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読書家の女優 南沢奈央さん推薦! 可愛すぎると米国で話題を呼んだ『ツイート・ウォーズ~キュートでチーズな二人の関係~』試し読み④


『ツイート・ウォーズ~キュートでチーズな二人の関係~』
著:エマ・ロード 訳:谷 泰子
装画:美好よしみ 装丁:BALCOLONY.
定価:2,530円(10%税込)
2023年3月16日頃発売

第3回はこちら

 飲み物を持って店を出ることにしたが、舗道に出て十月の涼しい外気に触れたとたん、はたと気づいた。ジャックにどう話しかければいいか、正直何も思い浮かばないのだ。誰かと当たり障りない話をしないといけないなんてことは、普段はまったくもってありえない。学校まで一人で歩いて行くし、一人で帰るし。どこか別の場所に行くとなったら、だいたい集団の中に紛れてしまうことにしている。
 ところがジャック・キャンベルは、沈黙を埋めることにかけては天才だった。
 「そういやさ、ここに来る前はどこに住んでたの?」
 たじろいだ。嘘をついていたとかではないけれど、最初の頃訊かれて答えても、ほとんど誰にもピンときてもらえなくて、仕方なくあの、有名人の名前をあげて南部の一都市を自慢する、という格好になってしまっていた。だからもう言うのはやめようと決めていたのだ。「わたしそんなに悪目立ちしてる?」
 「いや、全然。びっくりするくらい溶け込んでるよ」誉め言葉のつもりだろうか。ほんの少し皮肉めいた言い方だったし、ジャック本人もどっちの意味かわかっていないのかもしれない。咳払いしてからは、言い方が少し柔らかくなった。「ただ新入生のとき、全然知らない子が二人くらいいてさ、そのうちの一人がきみだったから、どっかから越してきたのかなと思ってたわけ」
 恥ずかしいのか誇らしいのか、自分でもまったく分からない。今日はとにかく二つがごちゃ混ぜになる日だ。
 「ナッシュビルだけど」
 「へえ」何か考えているらしく、舌で片頬を押している。わたしを見る目がなんとなく変わりつつあるのが見え見えで、いたたまれなくなる――未知感というやつ。
 こんどはわたしが咳払いする。「カウガールのダジャレを言わなきゃって思ってるなら、いらないから」
 「そうじゃなくて。テイラー・スウィフトでひねり出そうと思ってた」
 「だったら聞いてあげてもいいわ。けどよく考えてね。テイラーがまだ街にいたころ、わたしばったり会ったことあるんだから」
 「ほんと?」
 またあの半笑い。ジャックって今まで、口全体で笑ったことがあるのかな。いつかおじいちゃんになったら、きっと片方にだけしわができてるんだろうな。
 「ほんと」言い切ってあげた。ほんの二日前、ペイジとわたしはダドとつないだ三方向スカイプで『シェイク・イット・オフ』を思いきり歌っていて、あんまり大声なものだからダドが、やめないと自分も一緒に歌うぞ、と脅してきたのだ。そのときたぶん、ダドの両隣の人は部屋にいたと思うから、やめるのが市民としての義務だったと思う。
 角を曲がって五番街へ。週末よりはずっと人が少ない。今日は観光客と、仕事を終えて繰り出したジョガーばかりが目につく。
 「あなたはどこに住んでたの?」
 「生まれも育ちもここ」とジャックは、ダウンタウンの方を指さした。「イースト・ヴィレッジに住んでるんだ。ひいじいちゃんひいばあちゃんの代から」
 不意に胸がチクンと痛んだ。できれば今は思い出したくなかった懐かしさ。祖父母はまだナッシュビルにいる――母方も父方もどちらも。なんだかナッシュビルに、わたしたち家族のファミリー・ツリーの根っこがあるみたいで、離れる理由なんて絶対考えつかない気がする。正反対の世界で四年も暮らした今でさえ、わたしはまだ納得しきれていない。
