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第十六章「決別」 小説『サークルアンドエコー』

 エリーと暮らす一週間はあっという間に過ぎ、いよいよ計画の実行が明日に迫っていたその日、私は実家に忘れ物をしていることを思い出した。
「何を忘れたの?」
「空き缶よ。この間古着屋で買った」
 どうしてあれほど大事なものを忘れてしまったのだろう。あの空き缶は、地獄のような私の部屋で今も白色の魔物たちと一人で戦っているのだ。そう考えると、救出したくてたまらなくなった。
「家に取りに帰るの?」
 私は頷いた。エリーは私を止めたそうにモゾモゾと体を動かしたが、何も言わずに頷いた。
「すぐ帰ってきて」
「わかってる」
 私はエリーの手を握って自分の決断の重さをわからせた。そうして、私は約一週間ぶりに自らの家に戻ったのだった。
 土曜日の昼は、両親ともに仕事だった記憶があった。だから、家に帰り空き缶を取ってくることなど造作もないことだと高を括っていた。しかし冷静に考えれば、一週間も子どもが家に帰らなくなって心配しない親はいない。仕事を休んで帰りをじっと待っている、というパターンも十分に考慮しておくべきだった。
 家のドアをひっそり開けるや否や、お母さんが飛び出してきて私を抱きしめ、お父さんが怒りと安堵の狭間の表情で後ろから出てきた。
「環菜! どこにいっていたんだ」
「心配したのよ」
 お母さんは私の足元で泣き崩れた。
「いろんなところを探し回って――」
「会社も休んで――」
「絶対に戻ってくるって信じて――」
 私は一言も発しなかった。二人が嫌いなわけでは毛頭ない。ただ、私は二人の愛と信頼を裏切っているのだ。一言でも発せば、私だけではなく、二人にも未練が残る。悪者の勝手な理論だとは思う。けれど、私は例え肉親が泣いて引き留めたとしても、「一般の生活」で一生を終えたくない。そんなつまらない円から離れられるならば、いい。
 お母さんの手を振り払って、父の制止の声を無視して、私は自分の部屋へと向かった。
 ベットの傍らに、孤軍奮闘している空き缶がいた。私は心の底から安堵した。他の品々には目もくれず、空き缶を取るとすぐに玄関へ。私には悩みがあって部屋に閉じこもろうとしている、いじめか、何か危ない事件に巻き込まれたのでは、と話し合っていた両親は油断していて、すぐに私が二階から降りてきたことに対応できなかった。
「環菜……!」
 後ろの方で呼び止める声が聞こえる。けれど、とてつもなく後方から微かに聞こえるだけで、私の足を止める効果は果たさなかった。
 家から飛び出して数十秒走っていると、私の腕を誰かが握って動きを止めた。
 振り返ると、雨ちゃんが肩で息をしながら私のことを見つめていた。その後ろには冬音もいる。私の腕を握っていたのは、雨ちゃんだった。
「環菜ちゃん、一週間練習もこなくて、連絡すらなくて……どうして? 明日は決勝なんだよ」
 私は何も言わなかった。雨ちゃんの頬には涙が一滴、二滴。
「決勝だよ! 私たちは三年間、このために頑張ってきたじゃん。辛い時も、悩んだ時もあったけど、乗り越えてここまでやってきた。どうしてこんな最後の最後に……そんなことするの?」
 私は何も言わなかった。雨ちゃんは私の腕を揺すった。
「なんで何も言ってくれないの? 私たち最高のバッテリーだね、って環菜ちゃん私に言ったよ。最高の友達だって言ったよ。何でも話せる友達だって、言ってくれたよね!」
 雨ちゃんはむせび泣いた。涙がとめどなくあふれ出し、何度もしゃくり上げる。
私は何も言わなかった。冬音が見かねて厳しい声を響かせる。
「あの女でしょ。エリーだ。あいつが環菜をおかしくさせたんでしょ?」
 私は何も言わないよう自制した。
「あんなクソ女に影響されないでよ。悪魔に憑りつかれた馬鹿女に……」
「エリーのことを悪く言わないで!」
私は堪えきれずに叫んでしまった。やっぱり、と冬音は冷めた目つきで唇の片側を上げた。
「私たちを裏切って、あの女の言いなりになるんだ」
「違う」
「そんなにエリーが好き? 私たちみたいに泥臭い女と違ってあの子は綺麗だもんね」
「そういうつもりじゃない。理解できないかもしれないけど、他に理由があるの――」
「いいや、ないね」
 埒が明かない。怒りと言い訳が全身を熱く駆け巡っていたが、今からその全てを説明してこの二人を理解させることなんてできない。
 静かな冷気の如く私に押し寄せたのは、単純な答えだった。
 この二人は、もういいや。
 私はしがみつく雨ちゃんの手を乱暴に払いのけようとした。しかし雨ちゃんは泣いているわりに頑固に私を掴んで離さなかった。
「明日、決勝戦だよ――お願いだからきて。一緒に戦おうよ――私と一緒に」
 私はもっと乱暴に雨ちゃんの手を引き剥がそうとした。絡みつく指を一本ずつ折ってしまうかの勢いで取り外していき、最後の一本の指が外れた時、私は雨ちゃんを乱暴に押し倒していた。雨ちゃんは悲鳴を上げてその場にしりもちをつき、その次の瞬間には、私は冬音に凄い勢いでビンタをされていた。
「最低だよ」
 頬がピリピリと痛むのを感じた。多分、殴られるより痛い。
 冬音はもう一度言った。
「あんた、最低だよ」
 私は踵を返してエリーの家へと向かった。両親の声が遥か後方で聞こえたように、二人の気配が最後に微かに聞こえた。
「戻ってきて環菜ちゃん!」
「おい、逃げるのかよ環菜!」
 雨ちゃんが泣きながら懇願する声。冬音が悔しさと怒りで悪態をつく声。

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