち合わせに二十分かかったとなると、AP数学の宿題にさける時間は二十分減ることになる。すると、わたしは絶対にタフィのメールに返信しないといけないけれど、その時間が食いつぶされる。ということは、今夜じゅうに入学願書に手をつけるのはおそらく無理だということ、となれば結局、今世紀じゅうにウルフに返信するなんてのも、きっとできないのだ。
 最後のやつだけはブンブン頭から振り落として、また水に飛び込んだ。今現在、わたしを沈めにかかっているものに優先順位をつけるとしたら、よく知りもしない男子との無駄話なんて、どう考えても最下位に決まっている。



 二時間後、わたしは全身を鞭でしばかれたみたいに弱っていた。オフシーズンもそれなりの頻度で練習し、シーズンに入ってからのペースについていけないなんてことはないようにしていた。が、自主練習で鍛えた分ではとてもじゃないが、マーティンコーチのハードな練習の半分にもついていけなかった。最後の力を振り絞ってコーヒーショップまで体を引きずっていったが、プールを分け合うための交渉なんてそもそもやらなくていいはずだし、ばからしくてやれる気がしない。
 それでなくても、都会にいるというだけで緊張するのだ。この街の中でわたしは、きっちり半径七ブロックの小さな世界を作り上げている。マンションと学校、道を隔てて向かいにあるプール、ベーグルを買うスペイン雑貨店、ドラッグストア、おいしいピザの店、わりとおいしいタコスの店、あとはマムがいつもブローしてもらう美容室。自分の領域から出たくはない。理性のレベルで言えば、この街のこのあたりは碁盤目状になっているし、スマホ全盛のこの時代、道に迷うほうが不可能だ。けれど、ここでは何もかもがキツキツなのだ。密度が高すぎて・・・・・・・――一回角を曲がったらもう、全然知らない世界が目の前に広がっていて、ほんの数歩歩く前とはまるで違う気分で進んでいかないといけない。それが嫌なのだ。馴染もうと思ったら別の人間になるしかない、そういうところも嫌。街なかを、カメレオンのように変身しながらうまく渡り歩ける人もいるけど、四年も住んでいてなお、わたしの気持ちはあのときの子どものまま。引っ越し業者のトラックに乗り、カウボーイブーツを履いてこの街にやってきたあのときのわたし――負けん気ばかりやたら強かったりするのも、全然変わっていないのだ。
 ナッシュビルには、きちんとした秩序があった。なかったとしてもあるような気にはなれた。ダウンタウンがあって、そこにはレストランやホンキー・トンク 〈注:カントリー・ミュージックを演奏している南部特有のバー〉 が建ち並び、夏には盛大なカントリー・ミュージック・フェスティバルがひらかれ大混雑する。イースト・ナッシュビルのほうはもっと素朴で、今後の発展が楽しみな街だ。ベルビューという街の郊外にあるアパートにわたしたち家族は住んでいた。すぐ近くのベル・ミードには、ばかみたいに豪華絢爛な大邸宅ばかりが並んでいる。それから街のど真ん中には、巨大なパルテノン神殿のレプリカを擁するセンテニアル・パークがある。わたしにはそこがすべての中心、まさに心臓部のように思えた。どの道も、こんがらがった高速道路も、最終的にはそこにつながっていて、人々はみんな毎日ここから仕事に送り出され、また仕事から汲み戻されてくる、みたいに。
 恋しくてたまらない。ダウンタウンにいるときも・・・・・・・・・・・・これがわたし・・・・・・といえるし、家にいるときも・・・・・・・これがわたし・・・・・・といえる、どこに行こうとちゃんと言えたあの頃が恋しい。レストランに出かけても・・・・・・・・・・・これがわたし・・・・・・だった。レストランといえばビッグ・リーグ・バーガーの一号店、あそこならミュージック・ロウにずらりと立ち並ぶレコーディング・スタジオも出版社も、全部がご近所さんだった。あそこでなら何事にも心の準備ができたし、自分がどこにふさわしいのかもわかっていた。
 いや、本当は・・・わかっていなかったかもしれない。だってどこかしらで育つにあたって、自分がそこにふさわしい人間になろうなんて考える必要はないから。ただそこにいればいいだけだから。
