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第八章「迷走」 小説『サークルアンドエコー』

 私たち三年生にとっての最後の大会が始まった。私たちは一丸となって努力に努力を重ねて練習した。いい手ごたえはあったし、先生も創立史上一番のチームだと毎日のように言ってくれた。私と雨ちゃんの相性も最高。外野には頼もしい冬音もいる。緊張より期待が大きかった。
 下馬評通り、私たちのチームは予選を易々と勝ち抜き、他の学校からは驚愕の眼差しを受けた。
 しかし、チームが勝ち進むにつれて、私は奇行の衝動にかられることが多くなった。国語の授業で行われる小テストの〇×問題では、〇を書こうとする右手を左手で抑えて全て×にしたり、部活で円形のグランドを走っていると知らず知らずのうちに逆走を始めてしまったり。さらに、丸い地球に沿って滑って落ちてしまいそうな感覚に陥ることが度々あった。どこに滑っていくかはわからないが、ともかくその恐怖は急に襲ってきて、その度に私は近くにあった壁だったり、机だったりを掴んで必死に踏ん張るのだ。数十秒後に、地球には重力があり、世界の終わりでもない限り地球から落ちるなんてことありえないと正気に戻る。疲れているだけだと自分に思い込ませたし、事実疲れていた。部活は佳境、テストも近い。そりゃ疲れもするだろう。……勉強はあまりしていないか。
「環ちゃん」
 私は驚いて振り返った。授業が終わり、教室で練習着に着替えている時だった。
 少しでも長く練習がしたい。いかに早く準備をして屋根つきグランドにいくかが我々ソフトボール部の強さの秘訣だった。つまり、このタイミングはエリーと会う場面ではないということ。私は今忙しい。それは誰でも見たらわかる。今まではエリーも自分の時間をわきまえて声をかけてくれていた。
 それなのにどうして?
 雨ちゃんは既にグランドにいっていた。
「何?」
 私は目を真ん丸にして呆然と立ち尽くした。一瞬だけ膝が震えて、一瞬だけ口角が上がりかけて、結局体は硬直を選択した。
「大した話じゃないけれど、少しお話がしたいな」
「いいよ」
 私の口はそう答えた。「部活がある! 早くいかなきゃ!」と心は叫ぶ。            私は慌てて訂正しようとした。
「いいよ」
 私の口は頑固者だった。
「何で二回言うの?」
 エリーは微笑みながら椅子に腰を下ろした。
私も不細工な笑顔を作って近くに座る。
 エリーの言葉通り、本当に大した話ではなかった。おすすめの曲があるから聴いて欲しいという内容で、その曲名とアーティスト名(数十年前のアイドルの曲だ)を教えられ、歌詞を印刷したものも渡された。ただそれだけ。時間にして三分もかかっていない。
「聴いてみるよ」
 と私。
「うん」
 エリーは笑った。美しい顔の下半身。
 ずっと恐れて避けていた恐怖にいざ足を突っ込んでみると、意外と怖くなかった、なんてことはよくある。ほら、心配しすぎて損をした、みたいな。対戦相手がめっちゃ強いと思い込んでビクビクしていたけれど、実際に戦ってみたらそんなことなかったり。私は、これまでの私の充実をエリーに侵食されることを恐れていた。でもいざ侵食されたら、なんてことはない。いつものように静かな幸せがスッと流れた。もちろん代償はある。エリーのせいで部活には遅刻した。ウォーミングアップが不完全なまま本練習に入ってしまったので、怪我のリスクはやや上がった。監督や仲間たちに遅刻を一言謝らなければならなかった。……それで? それで、何? 私はエリーといつもより数分長く話せたことが嬉しかった。
「雨ちゃん、先に部活いっててくれない?」
「え、どうしたの?」
「ちょっと、お腹痛い」
「嘘でしょ。何をどれだけ食べても丈夫な胃が自慢じゃなかったの? 前に激辛ラーメンを五杯食べてその後――」
「あぁ、痛い痛いイタイイタイ!」
「ごめん、わかった。先生には伝えておくから。早くトイレいってきな」
「恩に着る!」
 雨ちゃんが階段を下りて屋根つきグランドに降りていくのをトイレの陰から確認し、ホームルームから出てきた三組の生徒をかき分け、ポツンと帰ろうとするエリーに誰にも気づかれないくらい小さい声で呼びかけた。
「エリー、聴いたよ、昨日おすすめしてくれた曲」
 エリーの表情に鮮やかな花が咲いた。
「どうだった?」
 一分は二分へ、二分は四分へ、四分は八分へ。
 人がいないところでだけエリーと関わるよう心掛けていた理性が、徐々に、日々を重ねるごとに薄まっていった。エリーも呼応するように、誰の前でも私の名を呼ぶようになってきた。訝しげな視線が私に刺さる。どうしちゃったの環菜ちゃん? あの子に話しかけているなんて……話しかけられているなんて! 今までの「私」が刻々と失われていく。でも、クラスメイトの声なんて全然気にならない。エリーが返事をしてくれれば、地位の崩壊も恐れるに足らず。

 これが私たちの第一ステップ。人生を取り巻く巨大なリングに懐疑を覚えた女の子が二人になった。奇跡的だよね 
 もしかして、これすらも必然だって言うんじゃないでしょうね? ……でも確かに偶然では片づけたくない気持ちもわかる。


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