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第七章「侵食」 小説『サークルアンドエコー』

 あの日を境に、エリーが私に喋りかけてくれることが増えた。私のエネルギーを彼女が吸い取って、私が少し落ち着いて、エリーが少し活発になった気がする。二人の関係性の均衡がとれていた。それまでうまくいかなかったのは、私の空元気が原因だったということだろう。これが二人にとって正解のバランスだった。
「環菜さん、おはよう」
「環菜ちゃん、おはよう」
「環ちゃん、おはよう」
 段々と呼び名も変化を遂げ、ついには他の人には呼ばれたこともないエリー独自のあだ名で呼ばれるようになった。
 嬉しかった。放課にはわざと気づかないフリをしてエリーの前を通り、呼びかけられる喜びを得たりした。
 ただ、飛び跳ねるような嬉しさではなかった。あの日以前の私なら、エリーに声をかけられたら大声を上げて喜びの舞を披露しただろう、間違いなく。けれどあの日があったから、あの言葉があったからか……わからないけれど、喜びが静かに心に広がるのを私は感じていた。水面に一滴の雫が滴り、波紋を広げていくような、張り詰めた感覚。静かではあるが、小さくはない。大きいが、激しくはない。授業や部活で絡む人たちが「動」だとしたら、エリーとのふれあいは「静」だ。まるっきり新しい幸福。快感ですらある。
「おはよう」
 エリーのたった一言が綺麗だった。それでもって、影響力があった。
「次は体育の授業だよ」
「体育の授業なんて無駄よ。わかるでしょ」
 そう言われると、そんなような気がしてくる。
「環ちゃん、友達たくさんいるね」
「そんなことないよぉ」
「必要? その友達」
 私は振り払うように頭を振った。ちょうどのっそりとしたボールが見えたので、私は力任せにバットを振った。
「また環菜ちゃんがホームラン打ったぁ」
「こらぁ、上野ぉ!」
「げ」
 これでいい。私はソフトボール部のキャプテンで、天真爛漫、元気溌剌の高校生。皆を笑わせて、私も思いっきり笑えばいい。その騒がしい高校ライフの狭間に、エリーとの会話がある。穏やかで、どこが心臓に冷や汗が流れるような涼しい時間。いいスパイスになる。それでいい。それ以上はダメだ。
 私が抱いた始めての静かな喜びは、やはり少なからず恐れが染み込んでいた。今ならわかる。一種確立された私の学生生活。それが侵食される恐怖に、侵食される喜びがのしかかっていた。

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