 前髪を耳に引っ掛けるが、湿った巻き毛はすぐにするっと落ちてくる。扱いにくいったらもう。部活のあとのわたしの髪ときたら、まとまらないことこの上ないのだ。学校を出て家に着くまで、どうすることもできないわけだし。
 「てことは、ユニコーンみたいな感じね」
 ジャックの唇がきゅっとねじれた。「は?」
 「ニューヨークで、家族全員が生粋の・・・ニューヨーカーって人に最後に会ったのはいつ?」
 ジャックは笑いだした。「ここらへんで? ここしばらく会ってないかな。けどうちのあたりなら……そう。ダウンタウンに行ってみなよ、ここよりずっとたくさんのニューヨーカーに会えるぜ」
 イーサンとステファンがどれほど情熱的に慈しみあっているか、その真の証といえるのが、わたしが階段の上の二人に、まわりの何よりも先に気づいたということだ――ハニーローストピーナッツの屋台から漂うとろけるような甘い匂いとか、巨大な噴水とか、メトロポリタン名物の階段を、わーきゃー言いながら駆けまわっている子どもたちとか。そんな周りの喧騒も、二人は一切気にならないらしく、もしかして片方がこれから戦争に行くんじゃないかというくらい必死に、キスを交わしている。
 とっさに胸に手を当ててやっと、自分が何をしているのか気づく。ペイジが来ると必ず見せられる、あのばかみたいなロマンチックコメディの類を見ているみたいだ。「うわっ、もうほっといてあげようよ」
 「ええ? そんなことしてどこが面白いのさ?」ジャックが高らかに言う。
 「あの二人すごく幸せそうだし」
 「あいつらにはどこか他所に行ってもらったほうがよさそう・・・・だと思わないか」とジャック。でも先に踵を返したのはジャックのほうだ。つまらなそうに笑いながら、やれやれと首を振る。「きみが一緒になってイタズラしてくれるなんて思ったぼくがバカだった」
 「そもそもどんなイタズラを仕掛けるつもりだったの?」
 「きみなら一生思いつかないようなやつ」と、わたしの肩を肘で小突いた。
 横揺れした反動で、無意識に押し返していた。考えもしないうちに自然にやってしまったものだから、あとになって息をのんだ。間違いない、わたしはなんらかの、ある一線を越えてしまった。わたしはこの街のみんなと、何かヴェールのようなもの越しに関わり合っているような、そんな気がいつもしていた――ここにいてもかまわないけど、参加してはいけない、みたいな。見てもいいけど触るな、ということ。この街の社会秩序は、わたしが来るずっと前に決まってしまっていて、新参者のわたしがどう関わったところで、この街の本当の住人たちにはありがたくもなんともない、という感じがしていたのだ。
 だけどジャックは、ふっと微かに笑っただけで、五番街をどんどん歩いて行く。
 「じゃさ、今はぼくがダイビング部のキャプテンだから――」
 「そうなの?」
 「だって、きみも見ただろ? イーサンは目下、また別のところにダイブしちゃってるし」
 「だからあなたが肩代わりを買って出たってわけ?」
 ジャックは肩をすくめる。さっきよりはトゲのある薄ら笑い。「たまに厄介ごとを相方におっかぶせるぐらい、いいじゃないか。じゃなきゃ瓜二つの双子でいる意味なんかないだろ」
 真っ直ぐにジャックの目を見る。「それってフェアじゃないかも」
 ジャックはいつになく黙り込み、何かを見つめている。視線の先にいるのは兄弟らしき子どもたち。似顔絵を描いてもらうため、身動き一つせずひたすらじっと立っている。そのまわりを、バックパックを背負った父親がちょこまかと駆け回っている。全容をビデオに収めようと必死なのだ。
 「うん、かもしれないけど、これ以外の方法が思いつかなかったからさ」と、上唇を舐める。「それはそうと、今のうちから資金集めのアイデアを考えとかないとまずいんじゃないかと思うんだ。両方のコーチにせっつかれる前にさ」
