SNSやネットに思うこと

そんなにネットを見てない私でも、最近よく目にするのが、Jリーグクラブの「SNSなどネット上における誹謗中傷への対処について」のリリース。

このリリースを見るたびに、自分がサポーターをしてたり、関わってるチームではなくても、とても悲しい気持ちになる。

匿名だから、顔や本名が相手に分からないから、何を言ってもいいと思ってる人は、人として大きな何かが欠落してると思う。

もし自分が相手の立場ならどう思うのか、そんなの傷つくし悲しいに決まってる。

どうしてそんなことも想像できないんだろう。


私が選手だったら、人格や存在を否定するような言葉を自分に対して吐かれたら、そのチームから一刻も早く逃げ出したくなると思う。このエンブレムに誇りを持って…なんて、その状況下で正直思えるだろうか。

ひどい言葉を吐いた側は、勝敗というものがあるスポーツを利用してストレスのはけ口にして、一瞬で記憶から離れるかもしれないけど、その言葉を吐かれた側は、その先ずっと心の傷になって残ることも多い。


他競技の某チームのファンを親に持つ子が、スポーツに関するインタビューに答えてるのを見た時、「親も同じチームのファンなんですけど、〇〇(そのチームのライバル)のことだけは、どれだけ誹謗中傷してもいいと言われて育ちました」と言ってて唖然としたことがある。

その子の親世代は、私たちの世代に比べたら、子どもの頃からネットがあったわけじゃないはず。

でも、もし当時にネットが発達してれば、今問題になってる誹謗中傷の書き込みをするような人なんだろうなと私は思った。

今の時代になっていきなり人のことを誹謗中傷する人間が増えたんじゃなくて、たまたまネット時代に生きてるから、そういう人たちにとって都合がいい匿名性が高い場所に、誹謗中傷の場が移ってるんだろう。


SNSは便利かもしれないけど、怖い部分もある。どうしても、タイムラインには自分と似た考えの人や同じコミュニティにいる(いた)人の投稿が並びがち。

日本じゅうで見たらとても奇異な意見だったとしても、その本人が「あの選手は要らない」「あの選手なんか見たくもない」という意見だったら、同じような内容の投稿ばっかりがタイムラインに並ぶということも充分にありうる。

そしたら、まるで世間のほとんどが自分と同じ意見かのように錯覚したり、自分は正しいんだと勘違いしてしまう人も多い気がする。


そういう偏りは危険だと私は感じる。特に誰かへの批判や非難など、攻撃的な要素に関しては。


私はベルマーレや湘南地域など大好きなことを書き残していきたいと思ったから、noteを始めた。

だけど実は、どちらかと言うとネットは苦手だ。SNSも、チームの情報を得るために最低限見る程度。その分、新聞や本を読んだりする時間に宛ててる。本当はもっと本も読みたいなと思ってるけど…。


親の方針だったのか、携帯を持ち始めたのも周りより遅かったし、字を書いたり絵を描いたりして残すほうが好きな子どもだった私は、大人になってからも、電車内で視界に入る人ほとんど全員がスマホをいじってる様子を見ると、なんとなく宇宙人みたいだなーと思ってちょっと息苦しくなる。

今の時代はSNSなんかやってて当たり前だろうという空気感も、たまに窮屈になる。


ネットがどんなに好きでも、SNSがどんなに好きでも、それはその本人の自由なので、私がそういう人を見てどうこう思うことはない。きっと、私の世代の中では私みたいに、6年くらい前のスマホを、いろんな機能が怪しくなりながら、最低限の範囲でしか使ってない人のほうが少数派なのかもしれないし。


これは誹謗中傷とはまた話が違うけど、その写ってる本人の許可も取らずに勝手にSNSにその人が特定される写真を載せてる人がいたり、そうされた写真をきっかけにストーカー被害に遭ってしまった人の話も聞いたことがある。

小さい時から当たり前のようにネットがある、それは情報を早く得られるという意味では恵まれた世代なのかもしれない。でも、ネット上でのマナーや、他の人への配慮は置き去りになってるなと感じることが、そのことも含めて何度かあった。