 ペイジがペンシルベニア大学から休暇でこっちに来ると、まとまって数日は、嫌々ながらわたしたちと一緒にいてくれるのだが、そのときは無理やりわたしを領域から連れ出そうとする。イースト・ヴィレッジにラーメンを食べに行き、ソーホーでウィンドウショッピングをし、様々な公園からスタートして歴史をめぐるダサめのツアーに参加したりするのだ。ただ、ペイジとマムは本気で口をきこうとしない。で、ペイジがいなくなるとほぼ丸一年、わたしはただのわたし、七ブロック分の檻に入ったネズミでしかなくなって、ろくでもないことを願って暮らすようになる。行き慣れないコーヒーショップに足を踏み入れても、恐怖にかられたりしませんように、とか。
 いよいよついにコーヒーショップの中に入ると、誰かが窓際のテーブルでコーヒーカップを覗き込んでいる。イーサンのベースボールハットをかぶり、イーサンのバックパックを抱え、椅子の背にはイーサンの上着を掛けている。つかつかと歩いて行って両手を腰に当てた。
 「ちょっと、本気でわたしを『ファミリー・ゲーム 〈注:一九八八年のアメリカ映画。そっくりな双子が両親の復縁を画策する〉 』ごっこで騙そうってつもり?」
 ジャックは目を上げると、がっかりしたらしく眉間にしわを寄せた。自分がまだ小っちゃな子どもで、持っていた風船にわたしが針を刺して割ってしまったとでも言わんばかり。「なんでバレた?」
 わたしはなんとなく、ジャックのひょろ長い体格全体を指して言った。「全体的に、ジャックっぽいから」
 「ジャック・・・・っぽい?」
 「そっ。それと、あとはちょっと間が抜けているからかな」
 にんまり笑って見せる――ちょっとした仲直りの印のつもり――すると向こうも笑い返し、それからまた改めて、あの半笑いをして見せた。全然悪びれてないじゃない、とわたしは一瞬のけぞりかけ、目をそらした。
 「で、あなたの兄弟はどこ? このイタズラに一枚噛んでるわけ? もしよかったら、とっとと終わらせちゃいたいんだけど」
 ジャックは窓のほうに頭をちょっと傾けた。「イーサンは今、ステファン・チウといちゃつくのに忙しいんだって。メトロポリタンの階段にいるよ」
 「それであなたをよこしたの?」
 肩をすくめて言う。「あいつって大物なんだよね、知らないってことはないと思うけど」
 知ってはいる。知らないでいるほうが無理というもの。イーサンはいわゆる、「万人受けする」タイプなのだ――いつだって気の利いたひとことが言えるから、誰かが困っていたら必ずイーサンにお鉢が回ってきて、期待通り何かしら現実的な解決策をひねり出してくれるというわけ。だからこそ、この打ち合わせもすぐに終わらせてくれるんじゃないかと、わたしは期待していたのだ。
 でもここにいるのはジャック。時間を無駄にしたところで、これっぽっちも心が痛まないんだろうな、という相手だ。バックパックの中のスマホがピン! と鳴り、はっと気づいた。プールを出てからというもの一度もチェックしていなかった。バックパックをドサリと置き、紅茶を買ってくるから見てて、とジャックに言うと、スマホに目を落とす。
 メールが九件。うわわわわ。
 直近のは、マムからだ。どこにいるの?? あとは、大丈夫なの? 胃が重くなる――今日マムが家にいるなんて思っていなかったから、放課後部活があるなんてひとことも言っていない。だがその後スクロールしていて分かった。マムはわたしの安否をものすごく心配してはいるけど、それよりなにより「ツイッター上の緊急事態」のほうを、ずっと心配しているのだ。なぜってお世話が必要だから。
 とりあえず、生きてるよ、とマムにメールし、それからタフィからのメールを開いた――なんとタフィは――その心根に祝福を――わたしは部活だと思い出してくれて、状況をスクショで小分けにして送ってくれていた。レジに着くころにやっと追いついた。どうやら街なかのちっちゃなデリか何かが、ビッグ・リーグ・バーガーにグリルド・チーズのレシピをそっくりそのまま真似されたと主張していて、その言いがかりツイートのリツイートが、目下一万に達しているらしいのだ。零細企業の福利厚生に特化したとあるアカウントが、#GrilledByBLBのハッシュタグを横取りしたため、いまは代わって#KilledByBLBがトレンドに上がっている。
