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【おしえて!キャプテン】#39 アンチヒーロージャンル作品について

キャプテンYことアメコミ翻訳者・ライターの吉川悠さんによる連載コラム。今回は、読者の方からいただいた「既存のヒーローコミックに対する批判的パロディとしてのアンチヒーロージャンルについて知りたい」という質問にお答えいただきました。


連載コラム39回目です。今回は「アンチヒーロージャンル」について頂いたご質問に回答していきます。

アンチヒーローって何?

“アンチヒーロー”……なかなか込み入ったお題です。マーベルのデッドプールのように元々ヴィランとして登場したキャラクターや、DCのピースメイカーのように過激な手法を取るキャラクターが “アンチヒーロー” と呼ばれていることもありますし、質問者さんがおっしゃるような「既存のヒーローに対する批判的模倣作」という意味で用いられることもあります。

そもそも “ヒーロー” という言葉自体が単なる「主人公」を指すときもあれば、「正義の味方」「超人的なパワーを持ってタイツを着ているキャラクター」を指すことも...…。

そうした広義的な意味を持つ ‟アンチヒーロー” を語る上で、まずは言葉の定義から確認する必要があるのですが、ここで一つ思い出したことがあります。

2017年頃、アメリカ国内で警官の過剰な暴力が問題視されていた時のことです。彼らがパニッシャーのシンボルであるドクロマークを好んで装備や車両にあしらう傾向があるという指摘をきっかけに、Twitter(現:X)でパニッシャーに関する話題が盛り上がったことがありました。

※1―パニッシャー:元海兵隊員で、最愛の家族をギャングに殺されたことをきっかけに、法で裁けない犯罪者に制裁を加えるマーベルの人気キャラクター。白いドクロを描いた漆黒のコスチュームに身を包む。アメリカ・セントルイスの警察組合がSNSでの人種差別発言で内部監査を受けていた仲間を庇う連帯のシンボルとして、パニッシャーのドクロマークを使ったり、中東に派遣された軍人が非公式に装備にペイントするなど、近年になって政治的な意味がつきまとうようになった。

その時、『マーベルズ』『アストロシティ』などの名作を送り出したカート・ビュシークが非常に興味深い指摘をしていたので、そちらの要旨を紹介します。

ヒーローコミックスにおいては、アンチヒーローという言葉自体が誤用されている。文芸の分野ではアンチヒーローとは「伝統的なヒーローの資質とされる理想・勇敢さ・道徳などを欠く主人公」を指す。だがパニッシャーは(歪んだ)理想を持ち(極めて)勇敢で、厳しい道徳的価値観を持っている。パニッシャーはドラマの文脈の上ではヒーロー、倫理の文脈ではヴィラン、アンチヒーローという単語が誤用されている文脈においてはアンチヒーローだ。
ハルクは、(本来の意味の)アンチヒーローに該当する。他のヒーローと戦うからではなく、彼は基本的に目的を持たず、一人になりたがり、周囲に巻き込まれて冒険に参加するからだ。

カート・ビュシークの投稿から一部抜粋して翻訳

確かに、辞典を引くと、アンチヒーローとは「慣習的なヒーローの資質を欠く、物語における主要なキャラクター」という定義になっています。先に挙げたような、今日一般的にアンチヒーローと呼ばれるキャラクターは、物語における役割や言動を考えると、この定義に該当しないことも多く、ビュシークの言うとおり、多くが誤用に基づいていると言えそうです。同様に、ヒーロージャンルを批判する作品のことを単純に “アンチヒーロー” 作品と言っていいのか? という疑問が生じてしまいます。

「アンチヒーロー」についての定義を確認した上で、では「既存のヒーローコミックに対する批判」とはどういう作品を指すのでしょうか?

スーパーヒーロージャンルの脱構築


海外のレビューを読んでいると、『ウォッチメン』のような作品については "anti-hero" ではなく、"deconstruction(脱構築)" や “post-modern(ポストモダン)” の語が使われていることが多いと感じます。筆者は哲学や批評をまともに学んだことはないのですが、こうした場合の「脱構築」とは、本来の定義よりも広く「既存の概念に疑問を投げかけて解体し、ジャンルを批評する(場合によってはさらに再構築する)」といった程度の意味で使われているようです。

今回のご質問では「批判的パロディ」という言葉が使われており、パロディという言葉にはユーモアを含む場合もあるので、質問を適切にとらえられているかどうか分かりませんが、質問者さんの求める「アンチヒーロージャンル」は、ひょっとしたら「ヒーローの脱構築ジャンル」に近いのではないでしょうか?

