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第二章「偶然」 小説『サークルアンドエコー』

 体育の授業があるのに体操服を忘れた。直前の放課になるまでそれに気がつかなかった私。我ながら腑抜けすぎる。「しまったぁ!」と大声を上げた私をクラスの皆が笑い、私はダッシュで体操服を借りに奮闘した。だが困ったことに(ありがたいことなのだが)、焦った私は手当たり次第に体操服を求めたせいで、今度は手元に体操服が四着くらいやってきてしまった。誰の服を着て授業を受けようかと変な悩みを抱えて歩いていると、女子の更衣室用に空けられている教室に彼女がいた。淡い金髪、ブルーの瞳、ロボットのようにピシッとした姿勢。間違いない。普段はこの更衣室を使わない私だけど、瞳が彼女を捉えた途端に吸い込まれるかのように教室に入っていた。
 前回と同じ。私が近づいても彼女は眉をピクリとも動かさない。何となく悔しい。私は大きな動きで彼女の視線の前に飛び出した。
「おんなじ学校だったんだね!」
 彼女は座ったまま訝しい目つきで私のお腹あたりを見た。さらに悔しいような、イラつきのような感情を持った私は、膝を折り曲げて彼女の視線に強引に自らの視線を合わせた。
「ほら、流れるプールで会ったでしょ」
「あぁ」
 やる気のない声を出したつもりなのだろうか。それなら才能がない。どれだけテンションが低かろうと、彼女の声には滑らかさと耳障りの良さがある。
「私をプールに落とした人」
「そう! 私、上野環菜っていうの。あなたは?」
「……エリー」
「エリー? 外国人なの? それともハーフ? 名字は何よ」
「名字は、忘れた」
「名字を忘れるわけないでしょ。じゃ、お父さんかお母さんが外国人なの?」
「親の話はしたくない」
 勢いに任せて突進してみた私。思い返してみると、この時の私の空回り具合は馬鹿馬鹿しさを通り越して恐怖すら感じる。明らかにエリーのタブーに触れているのに引き下がらない。
「ごめん……もう他界されてしまったのね」
 加えて、何の根拠もないのに他人の親を故人にして勝手に謝る始末。
エリーは席を立って私から遠ざかろうとした。私はエリーの腕を掴んで阻止した。すると初めてエリーは自分の感情をはっきりと行動に移した。私の手を強引に振り払おうとしたのだ。無論、伊達にソフトボールをやっていない私の腕はほどけないが、私のことを嫌がった反応をしてくれたことが、私を妙に嬉しくさせた。
「離して」
「離さない、話そ!」
「何を言っているの?」
 エリーはありったけの力を使って私の束縛から脱出しようとした。引っ張ったり、叩いたり、最終的には腕を噛まれた。しかし、私は離さない。私は自他共に認める頑固者で負けず嫌い。腕を離したら負ける気がする。
「私は、誰とも、関わりたくない」
 息が上がっているエリーも艶っぽい。
「じゃあ何で学校になんかきているのよ」
「自分が……どう回ってるかが知りたくて」
 私は思わず彼女の腕を離してしまった。
「……どういうイミ?」
 赤くなった真っ白な腕をさするエリー。私の質問は華麗に無視して、時計を見ながら機械的に呟いた。
「もうすぐ次の授業が始まる。私、体育の授業だから」
「あっ、私も!」
 しまった! という感情が電撃のようにエリーの体を流れたのを私は見逃さなかった。
「そうか、エリーちゃん三組?」
「ち、ちゃん?」
「私五組よ。合同授業だね」
「私……体操服持ってないから」
「あら偶然ね」
 私は溢れかえっていた体操服を持ち上げた。
「私、たくさん持ってるの」
 嫌がり、逃げ出し、抵抗するエリーを強制的に着替えさせること十分。長年スポーツをたしなんできた私なら、体操服に着替えるなど数十秒でできるのに、エリーのせいで授業遅刻が確定した。無論全然嫌な気分ではなく、子どもに服を着せるのって大変なのね、と浅はかな母性本能が芽生える程度。


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