 「うん、そうね」
 「ほかにやっとくことってあるかな?」
 わたしはこの問題に、どれだけ真剣に向き合えばいいんだろう。ジャックは本気でイーサンの仕事を丸ごと肩代わりしてあげて、手柄だけさし出すつもりなのか? わたしだってペイジのことは世界じゅうの誰よりも愛している。にしても、大学入学をかけた審議にいかに好印象を残すか、これから問われようというギリギリのタイミングで、そこまで自分の時間をささげてあげるなんて、とても考えられない。
 「うーん……まあ、資金集めよね。あとは、今年のユニフォームについて投票してもらわなきゃいけないから、あらかじめ選択肢を用意しておくこと。それから、イーサンとわたしは週一で打ち合わせして、試合に向けてのいろいろな準備をしようってことにしてたのね――ほかのプールで試合があるなら案内状を出さなきゃだし、あとは誰が軽食を用意するか、とか。それと、保護者向けのニュースレターも書かなくちゃいけない」いつジャックが話を遮ってきたっておかしくないし、こんな途方もないことやってられるか! と啖呵を切ってさっさと手を引くに違いない、と決めてかかっていた。ところが、じっと見返すだけで、わたしが話し終わるのを待っている。「わりと――大変なのよね」
 ジャックは怯みもしない。「資金集めに、ユニフォーム、ニュースレター、軽食か。りょーかい」イーサンのほうを一瞬、もうとっくに見えなくなっているのに、振り返った。「部活終わりに、何か食べに行く?」
 足が止まる。「デートしようってこと?」
 邪気のない目で見てくるから、言い終わらないうちから後悔した。訊かなきゃよかった。けどそうはさせないんだから。世の男子がやりがちなことを、ジャックもやろうとしているに違いないのだ。ペイジにもさんざん注意されたっけ――『嘘みたいだけど、うぬぼれがきつい男子っているのよ、これが』とかなんとか、とにかくボロクソだった。ところが、背筋をうーんと伸ばしてこう言うのだ。「いや、そういうんじゃなくて。ただ、話し合わなきゃいけないことがたくさんあるし……」
 わたしは腕組みする。
 「デートではないです」ジャックは参りましたとばかり両手を上げたが、いかにもなニヤニヤ笑いはあいかわらず顔に貼りついたまま。「このシーズンをなんとかやりきりたいってだけさ。週一でやろう、イーサンともそう決めてたんだろ」
 しばらく顔を眺めながら、オチはないのか、何か下心らしきものが見えないか、まだ待っていた。が、見えてはこなかったので、手を出して握手を求めた。ジャックは眉を吊り上げて見せる。なのでわたしもすぐさま吊り上げてみた。
 するとわたしの手に自分の手をパチンと合わせてから、しっかりと一回だけ、握手してきた。
 なんだか温かく、しっかりとしたものを感じた。この握手を境に、これまでのジャック・キャンベルから、これからのジャック・キャンベルに変わる、そんな気さえする。ここ数年、わたしの頭の中にできていた彼という概念そのものが間違っていたんじゃないかと思ってしまうほどに。
 ジャックはバックパックをひょいと背負いなおし、七十八番通りの先に目をやった「六番列車に乗って帰るから。また明日、かな?」
 「うん、またね」
 その時やっと気づいた。数ブロック後ろのあたりに、わたしの七ブロック分の空想が置いてきぼりになってただよっている。舗道にしばし立ちつくし、体じゅうを何かが駆けめぐるのを感じていた。これって動揺してる? ばかみたい。視線の先には、コンパスみたいに足を広げて信号を待つジャックの後ろ姿。まだ声が聞こえないほど遠くはない。ポケットからスマホを取り出してスクロールしたかと思ったら、低い声で「くっっっっそー」と漏らした。
 わたしも自分のスマホを探す。と、上着のポケットに潜っていた。この瞬間、二人ともが現実に引き戻されたのだった。