あと、話が少しそれたついでに書くと、私がSNSにはハマりたくないなとすごく思ったきっかけは、コロナ禍前に他県に住む知り合いと久しぶりに会えた時に、その知り合いが私と会ってる間もずっとスマホ片手にSNSをチェックしてたというのもある。

その知り合いにとって、私はそこまで大事な存在ではなかったのかもしれないし、その知り合いの価値観では、久しぶりに会う知り合いよりもSNSのほうが大事なのかもしれないから、そこは何とも言えないけど、その時しか顔を見られない人、頻繁に会って話せるわけではない人との会話よりも、いつでも見られるSNSやその場にいない人との連絡のためにスマホを常に見るのを優先するんだなあと悲しかった。

どの選手がSNSでどんな投稿してるかとかそんな話よりも、私はお互いの近況などその知り合いとしかできない話をしたかったし、何をするにもスマホありきの世代に私も生きてるのかなと、少し怖くもなった。


いくら私がネットに重きを置いてなくても、何かの手続きなどネットを使わざるをえない場面もあるし、サッカーなどスポーツ関係の趣味に関して言えば、試合中継や試合ハイライトなどの面でも恩恵を被ってるから、そこにはありがとうと思わないといけないなと思う。

遠方サポは行ける試合のほうが圧倒的に少ない。だから必然的に、日頃試合を見る手段は現地よりDAZNになる。

ベルマーレの試合映像を見れることなんてほとんどなかった子どもの頃を思うと、そこに関してはなんと幸せかと、それが当たり前になっちゃいけないといつも思ってる。


小さい頃、遠くのチームのサポーターをしてると、本当に情報なんて何も入ってこない。

私はその頃、週末に、当時親の仕事の関係で住んでた町の大型スーパーに行って、親が違うコーナーを見てる時に「本屋さん行ってくるね!」と、サッカーマガジンやサッカーダイジェストなど読むのが何よりの支えであり楽しみだった。その本を見てる時間が、当時の私には唯一ベルマーレとつながっていられる時間だった気がする(図書館で神奈川県の地図見てる時もそうだったかも)。

漢字も選手の名前やJリーグクラブの本拠地で覚えたし、言葉の表現などこういう言い方もあるんだなと、雑誌とはいえ本を読むことで語彙も増えたと思う。


当時のベルマーレの選手の顔や名前、背番号や試合にまつわるエピソードはたくさん覚えてる。でも、今のように知ろうと思えばその選手のいろんなことをネットを通して知れるほどには、身近なところにベルマーレは決してなかった。


それでも、あの頃の私のベルマーレへの好きという気持ちの純度の高さは本当に透明に近かったと思う。だからこそ、当時一番応援してた選手が、湘南のまちで向こうから声をかけてきてくれた時は飛び上がりたいほど嬉しかったし、転校先の慣れない環境で過ごす私にとって、いつでも心のよりどころになる特別な思い出だった。


ある日緊張しながら、当時のベルマーレの選手に一生懸命一通の手紙を書いた。

ドキドキしてその手紙を出しに行ったポストは、当時の私にとってはいつもの道の途中にある見慣れたポストだったのに、その日だけは特別なもののような感じがした。

指一本でいいねを送れる今は、選手とサポーターの距離が昔より近いと感じる人もいるかもしれない。だけど、ネットだけで全てが完結する世の中なら、あの感動は得られないだろう。

当時はJリーグ人気もすごかったし、その選手が手紙を読んでくれたかは分からないけど、子どもの時にそういう思い出があることに、私は今でも感謝してる。

ベルマーレの選手に手紙を書いたことなんて人生の中でもそうそうないからこそ、今でもキラキラ光る思い出なのかなあ。


今は、簡単に何でも苦労なく情報が入ってくる。一般人も含めて誰もが自分が発信する側にも立てる。子どもの時、いかにベルマーレの情報を得るか考え抜いてた私にとっては、もしかしたら今はとてもありがたい日々に身を置いてるのかもしれないとも思う。

だけど、一つ一つの情報を得るために多くの労力が要るからこそ、その一つ一つは本当に宝物だったし、心から好きなこと(もの)のためには人間は努力や工夫を惜しまないとも感じる。