その前提に基づき、「ヒーローの価値に疑問を投げかけることでジャンルを批評した」とはっきり言える作品を、いくつか紹介しようと思います。

俺はヒーローハンター……『マーシャル・ロウ』

Marshal Law: The Deluxe Edition (English Edition)

『マーシャル・ロウ』は1987年に第一作が発表されたシリーズです。舞台は荒廃した未来都市サン・フューチュロ。地震で崩壊したこの街では、戦争帰りで心が壊れた超人兵士たちが野良ヒーローとして暴れ回っていました。その野良ヒーローたちを狩るのがヒーローハンター、マーシャル・ロウです。

マーシャル自身も元・超人兵士なので、自己嫌悪に囚われながらヒーローを狩り続ける日々を送っています。その彼によって、我が物顔でのさばるヒーローたちの欺瞞が次々と暴かれていく……というのが基本的な設定です。

第一作の「Fear and Loathing」編では、猟奇連続殺人事件を発端に、マーシャルがかつて憧れていた(スーパーマンそっくりの)ヒーローが抱える、暗い秘密が明らかになります。

本作はキワモノとして紹介されることが多く、また本質的にはブラックコメディですが、強烈な風刺と深い思索が込められており、ヒーローコミックの脱構築作品としてはまさにマストリードの一冊でしょう。

「Fear and Loathing」編では「同性愛嫌悪から生まれる人間の弱さの否定、そしてその弊害」といったテーマにも踏み込んでおり、「有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)」について先取りしていたと感じました。

既存ヒーローのパロディたちが、肉体的にも道義的にもケチョンケチョンにやられる描写には凄まじいインパクトがあり、90年代から日本国内のヒーローコミックス・ファンの間で草の根的に紹介されてきました。

しかし、版元を転々としてきた作品なので、安定して読むことも、人に勧めるのもなかなか難しく……。現在は、DCから刊行されている単行本で読めるようになりました(残念ながら他社キャラクターとのクロスオーバー作品は収録されてないのですが……)。

業界もファンも地獄送り!「キング・ヘル・ヒロイカ」

BRAT PACK 30th Anniversary Edition: Volume Four of The King Hell Heroica (English Edition)

ベテランコミッククリエイターのリック・ヴェイツは、アラン・ムーアと共に「スワンプシング」を手掛けたアーティストですが、本人もライターとしてジャンル批評に踏み込んだ作品を多数発表しています。そのヴェイツのオリジナル作品である「キング・ヘル・ヒロイカ」シリーズは、コミックの歴史を踏まえてスーパーヒーロージャンルの脱構築に取り組んだ作品群です。

このシリーズは全5部構想ですが、刊行順は時系列順ではなく、第4部に当たる『ブラットパック』から出版されました。同書は、まさにスーパーヒーローファンにとっては衝撃のコミックでしょう。

『バットマン:デス・イン・ザ・ファミリー』に着想を得て、スーパーヒーローたちのサイドキック――要は子供たちが、いかに物語の中でボロカスに扱われて消費されてきたかを描くという凄まじい内容です。

バットマン(もどき)に性的搾取されるロビン(もどき)。ミサンドリストのワンダーウーマン(もどき)によって男を釣る餌にされるワンダーガール(もどき)。グリーンアロー(もどき)に甘やかされて薬物中毒になるスピーディー(もどき)。極右でKKKのキャプテン・アメリカ(もどき)によって、ふんわりとしたレイシストから狂信者に生まれ変わるバッキー(もどき)……。

さらに、大人のヒーローたちは、このサイドキックたちの突然の死と代替わりをネタにグッズを売って(!)、甘い汁を吸おうとします。サイドキックたちの跡を継いでしまったがために、身も心もズタズタにされた子供たちの行き着く先は……というあらすじです。

ヘドが出そうな展開ですが、ヒーローコミックの歴史においてメインのヒーローを安全圏に置きつつ、サイドキックを酷い目に合わせてドラマを作ってきた部分があることは否定できません。

出版社はそうして部数を稼ぎ、読者の側も乗っかってロビンが死ぬかどうか電話投票で盛り上がり(※2)、コレクターたちはドラマの発生した号を高値で取引してきたのです。最終的にはヒーローコミックのあり方だけでなく、我々読者も断罪されるという恐るべき作品です。

※2――1988年9月、二代目ロビンことジェイソン・トッドの生死を決めるイベントとして読者による電話投票が行われた。結果「生き延びない」がわずかに上回り、『バットマン』#428でジェイソンはジョーカーによって殺害された。このストーリーが後に『バットマン:デス・イン・ザ・ファミリー』としてまとまった。

2作目、かつ物語の順番としては第1部にあたるのが『マキシモータル』になります。スーパーマンのパロディ(というにはおぞましいバケモノ)であるトゥルーマンと人類の邂逅を軸に、スーパーマンの創造者である2人、ジェリー・シーゲル&ジョー・シャスターがいかに不当な扱いを受けてきたかを描くというコンセプトの作品です。

The Maximortal (The King Hell Heroica Book 1) (English Edition)