ジャック

ウルフ:
なんかほんとに、ものすごくばかなことを、しでかすことってあるよね

ブルーバード:
ないわよ、全然。わたしって完璧だから、生まれてこのかたばかなことなんて一回もしたことないの

ブルーバード:
なんてね。本当はしょっちゅう、いっつもやってる。ところで大丈夫?

ウルフ:
実はさ、今現在、両親に全然気に入られてないんだ。ていうか、父親に気に入られてない。たぶん母親も言わないけど気に入ってない。ただ、なんとか取り持とうとしてくれてはいる

ブルーバード:
それで、何をやって捕まったの?

ウルフ:
普通のことだよ。麻薬を売って。カルト教団に入って。地下に十代向けのファイトクラブを作って。ただしルールはひとつだけ、そのことは黙ってちゃいけない・・・・・・・・・
なんでうちの親はガタガタ言うのかな

ブルーバード:
真面目な話、カルト教団に入るって偉業よね。もっと敬意を払うべきだわ

ブルーバード:
けど、わかるかも。わたしも、そんなにすごくはないけど、親からの圧力を感じるから。

ウルフ:
大学のこと?

ブルーバード:
あら、当たり

ウルフ:
ファイトクラブに来てみる?

ブルーバード:
そこまで言うなら……

ブルーバード:
うーん、なんだろう。ときどきね、母とわたし、全然違うことを考えてるなって思うのよね。わたしが、自分の時間/つまり人生そのもの を使って何をやっていくべきか

ウルフ:
ああ、わかるよ

ウルフ:
うちの親も似たり寄ったりだ

ブルーバード:
あなたは何をやりたいの?

ブルーバード:
アハハ、ばかみたいなこと訊いちゃった。「大きくなったら何になりたい?」と変わらないよね。でも、わたしたちってそういう時期に来ちゃってる気がしない?