 ったくもう。ネットのスピードって厄介だわ。
 あなたのお母さんが、ぎゃふんと言わせるようなツイートを撃ち返して、って、とタフィー。これはタフィなりの暗号で、つまり。ろくでもないアイデアなのはわかってるけど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしにとってあなたのお母さんはボスだから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
怖くてそうは言えないのよ・・・・・・・・・・・・。ということだ。
 ならわたしが言うしかないってことよね。早速マムに、まあまあ落ち着いて、というメールを送る(どうかちゃんと伝わりますように)。とりあえずしばらくは放っておくか、だんまりを決めこむしかないでしょ、で、果たして何らかの謝罪をしてしかるべきかどうか、見極めるしかないわ、と。広報のプロでもなんでもないけど、これぐらいはわかる。BLBみたいな巨人ゴリアテが、ツイッターのフォロワーもほとんどいない、ごくごくちっちゃなデリを本気で攻撃するなんて、みっともないとしか言いようがない。どう切り刻んだところで言い訳できない。
 バリスタがわたしの紅茶をカウンターに置くころには、マムから電話がかかってきた。ハローも言わせず、マムはしゃべりだす。
 「次の一手はどうすればいいと思う?」
 カウンターまで行くと、カップの蓋を開けてシュガーとミルクを入れ、目の端でジャックを見る。
 まだわたしの荷物をかっぱらってはいない。ただ窓の外を眺めながら、片方の耳にだけつけたイヤホンからのビートに合わせ、足をトントンやっている。
 「そのデリ宛てのツイートはしないほうがいいと思う。みんな本気で怒ってるみたいだし」
 「あっそ。怒らせとけばいいじゃない」こともなげに言い捨てる。「泣き寝入りなんてするもんですか」
 「わかったけど――なるべくなら――なんていうかな、話してみたら? ツイートするんじゃなくて」
 「注目されたいだけのサンドウィッチ屋を相手に話すことなんかないわ。なんでもいいから撃ち返すタマをちょうだい。ぐずぐずしてられないのよ」
 電話越しにお腹を殴られたみたいな気分になる。紅茶のカップをきつく握ると、手の平がめちゃくちゃに熱くなったが、それがブレーキになって効いてくるまで我慢した。跳ね返したかった。が、そうしたらどうなるか目に見えていた――ペイジとマムの喧嘩が始まったときの状況と、半ばそっくりな気がするのだ。片方が突き飛ばそうとすれば、もう片方はセメントに踵をめり込ませて動かない。そしてあれよあれよという間に、ペイジはどかどか出て行ってセントラルパークに姿を消し、マムはダドに電話して、どうしたものか協議を始めるのだ。
 どうしたものか協議されるのは嫌だ。うちの家族はもう既に、おかしなことになってしまっているのだから、今さらわたしがひっかき回すまでもない。
 「じゃあ、んっと……あの『ハリー・ポッター』のGIF画像を送れば。ほら、『すみません、あなたは誰』ってやつ」
 一瞬の間。「方向性は間違ってないけど、もっとキツいひとことがいいわ」
 いったん目を閉じる。「わかった。ほかの案をメールするから」
 タフィとマム宛てにアイデアをメールしながら、テーブルに向かう。そこにはジャックが、ジャックじゃないふりをしていたなんてお笑い種でしかないくらい、あからさまにジャックらしい・・・・・・・風情のまま、佇んでいる。
 嘘がつけないから正直に言うと――悪戯いたずらを仕掛けられたことはまあ置いとくとして、ジャックとその兄弟を観察するのはなかなか面白い。二人の人間がこんなビックリするほど似られるだろうか、まったく同じ体格に、まったく同じ人懐こい顔。しゃべるときのリズムも同じ。なのに、世の中への見せ方が、全然違うのだ。イーサンは大体いつも、至って冷静。政治家とかに向いているかも。ところがジャックは、あけすけもいいところ――その目は無防備だし気取りもないし、ひょろ長い体をいつもだらしなく椅子に投げ出している。同い年のみんなよりも早く、自分自身を受け入れて落ち着いてしまったのだろうか。黒い眉毛も表情豊かで正直そのものだし、そもそもわたしを騙そうとするなんて大笑いもいいところだ。
