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籠の中の生活


最近、幼稚園児なのか保育園児なのかはわかりませんが、とにかくスモッグを羽織って赤や黄色の帽子を被った豆粒みたいな子どもたちが、先生に連れられて散歩に出かけている光景を見ることがあります。

春ですね。

しかし子どもたちは、歩いているのではなく、車輪のついた籠の中に入って、先生らが籠を押しているのです。それを果たして散歩というのかどうかは置いておいて、イメージとしては体育館でバスケットボールやバレーボールが入っている籠に、子どもたちが入っているのです。

可愛いですよね。ひよこが狭い場所でおしくらまんじゅうをしている映像を見ているような、癒しの可愛さがあります。
満員電車は怒りしかありませんが、満員幼稚園児電車なら少し許せそうです。

僕以外にも、幼稚園児籠を微笑ましげに見ている人はたくさんいます。

僕は今年23を迎える人間で、幼い頃は幼稚園に通っていたのですが、僕の記憶では、あんな籠に入って散歩をしたことはありません。まぁそもそも散歩をした記憶すらないので何の証拠にもならないんですけど、ともかく僕が言いたいのは、あんなものありましたっけ? 
確かに、言うことがわからない、言うことを聞かない、そしてどこかへ飛び出して何かにぶつかろうものならあっという間に昇天してしまう幼児たちを一括管理するには、一列に並べて散歩をする方法には無理があります。先生方の極度の緊張と疲労が伺えます。


しかしなんというか、小中高と、学校という狭い籠に入ってそこで従順に過ごし、大学で籠から出ようともがいて、結果再び会社という籠に閉じ込められて大人しく日々を過ごしている僕には、こんな歳の頃から籠に縛られた生活を送らされているのか、と哀れに感じる一瞬があります。

確かに籠の中は快適で、喋っている子もいれば、縁にもたれて爆睡をしている可愛らしい子もいますが、籠は公園という目的地、あるいは幼稚園保育園という目的地にしか進みません。前にしか行きません。後ろへ行ったり、虫を追ったり、知らない人に激突したりはできません。それはある意味では危険ですが、ある意味では自由です。

自由の定義なんてことは知りません。ただ、仕事場へと電車で向かい、嫌なことの蓄積を堪えながら仕事をこなし、家へと帰る。決められた1日を作られている自分を投影すると、自由と危険への憧れが育つのです。

せめて幼稚園児くらい自由に暴れて欲しいという願望でもあったのでしょうか。
彼ら彼女らも立派な現代人として、社会という籠の中で生活している事実があって、勝手に落胆しているのです。

馬鹿みたいな話ですね。

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