 「スマホをしまったほうがいいんじゃない? 父さんに見つからないうちに」
 びくっとした。「わわ、母さんか、凄腕の忍者みたいだな」
 「元バレリーナだけど、まあいいわ」苦笑しながら言う。ぼくの手からスマホを引っこ抜いた。「今日一日で、これだけ損害を与えたんだからもう充分でしょう」
 そんなことはないとも言いきれない。部活と、ペッパーとの行き当たりばったりな校外学習のおかげで、最大限帰宅時間を遅らせることができたわけだが、だからといって父さんによる最高レベルの最終レクチャーから逃れられるわけもない。デリの上階のアパートにぼくたち家族は住んでいるから、ぼくはそこに上がっていくわけだが、父さんがそれさえ待てないとなると、親指を立てて店の奥の小部屋のほうへ、ぐいと向けるのだ。そこはぼくらがまだ小さい頃、母さんが「反省タイムアウト部屋」と名付けたボックス席だ。このごろは休憩部屋みたいになっていて、シフトの最中にサンドウィッチにかぶりついたり、客が途絶えた隙に宿題をやったりするのに使っている。とはいえときどきは、両親のニーズ次第で本来の目的を取り戻すこともあるようだ。
 そこがまた反省部屋に戻るとなったら、情けなくてたまらなくなる。だってぼくはもう長いこと、それに値する悪さをしてこなかったということだから。そしてついにやらかしたわけだが、またそれがまったくとんがってもイケてもないときている。階上のアパートの隣人ベニーのように、バイクの点火装置をショートさせてエンジンをかけたとか、常連客のアニーみたいにルーズベルト・パークでマリファナを所持していて捕まったとかでは全然ないのだ。ではなくてただの、アホらしいツイートひとつのせいでしかない。
 「わかってるだろ、うちはそういう店じゃないんだよ」父さんがぼくを叱ること自体がもう稀になっているので、なんだか滑稽でさえある。ボックス席のくたびれた背あてクッションに、背筋を伸ばしてぴったり貼りついているものだから、服が体からずれてしまっている。「うちの店がツイッターやフェイスブックをやってること自体、おれは気に食わない」
 「ほかにどうやってうちの店のこと知ってもらうのさ?」また訊く。何百回めだよまったく。
 「いつも通りの方法でいい、六十年前から変わってないだろ。地域社会のつながりってやつだ。なんだっけかその……ネット広告とかじゃない」
 父さんの見た目はなんでこんなに若くてイケていて、ぜんぜん父親っぽくないんだろう――顎鬚はきれいに生えそろっているしスリムだし、それでベースボールキャップをかぶっているから、お客さんには、ぼくらには年の離れた兄さんがいるのかと勘違いされてしまう――そのくせソーシャルメディアについてはちんぷんかんぷんときている。正直言って、うちの料理はものすごくおいしいから、ちょっと怪しいまとめサイトとか、口コミで広がる食品動画とかにガンガン出てくるのもまあ当然だ・・・・・と思っている。うちのサンドウィッチを頬張ったとたん、リアルに涙する人の姿をぼくはさんざん見てきた。うちのグリルド・チーズのチーズが、ひと噛みごとに剥がれていく食感といったら、本当にもう神をも恐れぬ美味と言って過言ではない。ほんの少しでいいから、ちゃんとした照明でインスタグラムにあげるか、うまくツイートするとかすればきっと……
 今現在陥っている窮地からも、脱することができるかもしれない、いや絶対できるんだって。
 なんてことを今言うわけにはいかない。今現在店があまりうまくいっていないことが、イーサンとぼくにはバレていないと両親は思っている。経理関係の話だけは、ぼくらがいなくなったのを見計らって、バックオフィスでやっているから――しかもきっとそれは、父さんのプライドにかかわることだし、そっくりそのまま、ぼくらを守ることにもなっているのだと思う。ぼくの信念をゴリ押ししようとすれば、事態を悪化させるだけだろう。
 「しかもだ」と父さん。「あのツイートは一線を越えてたな」
 「まさかマリーゴールドがリツイートするなんて思ってなかったから」
 「リツイートされなかったとしても、越えたことに変わりはないだろ。ほかの会社に喧嘩を売るなんてもってのほかだ。よりにもよって――」とここで口をつぐみ、かぶりを振った。「そしたらもう、『拡散』されてしまった」両手でリツイートマークをこしらえている。「こうなると削除するわけにもいかん。しかもあっちが返信してきてるんじゃ、お手上げだ」
 「え、なんて・・・?」
 一目散にスマホを取りに。父さんはもう釘を刺しにくる。何か返信したくてたまらなくなってもするんじゃないぞ、だって。何言ってるんだ、返信しちゃいけないなんておかしいだろ? 『ミーン・ガールズ』からのしょうもない引用で返信してくるなんて、うちの店の字面からして盗んでるようなもんじゃないか?
