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第六章「問答」 小説『サークルアンドエコー』

 とある日の部活帰り。私はキャプテンなので、居残って先生と練習方法や今後の大会について打ち合わせをしていた。結局ここで話したことはそのまま雨ちゃんに伝わり、雨ちゃんが影キャプテンとして躍動するわけで、この居残りがとんだ時間の無駄であることを先生は知らない。
 屋根つきグランドから出た時には既に日が落ちていた。先に帰るよう伝えていたので雨ちゃんたちはいない。
暗くモヤモヤした夜闇を一人で帰る。学校の外にはひたすら背の高いトウモロコシが並び続けていて、その中を歩いているとまるで壁に囲まれているような気分になる。
 そんな恐ろしく寂しい暗がりだったからなのかもしれない。私は小道から外れたトウモロコシ畑の中にエリーが立っているのを視界の端で捉えた。この闇の世界でただ一人彼女だけが光っている。絡み合うトウモロコシの葉の裂け目から彼女の白い肌が溢れ出しているのだ。私は迷わず生い茂るトウモロコシたちの中をかき分けてエリーに会いにいった。
 エリーは空を見上げていた。汚い空だ。淀んでいて、靄のようなものが覆いつくしている。時々光る点が見えるのは飛行機か宇宙船からの光で、取り立てて見るようなものではない。それなのにエリーはずっと空を眺めていた。
「エリーちゃん?」
 私が声をかけると、ゆっくりとエリーの首が――冬音の言う通りロボットみたいに――カクカクと傾いて私のことを見た。私を認知すると美しい顔はあからさまに歪み、時間を無駄にしたとばかりに今度は素早くつまらない夜空の方に首を戻した。
 学校と部活に全力を注ぎこんでいたその日の私はとても疲れていた。普段ならここで勝手に抱き着いたりしてダル絡みを発動させるのだが、そんな気力はなかった。私もエリーの視線を追うように滅多に見ない夜空を見上げて静かに聞いた。
「何を見てるの?」
 静かな私に驚いたのだろう。私の素の質問にエリーは反射的に普通に答えた。当然私も普段みたいに変な企みや欲を持って尋ねたわけではないから、エリーが喋ってくれたと歓喜に包まれることはない。無意識に、ただ何となく会話をすることができた。
「星」
「見えないよ」
「空気が汚いからよ。その向こうに星はある」
「でも見えない」
「ええ。だからこそ見つめるの。怒りを風化させずに済む」
「?」
 私の混乱を感じ取って、エリーはほんの僅かに口角を上げたような気がした。
「昔は地球からも星がよく見えたらしいわ」
「今見えるのは太陽だけ」
「そうね」
「……そうだ、火星からは星が見えるんじゃない?」
 エリーはピクリと体を動かした。
「見えるわ。綺麗な星が」
「いいよねぇ、火星にいける金持ちたちは」
「……今だけよ」
「今だけ?」
「地球だってそうだったんだもの。火星だってそうなるわ。火星でだって、人々は快適な暮らしを望むでしょう」
「進歩じゃないの?」
「そう思えてしまうから怖いの」
 エリーは突然私をまじまじと見つめた。こうなることを望んでいたのに、いざそうされると照れる。私は硬直した。
「私たちだって同じ」
 普段の立場が逆転した気分だ。エリーが私のことをかまっている。
「環菜さん……だっけ?」
「う、うん」
「あなたの夢は何?」
「えっ、私の夢? ……最後の大会で優勝すること」
「その後は?」
 エリーは段々と気性が荒くなっている気がした。雨風が段々と強くなって嵐になるみたい。一歩ずつ私に近づいてくる。
「その後は?」
「大学……受験?」
「その後」
「外国とかいってみたいかも」
「その後」
「ええっと、あの、就職?」
「結婚は?」
「結婚もしたいかな。私、子ども意外と好きだし」
「その後」
「ううん、そんな先のことわからないよ」
「その後」
「の、のんびりとした隠居生活をしようかな」
「その後」
「えっと……」
 私は返答に窮した。肩を震わせたエリーは今や私の目と鼻の先にいて……言葉に詰まった私の頬を激しく両手で握りつぶした。
「死ぬのよ!」
 エリーの瞳は充血していた。声量はそれほどでもなかったが、声には計り知れない痛みがあった。エリーの震えが私の頬から全身に伝わってきて、私の体もガクガクと小刻みに震えだした。
「あなたは死ぬの!」
「そんな先のこと……」
「さっきあなたは結婚したいと言っていたでしょ。子どもが好きって言っていたでしょ。あなたに子どもができて、無事に成長していったとするわ。成長して言葉が喋れるようになって、学校にいって、部活をやって、受験をして、就職して、結婚して、子どもができて、退職してね、死ぬの。あなたの子どもは死ぬのよ!」
 私は泣いた。泣いたというより、得体の知れない恐怖が私を取り巻いて涙が仕方なしに出てきたと言った方がいいのかもしれない。エリーが私の顔から手を離し、すると私の体は力なく地面にしおれた。手足には今までにないくらいの量の鳥肌が溢れていた。私は泣いた。繰り返しになるけれど、悲しくて泣いたわけじゃない。痛くて、おぞましくて、言葉にできなくて、不可避な黒い大きなものに喉を締め付けられ、体を押しつぶされ、はちきれそうで……だから泣くしかなかった。
 将来の夢を聞かれても別になんとも思わなかった。そもそも人は死ぬ存在だし、そんなことは知っていた。
 私は泣いていたから、泣いている私を見るエリーの表情はわからなかった。けれども多分、いつもみたいな見下した瞳はしていなかったと思う。泣く前に見た彼女の全ては血だらけで、私以上に泣いた涙の軌跡が体のいたるところに刻まれていたから。むしろエリーは嬉しくて笑っていたんじゃないかと思ったり。……どうだろう。

 私たち二人の物語が本当の意味で始まった瞬間だった。私が泣き止む頃には彼女の姿はなく、私は汚れたユニフォームを着ていて、乾いた汗と涙が顔に張りついている高校生のままだった。けれど雲の流れがいつもより速く感じた他、腕時計からはデジタルなのに針の音が聞こえる気がしたり、地球は丸いんだな、と今更になって思ったり、不思議な感覚には包まれていた。



















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