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【短編】 剥がれ落ちる

砂利を踏みしめる革靴には、吐瀉物が点々と模様を点けている。

スーツの裾にも同じ様な模様が連なっている。だが靄がかかった彼の視界には足元など少しも映らなかった。ただただ眼前に広がる見覚えのあるぼんやりとした景色を辿っていくだけで手一杯だった。

半分ほど残っていたスポーツドリンクを一息に飲み干し、手から離した。砂利の上に転がったペットボトルはカランと音を立て、闇夜の静寂に迎え入れられた。

酒臭い酔っ払いに解放された喜びを静かに噛み締めているであろう。つい1時間前までそのペットボトルは彼自身だった。下らない上司の飲み会に付き合わされ、終電まで飲み続けることを強要されていた彼自身であった。

「俺の若い頃はなぁ」「お前はやる気あるのか?」とのたまい、「あぁ今の時代こういう事をいうとパワハラになるんだよな」と締めの一言までテンプレート通りの会話を、一軒目でも二軒目でも初老の男は基本に忠実にこなした。

なんの実りもない会話だった。いや話しているその男にとっては自分の人生を賭けて経験した、価値のある言葉達だった。何十年と積み重ねてきた生活から生み出された至極の格言ばかりを惜しみなく彼に与え続けていた。
目の前の部下 が、より良い人生を歩める様に、自分と同じ様に会社で出世できる様に。だが部下にとっては、助言は鬱陶しいし、ありがた迷惑だった。彼は会社で出世しようなどとは思っていなかった。志を持ってサラリーマンになった訳ではなかった。

彼には夢があった。

絵描きになりたかった。書類の散乱する会社のデスクではなく、自身のアトリエを仕事場にしたかった。

夢を追いかける為には少しばかり現実的になる必要があった。大学三年生の頃、比較的楽そうで、残業がない会社を選んで就職活動をした。毎日の仕事が終われば全ての時間を絵を描く事に当てるつもりだった。

入社後、彼は現実を知った。確かに仕事中は普通に過ごしていれば、一日が終わる頃でも疲弊している事はなかった。残業もほとんどなかった。

だが定時の6時を過ぎると、ほとんど毎日飲みに誘われた。独身者も既婚者もみな一様に「一杯だけ行くか」と同じ文句を口にした。そして一度店に入れば一杯だけで終わる事など早々なかった。

断る事も出来るが、仕事を円滑に、出来るだけ省力的にこなすには断る事は懸命な判断とは言えなかった。今夜は週末という事もあって「一杯だけ」が終電まで長引いたのだった。

ふらつく足取りでようやく家に辿り着いた。靴を脱ぎ、ジャケットをソファに脱ぎ捨てると狭い部屋の一角に向かった。

乱雑に散らばった絵筆を無造作に一つ拾い上げ、描きかけのキャンバスの前に腰を下ろした。ここが彼のアトリエだった。

目の前には下絵の状態の空と海が描かれている。まだ色は付いていない。一週間前から変わらないキャンバスを横目に生活していた彼は、いい加減今日こそは色を付け始めようと決意を固めていた。

さて、どうしたものか。ネクタイを緩め、キャンバスをじっと見つめた。まずは彩色のイメージを固めようと、絵の具が無造作に放り込まれている籠の中を見た。たくさんの色の中に絞り出された白のチューブが目に入った。

「白の絵の具がない」

どう考えても空に浮かぶ雲にも、海に立つ波にも、白は必要だった。ネクタイを外し、立ち上がった。すぐに彼は結論を出した。

しょうがない。今日は出来ない。明日は休みだ。明日やればいい。なんの予定も無いし一日中ずっと絵を描く事に当てられる。


そう俺は会社員じゃない。絵描きだ。画家だ。芸術家だ。

会社の評価なんて興味は無い。それは本当の俺の価値じゃない。自分にとって取るに足らない評価だ。自分の描いた絵を何千人という人間が見る時、それが本当の俺の価値が人前に出る瞬間だ。