 「ツイッター上とはいえ、グランマ・ベリーの顔に唾を吐かれてるんだよ。このまま泣き寝入りでいいの?」
 父さんは手に顔を押しつける。「なんでもかんでもそんなドラマみたいに・・・・・・・盛り上げなくていいさ」
 正直に言おう、ぼくはちょっと引いた。ぼくは父さんより、もしかしたら頭に血が昇りやすいのかもしれない。にしても、グランマ・ベリーを守ろうとする情熱にかけては、父さんの右に出るものはいないはずなのに。思い出させてあげなきゃと口を開けたところで、先を越された。
 「もうツイートはするな。アカウントは使用禁止だ」
 「だって父さん――」
 「だってもなにもあるか」いきなり立ち上がると、ぼくの肩をポンと叩いた。「おまえは将来、この店を継ぐことになるんだ、ジャック。この店にとって何が最善か、常に考えられるってところを見せてくれ」
 顔から火が出そうだ。父さんはくるりと背を向けたあとだったため、ちょうどぼくが飲みこみ損ねたしかめっ面を見ることはなかった――年々あからさまになってきていた。ここに残ってデリを継ぐのは、双子のうちのぼくのほうだと、父さんの心づもりには前からあったのだろうが、それが少しずつにせよ、より明確に、ほのめかすというよりは既成事実みたいに語られだしたのだ。
 「とにかく、おまえは週末まで毎晩、レジ係だからな」
 「まじ?」
 実は思っていたよりずっとましだった。父さんって人は、おまえにここを継いでもらいたいんだと言ってくれるかと思いきや、次の瞬間にはそれを、ぼくを本気で懲らしめる罰のように持ってくる、現にそういう人なのだ。ぼくにしてみればさらにもう一つ、誰も口にしないことがはっきり語られた瞬間でもあった――イーサンは双子のうち、偉くなる運命にあるほうで、ぼくはというと居残り組で、イーサンがやり残したことをそのまま引き継ぐほうだということ。
 「運がよかったと思えよ。次にまた八〇年代のポップスターにリツイートされたりしたら、一カ月ぶっ続けでレジ係だ」
 「レシピを盗まれたんだよ」と言い返した。ぼくのためにもならないし害にもならないのはわかっていたが、そんなのももうどうだってよかった。罰を与えられはした。だけど、ぼくの怒りはまだここにある。
 父さんはふうっ、とため息を漏らすと、肩に手を当ててぐるぐる回したり、ギュッと掴んだりしている。またあの『父親はつらいよ』の顔だ。ぼくらのうちのどっちかに何か訊かれて、どう答えていいかわからないときによくやる顔。復活祭にウサギがプレゼントを持ってくるってホント? とか、水曜日の午後四時以降にデリにやって来る大学生たちが、決まって変なにおいなのはなんで?(マリファナに決まっている。八百パーセント間違いない)とか。
 「だよな。だがうちにはまだ、奴らにはないものがある」
 「秘密の隠し味ってやつ?」ぼそりと訊いた。
 「ああ。それに、われわれは家族だからな」
 思わず鼻筋にしわを寄せた。
 「すまん、子ども番組のオチみたいなことを言っちまった。早く目を覚ましてもらいたくてな、母さんを手伝いに行ってくれ」
 こうしてぼくはここに来た。レジスターにくくりつけられ、注文を取りまくっている。毎週月曜の夜に読書会を開いている老婦人たちに、リトル・リーグ・サッカーチームの半数ほどの子どもたち、あとは二十五セント硬貨ばっかりで支払いをしてキャッキャ笑っている中学生たち。ろくでもない人生だ。
 うん。わかったわかった――父さんの期待を一身に担ってる、なんて決まり文句は置いといて、実はそんなに苦でもない。性分からして店頭に立つのは楽しい。高校でのぼくの人気はというと、ダイビング部のそれと大して変わらないが、そんなに気にしてはいない――たぶんこの店のおかげで、街のみんながぼくを知ってくれているからだ。ニューヨークという街のそれぞれのブロックごとに有名人がいるとしたら、たぶん僕がうちのブロック代表だろう。欠点を補うだけの長所がぼくにあるからじゃなくて、常連客のみんながぼくとイーサンの成長を見守ってきたうえに、二人の中ではぼくの方が断然おしゃべりだから。常連客の私生活についても、知りすぎるくらい知っている――ミセス・ハーヴェルの犬はトイレばかりしてるとか、ミスター・カーマイケルの結婚式が実はどれだけとっ散らかっていて、挙句の果てに離婚したが、それがまたさらにとっ散らかっていたんだとか。アニーが――初めて会った時は十六歳だったが、今は三十歳だ――『子宮に、次はなんとか女の子の卵を出してもらいたいから』、どんなフルーツを食べているかも、ちゃんと知っている。
