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短編小説『怒りの旅』

 母に怒られた。
 僕は家を飛び出した。
はたしてそれが、怒ってなのか悲しんでなのかは不明だが、少なくとも尻尾か背中に火がついたことで引き起こされたことであるのは確かだった。

 家を飛び出た瞬間に、隣の家が大噴火した。爆炎と共に屋根が吹き飛び、マグマが無様に飛び散った。高々と噴き上がる黒煙は僕の頭上を卑しく覆ったが、僕はまだ足りないと思った。流れ出たマグマが足を焦がして白骨化させても、僕はまだ足りないと思った。
 次々と噴火する家々を横目に歩いていると、段々と手が貧乏ゆすりでもするみたいに小刻みに震えだした。一瞬止めようかとも思ったが、好きにさせておいた。きっとこの震える腕は、あまりにも震えすぎて腕から抜け出し、そこら辺に落ちている包丁を握って人間を刺し殺してくれるだろうと思ったからだ。多分、ぐさりと心臓を一突きする。包丁の柄が心臓に届くくらいに深々と差し込み、刺された相手は鈍い咳と共に血の塊を口から吐き出し、「そんな馬鹿な!」とでも言いたげな瞳で僕の手を見つめるのだろう。
もちろんそんなことが実際に起きるわけがないし、起こしてはいけないのだと僕の理性は口を酸っぱくさせて言ってくる。この瞬間でありながらも! 人を殺したら警察に捕まるし、殺したという自責に死ぬまでかられることになる。あぁ、どうしてこの大渦の中ですら僕は未来のことを考えてしまうのだろう。その先なんてどうでもいいじゃないか。今望んでいる破滅は、偽物だとでもいうのか。
 そうして体中に溜まった熱は飽和する。熱は体の表面だけを地面に残し、残りの部位を上へ上へと引っ張り出した。まるで魂が体から抜かれているよう。激しい痺れと困惑のままに、いわゆる譫妄状態というやつで、僕は地面に立ち尽くす自分を上から見下ろした。足は地面から離れ、頭の後ろの方がとても痛い。
 ここがピークだ。今しかない。手首から手が外れ、どこかに落ちている包丁を握ってくれ、頼む、お願いだ、やっちまえ。
だがしばらくして、足の裏に土の感触が戻ってきてしまうのだった。

 残念ながら近隣住宅の噴火活動も急激に弱まり、内の熱は冷めていった。しかし、内の熱が冷めていく代わりに今度は外の熱が強さを増した。
自分の頬が桃色に染まり、胸がすくみ上るのを感じた。
焼け焦げた家の残骸の陰から、誰かが姿を見せないように巧みに動き回りながら僕に向かってレーザーポインターを照射してくる。目にちらついたり肌を右往左往したりするその緑の閃光は、集中力を奪う本来の目的こそ果たさなかったものの、僕に大いなる恥を小刻みに、しかし深々と与えてくるのだ。
 その見えない軍団に向かって僕は両手を上げて抗議する。
「僕じゃないんだ、僕じゃないんだよ!」
 必死の弁解も、それ自体が恥の上塗りになっていることに僕は気がつかない。
 レーザーポインターが照射されなくなった後も(もしかしたら最初からそんなもの存在していなかったのかもしれないが)、僕は緑の光線に怯え続けた。