比較的早くからネットを自由に使える環境にいた知り合いにとっては、転校先での子どもの頃の私の生活は爆笑ものらしい。

でも、私はそういう経験をしてて良かったなとも今思う。


一試合ずつを映像も含めて見れる幸せ。

チームの情報を得られるというありがたみ。

そういう当たり前になりつつあることに、改めて立ち返って感謝してみたら、文句や批判なんてそうそう出てこないんじゃないのかな。


今の時代は、良くも悪くも情報が素早く自分の目の前を行き来しすぎなのかもしれない。

そして、文明の発達によって便利さに浸かって苦労なく待つことなく欲しいものが手に入りやすくなって、責任感も薄れつつある世の中で、喜怒哀楽…特に怒りを我慢できない人が増えてきたように私には感じられる。


大好きなチームが負ける。それはスポーツを見ていれば起こりうることだ。常勝チームを応援してない限り、まあまあの頻度でそれはやってくる。

それはもちろん悔しい。ただ、どんなにそのチームを大好きでいても、もし仮にその試合で見てすぐに分かるようなミスをしてしまった選手がいたとしても、そのチームを好きだからといって、ファンやサポーター全員が誹謗中傷するかというと決してそうではなく、多くの人たちはどんなに悔しくても負けたことを受け入れるし、もしどうしようもないモヤモヤがあったとしても、誹謗中傷などではなく他の方法で消化すると思う。


本当にそのチームを愛してるなら、選手たちを大切に思うなら、誹謗中傷など傷つけることなんかできないはずだから。

必死すぎて、または怒りを抑えきれない特徴がある人が、自分がしようとしてる行動を第三者的な視点で見れないか、実際にはファンやサポーターではない人が日頃のストレスの腹いせに怒りを理不尽にぶつけてるのか、誹謗中傷はどっちかの場合が多い気がする。

もし、嫌いだからといって特定のチームや選手に誹謗中傷する人がいるなら、嫌いならそのチームや選手を見る必要も関わる必要もないと言いたい。

嫌いだから何をしてもいいというのは、理由にも免罪符にもならない。


私はいつも小さい手帳に短く日記を書いてる。

ある時サッカーのことを書こうとして、試合内容でうろ覚えの部分があったので確認しようと、ネットでその試合について改めて調べようとした時、検索後すぐ下にあったサイトを間違ってクリックしてしまったら、その試合で失点につながるミスをしてしまった選手が、とてもここには書けないような言葉で罵られて責められてる文章を見かけた。


おそらく専門家が見たとしても、どれもが誹謗中傷にあたる内容だったと思う。それでも、「みんなも書いてるから」「だってミスしたのは事実でしょ」と書き込んでしまう。それは軽い気持ちでしたことだとしても、世間的には著しく重いことだと私は思う。


とある機会があって、私が大好きな選手に応援や感謝のコメントを送った時、幸運にもたまたまお礼の返事コメントをいただけて、電子文字とはいえその言葉には温かさを感じたし、ネットが決して好きではない私も正直とても嬉しかった。


だけど、ネットが生活にごく普通にある今の時代を生きてるからこそ、何でもありではなく、相手の立場に立つことや、自分がされて嫌なことはしないこと、選手は決してゲーム内のデジタルのキャラクターではなく心を持つ私たちと同じ人間であるということ、勝ち負けも含めて思い通りにならない時もあるからこそ、人は目標の達成に向けて努力して工夫して成長することができること、それはどんなに時代が進んでも忘れたらいけない。


便利なものも、いい方向に使う人もいれば、人を傷つける凶器として使う人もいる。

ネットやSNSそのものが悪というんではなく、使う人のマナーやモラルや配慮の問題なんだとも思う。


私はこれからも、チームの公式情報を得るためにはSNSを(やむなく)使うけど、自分からそれ以外の情報を得にいくようなことはしないかなあ。


今時珍しくても、変わってても、それが私のSNSやネットとの距離感だから。

便利な(便利すぎる)時代に生きながらも、私は時々心の中の小さい私を思い出す。

誹謗中傷なんかしてる人たちも、初めてサッカーと出会った時の感動や、初めてスタジアムで試合を見た時の感激など思い出してほしい。

誰もが初めから悪人だったわけではないはずだから。

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