 それに常連客のほうもぼくを知っているのだ。毎週火曜と金曜に来てはツナサンドウィッチのホットを頼むエンジニアは、ぼくが数学の問題で行きづまっていたら必ず助けてくれる。読書会の老婦人たちは、いつも手作りのピーナッツバタークッキーをこっそり手渡してくれる。ぼくがありとあらゆる種類の焼き菓子の山に囲まれているって、わかってくれているとは思うけど。アニーはというと、ぼくがまだ声変わりしないうちから、デートするときはね、とおせっかいなアドバイスをし続けてくれる。
 だから、父さんにこれを「罰」として押し出されると、なおさら訳がわからなくなるのだ。ぼくやイーサンは小さい頃から、父さんに一日交代で下に引っぱってこられてレジ係をやらされたりもしなかったし。また人手が足りないからとか、そういうプレッシャーを感じたこともない――父にはただ、店は家族でやっていくものだという信念があって、手伝うのは任意、でさえなかった。六歳のころにはもう、ぼくらは奥の厨房にいるコックたちにオーダーを大声で伝えていたし、テーブルを拭いてまわってもいた。そうすると常連客がすごく喜んでくれたのだ。ぼくらは毎年夏になると、店にかかりっきりになる。今や両親はぼくらに、レジスターから在庫管理、サンドウィッチの制作まで、全部を任せてくれている。
 まあ、「ぼくら」といっても、ほとんどぼくのことなんだけども。必要に迫られて臨時のシフトに駆り出されるのは、決まってぼくのほう。で、ぼくは引き受ける――生徒会のどうでもよさそうな集まりとか、課外活動とか、あと、ぼくらの高校のプリンスとしてとにかく君臨していることで、イーサンは忙しいから。ただ、ムカついてはいる。ぼくにはディベートクラブの部活もなければ、メトロポリタンの階段でいちゃつく相手もいない。だから何となく、イーサンの毎日のほうがぼくの毎日よりも価値があるように思えてしまうからだ。
 両親のためを思うからこそ、副業でろくでもないアプリを開発したことは話していない。そして自分の身を守ろうと思うからこそ、これから話すなんてのも絶対に・・・ない。だってラッカー先生の魔女狩りがもう始まっているし、おまけに父さんは、これからも一九六〇年代を生きるんだと、決意を新たにしてしまったわけだし。
 「何か悩んでる?」レジ待ちの列が消えたのを見計らって、母さんが訊いてきた。
 カウンターによりかかってふぅっと息をつく。「果てのない虚しさに息苦しくなってるだけ。ポケットの中にスマホも入れずに、世界に漕ぎだそうっていうんだから」
 母さんは天を仰ぐと、テーブル拭きに使っていたタオルでぼくをひっぱたいた――うわ、気持ちわるっ。
 「しょっちゅうメールしてるけど、相手は誰なの?」そうだ、母さんの目は猛禽類並みなのだ。見のがすはずはなかった。「あ、わかったかも。例のウーツェルWoozel・アプリでしょ」
 「ウィーツェルだけど」
 「ああ、そうそう、ウィーツェル・・・・・・か」
 母さんの得意技ナンバーワンが、ラッカー先生から保護者宛てにきたメールを茶化すことだとしたら、ナンバーツーはクールでカッコいいふりをすることだ。ほかの親よりはずっと容易たやすくやってのける。なぜなら、うちの母さんは現にクールなのだ。なんだか知らないけど、パールとかでっかいサングラスとかでめかし込んできたアッパー・イーストサイド・ママたちがひしめくPTA総会に、ジーンズとガール・チージングのTシャツだけといういでたちで乗り込み、目力だけで存在を知らしめてしまえるのだ。クールさが体じゅうから染みだしてきているとしか思えない。
 ラッキーなのは、そのクールさは遺伝するものだということ。アンラッキーなのは、イーサンが子宮の中にあったそれを全部かっさらってしまい、ぼくにはからきし残らなかった、ということ。
 「びっくり仰天しなきゃいけないとこ? あなたたち、そのアプリを使って学校を乗っ取ろうとか、ラッカー先生をクビにして二〇〇〇年代のズボンが穿ける人と交代させようとか、企んでる?」
 「そういうのもアリ・・かもな」
 母さんの唇がニンマリ細くなった。「いいわよやってみても」
 時として母さんは、かなり反体制的になるものだから、そもそもなんでぼくらを私学に入れると言い張ったのか、わけがわからなくなる。けどたぶん、ぼくらのためというより祖父母のためだったんだろうな、と思う――母さんのほうね、グランマ・ベリーのほうではなくて。母方の祖父母は、母が父と結婚して一緒にデリをやっていくなんて、まったく賛成できなかったはずだ。だってぼくの知る限り、母さんをヘッジファンド経営者とかのトロフィーワイフにする気満々だったらしいから。ぼくとイーサンをストーン・ホールに入れることで、自分のルーツを完全に切り捨てたわけじゃないんだと、なんとかわかってもらいたかったのではないだろうか。父さんが常に、自分のルーツに束縛されているのと同じことだ。
 そしてまた、ぼくも両親に束縛されようとしているのか。