 なんとなく眺めていたら、ジャックはコーヒーをゆっくり時間をかけて飲んでから、こう言った。「さてと、プールの話だよね」
 わたしは身を乗り出した。ちゃんと話をしようと思った。ちぐはぐな二人だ――頑固で融通が利かないわたしと、そんなわたしの視線をちょっと面白そうに受け止めている、お気楽この上ないジャックと。
 「そっちのコーチは、一体全体どうしたいわけ?」
 「イーサンによるとさ、一日あたり三十分間は泳がないとだめなんだって」
 プールを借りている時間はたったの二時間。去年までは毎年、ダイビング部は飛び板のあるエリアを使い、わたしたちはレーンの方を使っていた。頭の半分で考える。トンプキンズコーチはいつもこんな風にして、マーティンコーチを怒らせてきたんだろうか――そりが合わないのはもうみんな知っているし、とりわけ水泳部とダイビング部の予算の配分となると、絶対に折り合わない――とはいえ、だからわたしたちでどうにかできるものではない、とも限らない。
 「これはどう? あなたたちは一日あたり二十分、プールを使う。学校が借りてる二時間のうちの、最後の二十分間」
 「そのあいだ水泳部はどこに行くのさ?」
 「陸に上がってトレーニングする。腕立て伏せとか、ランジとか」
 「それでみんなを納得させられる?」
 「ランドンに頼むわ」
 ジャックはふうっと息をついた。「じゃあ、解決ってことか」
 わたしは目をぱちくりさせた。びっくりだ。ジャックのことをそんなに知っているわけじゃないけど、いつもこんなに……物わかりがよかったっけ。
 「イーサンのとこに行ってみる?」
 えっっ、そうくるか。
 テーブルのスマホがピン! と鳴る――タフィからのメールだ。今会議中らしい。続けざまにマムからも来た。わたしのスマホで会社のアカウントを開き、代わりにツイートしてという。

 一瞬ためらった。なにこの罪悪感。そもそもわたしには関係ないことだし、わたしのツイッターアカウントではないのだ。わたしはただ単に、キーボードをたたく指先でしかない。
 ツイートボタンを押したら、あとは腹をくくるしかない。なんだろう、なんとなく……薄汚い気がする。一連のことが。何かいけないことをした気分だ。
 「あいつら、すぐそこだよ、えっと、三ブロック先かな」
 スマホをテーブルの上に、画面を下にして置いた。「メトロポリタンの場所ぐらいわかるけど」言ってから、自分で聞いても過剰防衛だったと思った。
 ところがジャックは気にも留めていないみたいだ。「じゃ行く?」と訊く――誘ってる。
 制服の縫い目がチクチクするみたいな、たまらない気分になってスマホを開く。会社のアカウントに戻ると、リアクションをチェックした。おかしいのはわかっている。なぜか会社の呪縛から逃れられない。会社ができた当初とはまるっきり変わってしまっているというのに。小さい頃は、レストランの全部がわたしのもの・・・・・・だと感じていた。レストランがあるからこそ、ペイジもわたしも存在できていた――レストランで働いているみんなが、わたしたちの名前を知っていたし、とんでもない材料をまぜこぜにしたミルクシェイクだって好きに作らせてくれたし、両親が遅くまでミーティングをしていたら、誰かしら余ったポテトフライをこっそり持ってきてくれたりもした。フランチャイズチェーンになるともう立派な会社だから、わたしの理解を越えてしまっているし、わたしの思い付きのデザートなども、もはや出る幕がない。なのに、会社がどこまで大きくなろうと、わたしはどこかで自分のものだと思っているし、その気持ちを抑え込むことができずにいる。
 今夜は何事にも集中できる見込みがないし、ばかみたいに積み上がった書類の束なんてもってのほかだ。考えただけで息が詰まりそうになって、絶対帰りたくないと思ってしまった。
 「ぜんぜん、いいわよ。行きましょ」
 ジャックは目を丸くする。「ほんと?」
 「行くに決まってるでしょ」

第4回に続く