 それでも数分歩いていると、錆びれた噴水がある通りに出ていた。小さな町の小さな噴水で、構成成分である石は年をとって弱弱しく見えたし、湧き上がる水は淀んで見えた。だが、眼前で噴き上げられた水しぶきが、沈む準備をしている夕日に照らされて輝きながら空に舞うその光景は、規模に関係なく僕の瞳には神聖に映った。
 小さく続いていた腕の震えは収まり、定期的に訪れていた熱による体の悪い高揚と頭痛も大人しく身を引いた。
 夢から覚めたようなフワフワとしただるさが全身を覆っており、熱い汗が染み込んだシャツに風が吹いて肌寒さを感じた。
 商店街ではそろそろ店を閉めようと動く人たちが多くいた。彼らは僕が歩いてくることに気がつくと、何気ない笑顔で優しく僕の頭を撫でて回った。
「おや坊主、一人かい?」
「残念だけど、今日はもう店じまいなんだ」
 初めのうちは彼らの口や目から緑の光線や鋭利な棘が不意に飛び出てくるかも、という恐怖に身構えたが、彼らはいつもの通り、僕の内面など一切気にかけずに陽気に振舞ってくれた。そのよそよそしいコミュニケーションに嫌気がさしたのはもっとずっと後の話で、今はその表層に浮かぶ笑顔が僕の心を和ませた。
「ご両親によろしくね」
「早く帰った方がいい。今日は冷えるぞ」
 僕は彼らの助言を素直な気持ちで受け止め頷いてみせたが、まだ家に帰る気はなかった。冷静に家に嫌悪を抱いていたからだ。商店街を抜けると、生い茂った草の中に簡素に置かれた小屋が見えた。そこは武術教室と呼ばれている。なんとかという流派を極めたなんとかという凄い人がそのなんとかという流派を後世に残すためになんとか頑張って開いた教室らしい。
 ちょうど今、外で三人の生徒が真剣に武術を学んでおり、なんとかという先生はそれを険しい目線で監督していた。黙って僕がそれを見ていると、先生が生徒を横一列に並べ、説教を垂れ始めた。垂れ始めたなどという表現を僕がしたのは大目に見て欲しい。先生は武術の正当な伝播のために尽力を尽くし、愛のある叱責をしていただけだ。それでもその時の僕は、別に大したとりえもないようなありふれた外見の先生に怒鳴られる三人の生徒たちを気の毒に思ったし、まるで自分もそこに並んでいるかのような緊張感と憎悪が滲み出てきて、再び熱に満ちた殺意が体の芯で生じていたのだ。
 うるさくて、気色悪くて、身勝手で、嫌味まみれの説教は三十分続いた。先生は全く困った奴らだといった表情で怒鳴り、あるいはため息をつき(その表情は嘘であり、本当は抵抗できない生徒たちを怒鳴り散らすことにただ快感を覚えているだけだと僕はわかっていた)、ようやっとボロボロの小屋に帰りかけた。
 怒鳴られた三人のうちの一人は、先生が帰ろうと背を向けた後も黙ったまま下を向き、両手を後ろで組んでじっと黙っていた。彼は恐らく優秀な生徒になるだろう(一番にはなれないだろうが)。
 しかし困ったことに、別の一人が、説教中は皆と同様に大人しく俯いていたのだが、今更になって怒鳴られるがままになっていたことにプライドが傷づけられたのだろうか、遠ざかった先生の後ろ姿に舌打ちをかました。
 収まりかけていた先生の額の亀裂が爆裂した。およそ老体とは思えない身のこなしで振り向くと、舌打ちした生徒に詰め寄り、挑発的な怒声を血走った目で吐き出した。一度舌打ちをした以上、ここで引くような愚かなことはできないわけで、舌打ちした生徒は怒鳴り返した。飛沫が相互に飛び交い、世紀の舌戦の火蓋が切って落とされた。
 最初の一人は内心では諸々の文句を抱えながらも、頑張って黙ったまま怒鳴り合いを耐え忍んだ。一方、三人のうちの最後の一人は、わなわなと震えていた。それはまるで先ほどの僕の手首のように、殺意に揉まれ、しかし理性に縛られていて苦しそうだった。僕は果てしない共感を彼に抱いた。彼が二人を殴り倒そうとしていて、しかし殴り倒すことができない歯がゆさを持っていることが自分のことのように理解できた。だから、彼がその場から逃げ出した時はとても嬉しかった。草むらを壊れたおもちゃのように駆ける彼を、僕は必死で追った。
 彼は暫くやけくそになって走っていたが、やがて僕がついてきていることに気がついて足を止めた。
「どうした、坊や」
「どうして逃げ出したの?」
 彼は僕に優しく接したが、僕のその言葉で怒りを取り戻した。
「そんなもの、イライラするからさ! イライラするからだよ! あいつは自分の想像と違うことがあったら怒ればいいと思ってる。ふざけるな! そうやってストレスを発散しているだけだろ。例え正しい指摘だとしても、あんな態度で怒鳴り散らされたら、聞くべき注意も聞く気がなくなるってもんだ。人のために怒っているフリをするのが気に食わない。それにあいつ! 舌打ちをしやがった! 抵抗する気なら最初から正面きって堂々と歯向かえよ! 何先生が後ろを向いた瞬間にこそこそと反抗するんだ。情けない! 後であいつは、自分は言い返してやったって自慢するんだ。あいつが一番のゴミ野郎だ!」
「わかるよ。その気持ちよくわかる!」
 僕は叫び、彼は驚いた。
 僕らは互いの苛立ちを報告し合いながら仲良く道を歩いた。僕と彼には同じ気持ちが確実にあり、そのことがどれだけ僕を安心させたかは言葉ではとても言い表せない。
 ただ僕と彼で違ったのは、彼は僕よりも七歳年上で、現時点における自分の行動の終着点を既に決めている点だった(最も、この出来事が僕にそれを教えてくれることになるのだが)。
 風で揺られるススキ群が太陽の没落を葉のこすれ合う音で教えてくれたあたりで、彼は歩みを止めた。どうしたの、と僕が尋ねると、彼は唇を尖らせて、さも苦いお茶でも飲んだかのように渋い顔で答えた。
「そろそろ帰らないと。先生の所へ」
 僕は仰天した。てっきりこのまま歩き続けて、都市伝説に出てくる幻想的な近代都市にでもいくと思っていたのだ。まさか戻るだなんて!
「君もそうした方がいいよ。もう夜だから」
「う……うん」
「じゃ」
 彼は踵を返してあのみすぼらしい小屋に帰っていった。
 僕はどうしたらいいのかわからなくなった。何故なら、僕はどこにその近代都市があるのか知らないからだ。
 そう思考している間に結構進んだようで、僕は分かれ道にきていた。左の道はUターンして家に帰る道だ。右の道は町に出る道だ。
 しかしそこで驚きの光景が目に入った。
 右の道の頭上だけを暗雲が覆い、雷と雨を滝のように落とし続けていたのだ。
 僕は左の道を進んだ。
 外はすっかり夜で、家の中から光が漏れていなければ、僕は最短の歩数で帰ることなどできていなかっただろう。そして僕は敏感に周囲を察知していた。家を出る時には気づかなかった、木々のざわめきの恐怖、冷たい風のおぞましさ、そして家から溢れるランプの光の温もりを。
 ドアを開けると、母が両手を腰に据えて仁王立ちしていた。間違いなく怒っている。
「私がどうして怒っているかわかる?」
 僕は頷いた。
「うん。僕が部屋の掃除をいつまでたってもやらなかったから。ごめんなさい」
「もう違うわよ、バカ息子」
 そうして母は僕を少々強すぎる力で抱きしめた。
 この時僕はわかった。怒りは旅のようなものであると。

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