医学者兼錬金術師であるパラケルススの言葉「糞の中に黄金あり」を文字通り実践して、トゥルーマンを支配しようとするシャーマン、コミック作家たちを酷使するウォルト・ディズニー(もどき)、引退したシャーロック・ホームズ(もどき)、トゥルーマンを兵器利用しようとするオッペンハイマー博士(もどき)……などなど、大手出版社では許されないようなキャラクターばかりが現れ、物語は「人間から生まれた概念が実体を持ち、人間を振り回す」という哲学的な領域に向かって爆走していきます。

上述したように、ヒーローコミックの歴史には数々の汚点があるのですが、スーパーマンの創造者たちが不遇な扱いを受けた(※3)件はまさにその筆頭と言えるでしょう。古傷を容赦なくえぐりつつ、スーパーマンとは何なのかを考えさせられる傑作でした。

※3――1937年、ジェリー・シーゲルとジョー・シャスターは、原稿料の130ドルと引き換えに彼らが創作した『スーパーマン』というコミックとキャラクターの権利をDCコミックスに譲渡する契約にサインした。「スーパーマン」は大ヒット作品となり、DCコミックスと親会社のワーナー・ブラザーズに膨大な富をもたらしたが、創作者であるシーゲルとシャスターには一銭も入らず、これを不服として二人は著作権の奪還を求めて1947年に訴訟を起こした。しかし裁定は彼らにとって不利なものとなり、10万ドルの和解金と引き換えにすべての権利を手放すことを余儀なくされた。1970年代に入ってから、映画『スーパーマン』(1977)の製作開始を機に2人を支持する運動が起こり、DCコミックスは2人に対して経済的な補償を行うことになった。

この「キング・ヘル・ヒロイカ」シリーズは、1997年にインタルードとなる『ブラットパック/マキシモータル・スペシャル』#2が出てから長い間続刊が出ませんでしたが、2023年になってやっと待望の三作目(かつ物語の上では第二章にあたる)『ボーイ・マキシモータル』の単行本が出版されました。

Boy Maximortal: The Complete Volume Two of the King Hell Heroica (English Edition)

スーパーヒーローの脱構築が本格的に始まった80年代から刊行され、現代になってもまだ完結してないシリーズですが、ヴェイツへのインタビューによると、全五章完結に向けて制作は続けていくそうなので、非常に楽しみです。

発表順と作中時系列が一致していないシリーズですが、発表順に読むのをお勧めします! なお暴力も下ネタ(汚い方も、性の方も)もかなりキツめなので、苦手な人はご注意ください(amazonでは「成人向け」に分類されています……)。

ヒーローの脱構築と再構築

正直、「スーパーヒーローの脱構築」は、現状では「定番」というより「やりつくした」感のあるテーマではないかと個人的には思っています。今のヒーローコミックスはすでに脱構築を取り込んでいたり、あるいはその先を行っていると筆者は感じているからです。

2000年代には『アベンジャーズ:イルミナティ』『アイデンティティ・クライシス』『シビル・ウォー』のように、ヒーローのあり方を揺るがすことで生まれるドラマを描く作品が、主流として打ち出されたこともありました。

一方で90年代から2000年代にかけて、『マーベルズ』『アストロシティ』『DC:ニューフロンティア』などでヒーローという存在の素晴らしさや、その価値を再確認する、つまり「再構築」の流れが起きています。

このようにいくらでも例は挙げられます。いずれにせよ、脱構築だけやって再構築がなければジャンルは破壊されて終わっていたでしょう。あくまで私見ですが、ヒーローコミックにおいて脱構築・再構築の手法はもうノーム(一般化、平準化)と化したのではないでしょうか?

また、古典で王道のヒーローコミックも日本ではあまり浸透しているとは言えない状況で、それらを批評する作品を勧めてしまって大丈夫だろうか、と思わないでもありません。

しかし、ヒーローコミックを脱構築した作品の代表格である『ダークナイト・リターンズ』『ウォッチメン』などは、それ以前のコミックスを読んでない人でも「すごい!」となる名作です。この2作が漫画として優れているというだけでなく、ひょっとしたら、それはスーパーヒーローという概念があまりに巨大であるためかもしれません。その懐の深さゆえに、先行作品にそれほど触れていなくても、十分に楽しめるのかもしれませんね。

ヒーローコミックは自己批評することによって、100年近くの歴史を生き残ってきました。批評には作品をより楽しませ、またジャンルを深化させる役割があります。それを意識しながらコミックを読むと、一段と面白さが増していくでしょう。皆さんも、ぜひ自分なりの視点を持ってコミックを読んでみてください!

◆筆者プロフィール
吉川 悠

翻訳家、ライター。アメコミ関連の記事執筆を行いながらコミック及びアナログゲーム翻訳を手がける。訳書近刊に『スーパーマン:サン・オブ・カル=エル』『アベンジャーズ:チルドレンズ・クルセイド』『キング・イン・ブラック』(いずれも小社刊)など。Twitterでは「キャプテンY」の名義で活動中(ID:@Captain_Y1)。

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