シャワーを浴びながら、鏡の中の自分を見つめる。芸術家としての未来の成功に思いを馳せた。
展覧会を開けば著名な評論家やビジネスを持ちかけてくる人間が押し寄せ、六本木の高級クラブでは女達が群がり、VIPルームで酒池肉林の騒ぎを楽しむのだ。そんな生活の中に清楚で美しい妻となる人と南青山かどこか洒落たカフェで出会い、大きな一軒家を建て暮らすのだ。何不自由ない暮らしを想像した。鏡の中の顔がにやけてる事に気付き、慌てて目を閉じた。

大学を卒業してしばらくは、同年代の誰かが社会で活躍している姿を見ると、初めは悔しかった。見ると腹が立った。と同時にやる気も出た。負けるかという気持ちが内から湧き上がった。

だが今では悔しさを感じることはなかった。周りの友人達が出世していったり、起業したり、嬉々と仕事の話をしている最中には彼らを冷ややかな、見下した目で見ていた。「俺は社会的な成功なんて欲しくない。金が欲しいわけではない。芸術家として人々の感情を直接的に揺さぶりたいんだ。」

なんの結果も出していない自分に、いつの間にかまるで一端の芸術家の様な心持を刷り込んでしまっていた。


学生の頃は月に最低でも2枚は絵を完成させていた。描くのが単純に好きだった。思うがまま、自分の描きたいものを書いていた。

会社に入ってから2年経った今、描いた絵はたった三枚だった。一枚の絵に時間をかけている訳ではない。単純に絵に向かう時間が減っていた。昼間は働いているからという事もあるが、それだけではなかった。

次々と違うフィールドで成功していく友人達に対抗するため、芸術家としての成功を急ぐ必要があった。気負いが重くなればなるほどキャンバスに向かうのが苦痛になっていった。

彼の描く絵はどこまでも普通だった。技術に裏打ちされた技法を用いる訳でもなく、印象派の様に真新しい独自の世界観がある訳でもない。どこにも評価に値する要素が見受けられなかった。

古いスナックに掛かっている様な、ただただ空間を埋めるためだけの飾られている当たり障りの無い絵だった。

描けば描くほど、彼自身、結果が評価される様な絵ではないことは、徐々に気付いていった筈だった。

だが極度に肥大化した自尊心は出来るだけ彼に現実を見せない様に働いた。絵に向かう時間を減らし、才能の無さを彼に知られない様に懸命に働いた。その結果、ただのどこにでもいる凡人が、凡人のくせに一丁前のプライドをこれ見よがしに掲げる人間 が生まれてしまった。

彼は恐らく明日の昼まで眠りから覚めない。太陽が高く登ってから起き、描きかけの絵に向かおうとするだろう。

そこでふと、白の絵の具が無いことを思い出し、外出する準備を始めるだろう。外に出た彼は、休日の暖かな日差しを浴び、いい気分で画材屋に向かうだろう。

携帯を見ると友達からの飲みの誘いが来ている。彼は「休みの日ぐらい楽しく飲みたいな。」とでも考え、待ち合わせ場所を決め、それまで喫茶店で携帯をいじりながら時間を潰すだろう。

久しぶりの友人達と何度となく繰り返した手垢だらけの思い出話で、しこたまアルコールを飲む。締めにラーメンでも行こうと肩を組んで夜の街を歩き、終電の無くなった時間に千鳥足で家に帰る。

そして白の絵の具を買い忘れたことに気付くだろう。「明日こそ買いに行こう」そう決意し、ベッドに潜り込み次の昼まで眠るだろう。

次の日は二日酔いの身体をふらつかせ、創作意欲を刺激するという建前で映画にでも行くだろう。明くる日は仕事だ。また5日間の同じ日々の繰り返しが始まる。

彼が歩む道は緩やかに、だが確実に会社員としての人生に切り替わり、体に纏っていた夢は絵の具のように乾燥し、ヒビ割れ、身体から剥がれ落ちていく。

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