『忠』 〜1991年 年上の男〜 vol.1
高3の夏休みは、ゲイポルノ映画館にはまった。
『クルージング』が上映されていた館内はとても混み合っていた。
たぶん『クルージング』は普通の映画館で上映されるために作られた映画だろうに、こんなところでこっそり上映されちゃっているなんて、主演のアル・パチーノもびっくりだろうなー、なんて思いながら、ドアの近くの隅っこでぼんやりとスクリーンを眺めていた。
不意に、手を握られた。
映画を鑑賞するというよりは、暗い館内でこっそりと体を触りあうような場所だったから(だからアル・パチーノには申し訳ないのだけど)、股間やお尻を触られるのには慣れていた。
だけど、手を握られるのは新鮮だった。
こんな場末の暗闇に、そんなピュアな天使みたいな人がいるのかと思った。
興味本位でその手を握り返した。
そして通路に出た。
その人もすぐに出てきた。
天使というより猿だった。
ニホンザルというよりはチンパンジー。
顎の骨格がしっかりしていた。
「よかったら、ちょっとお話ししたいなと思って」
だけど、見た目の雰囲気と違って、ちょっと高めの柔らかな声で、穏やかにしゃべる人だった。
蛍光灯の薄ぼんやりした通路で、ふたり、古いビニールソファに座った。
「僕は忠。君の名前は?」
「真文です」
「どんな字を書くの?」
「真実の真に、文学の文。忠さんは?」
「忠臣蔵の忠の一文字でタダシ。真文ってめずらしいけど綺麗な名前だね」
微笑むと顔中にシワがにょきにょきと現れて、さらにチンパンジーらしさが形成された。
「若いよね?」
「18です。高3」
「じゃあ、受験?」
「いや、日本の大学じゃなくて、イギリスのカレッジに行くことがもう決まっているんです」
クラスで最初に進路が決まった僕は呑気な夏休みを満喫中だった。
新宿二丁目に行ったり、ゲイポルノ映画館に行ったり、忙しかった『すかいら〜く』のバイトは辞め、こじんまりとした喫茶店で働いていたから、のんびりとタマゴサンドなんかを作りながら、それなりに充実した日々を送っていた。
「忠さんは、いくつですか?」
「いくつに見える?」
「28歳とか、29歳とか」
「うん、だいたいそんな感じだね。ところで、イギリスのどこへ行くの?」
うん、だいたいそんな感じだね。
いや、そこのところをはっきりしてくださいよ。
と、問い直すほどの力量は18歳の僕にはまだなかった。
やるせない気分で「ロンドン」とこたえた。
数年前、バブルに湧いた父の会社の社員旅行でスペインへ行った。
その体験が衝撃的で高校を卒業したら絶対にヨーロッパへ行きたいと思っていた。
だからロンドンへ行くんです。
…なんていう方向に会話は流れていって、ついに忠の年齢は、だいたい28歳か29歳な感じ、ということで、うん、一件落着、みたいな空気になってしまった。
住んでいる場所を言い合ったら、2駅しか違わないところに住んでいた。
「今度、遊びにおいでよ」
僕の心の中のモヤモヤも知らないで、忠は人の良さそうな顔で笑った。
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