 「あなたたち生徒が危ない目に遭わないのなら……」
 ぼくは鼻で笑う。「だからね、母さん、なんて言うか――スナップチャットのちょっと足りない版、って感じだよ。バスルームの落書きみたいな写真を投稿したり、ラッカー先生をからかったり」
 「やっぱりあなたもやってるんだ」
 ぼくは天を仰いだ。「みんなやってるよ」
 めったにしない目つきでぼくを見てくる。車のボンネットを開けるみたいに、ぼくのどこかしらを開けて、何か漏れていないか調べているのか。ぼくの中のおバカな部分が、今すぐ言いたいと騒ぎだした。『ぼくが作ったんだ』と言いたい。『誰の手も借りずに作ったし、それでみんなが喜んでくれてるんだ』と。今日は朝から、メルとジーナが廊下でくっついていたんだよ、とか。このあいだなんかはホールウェイ・チャットで、化学実験室が許せないって怒り狂ってる生徒がいてさ、そしたらほかの生徒が二十人以上、まあ落ち着きなよって、励ましのメッセージを寄せたんだよ、とかも言いたい。我流だしヘンテコなやり方だけど、世の中のためになるものを、一大事業っぽいものを、作り上げたんだ、と言いたかった。
 母さんのその目つき。またそのなんとも言えない目つきで見てくる。するとなぜかぼくのほうは、言わなくていいことばかりをほじくり出して言いたくなってきてしまう。
 「けどまあいいや、相手は同級生の女子だよ」
 まてよ、と思い直す前に口から出てしまった。ブルーバードのとの関係を壊してしまいそうで、なるべく考えないようにしてはいた。が、まさか彼女のことが、ぼくの脳みそのこれほどの部分を占領しているなんて、今の今まで思いもしなかった――廊下でスマホを手にしているクラスメイトをやたらじろじろ見つめていたり、ブルーバードがよこしたのと同じぐらいウィットに富んだ返信をひねり出そうと、とんでもない時間まで起きて考えていたり、今みたいに、うっかり彼女の存在を母さんに、包み隠さず話してしまいそうになったり。
 「やっぱり! イーサンが言ってたのよ、あなたが女の子といっしょにいるのを見たって」ぼくがむっとしたのを見とがめて、母さんは両手を上げた。「父さんが探してたけどつかまらなかったでしょ、だからイーサンに電話したの」
 「あいつが息継ぎしてただけでも驚きなのに、まさか電話に出るとはね」ぼそりと言った。ぼくの噂話を、ぼくに断りもしないで母さんに言うなんて、イーサンらしいや。「けど、もとはと言えばあいつのせいなんだ、ぼくがその子と一緒にいる羽目になったのは。水泳部とダイビング部の調整事項を話し合ってただけさ」
 「じゃあデートじゃなくて?」
 「違う!」
 母さんの眉が上がる。無理もないか、自分でもそんな怒ることか、と思うから。
 「だから、そうじゃないんだって。ペッパーは、その――デートの相手になるような女子じゃないんだよ。成績分布グラフのきれいな曲線を、ひとりでぶち壊しちゃうような子だから」
 もっと皮肉ってやろうとしたところで初めて、ちょっと卑怯かなという気がした。今日はペッパーと一緒に歩いたけど、嫌じゃなかった。イーサンを冷やかしに行こうと誘ったのは、ほぼジョークのつもりだった。ペッパーを和ませたかった――水泳部対ダイビング部の覇権争いをなんとか決着まで持ち込んだのちに、外を歩きまわるなんて、本当は気が進まなかったはずなのだ。いやそれどころか、協力し合おうなんて考え自体、即座に却下されるものとぼくは思っていた。不意を突かれすぎたせいで、今シーズンいっぱいキャプテン職の代理を引き受けるはめになってしまった。
 しまった、やらかした。
 「いい? あなたたちみたいな子どもが友だちを作るのに、最新流行のアプリなんて要らないんだからね」
 気づけば絶好の機会は過ぎ去っていた――母さんに秘密をぶちまけてしまいたいという、不気味な衝動も消えていた。ウィーツェルのこと、謎多きブルーバードのこと、真夜中過ぎ、ぼくの部屋のドアの下から明かりが漏れているとき、ぼくが本当は・・・何をやっていたのか、一歩間違えば話してしまいそうだった。
 本当のことを言えば、母さんをがっかりさせてしまいそうで躊躇したのだ。母さんだけではなく父さんも。ふたりともぼくのことを、この店をつぶさないでやっていってくれる跡取りだと、居残ってくれる跡取りだと思っている。母さんがスマホを取り上げてくれて、半ばホッとしてもいた。おかげで、ブルーバードにどう変身すればいいか、無理やりひねり出さなくてもよくなったのだ――問題なのは、ぼくが何になりたいかということではなくて、僕がその過程において、周りの人を一人も傷つけないで、何かになれるのかどうか、なのだ。

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