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第十四章「交錯」 小説『サークルアンドエコー』

 近年でも稀に見る規模の台風だった。空が黒色の雲で覆われる前からまず風が猛威を振るい出し、トウモロコシ畑の全てを刈り取ろうと意気込んでいるようだった。家の壁にも強風が打ちつけてガタガタと揺れた。お隣さん家の手作り犬小屋があっという間に吹っ飛ばされてどこか遠方に消えていった。家を失った犬の虚しい泣き声が風のビュウビュウという音の中に混ざっていた。「犬なんて飼うからだよ」とお父さんは意味のわからない発言をしていた。私は、あわよくば家ごと飛ばされないかと期待したが、そこまでの威力はなかった。
 遅れること小一時間、不気味な色をした雲の軍団も流れてきて、いよいよ台風本番がやってこようとしていた。
 勉強道具を広げるだけ広げてベットに横になっていた私。そろそろ雨が降り出しそうだと窓の外を睨みつけていると、エリーから連絡があった。
「会いたい」
 気持ちは私も同じだし、嬉しい。けれど外はこの有様だ。きっとエリーなりの冗談が含まれた言葉だと思い、私はクスクスと笑いながら返信した。
「エリーが台風をどこかに追いやってくれたら会えるね」
 返事はすぐに帰ってきた。
「環ちゃんに会いたい」
「だから……」
「今すぐ」
「直接」
「会いたい」
「私、今家から出た」
「学校の西門」
「の前の」
「トウモロコシ畑で」
「待ってる」
 私はベットから跳ね起きた。
「はぁ?」
 どうかしてる。この暴風。風に乗って誰かさんの家の破壊された犬小屋が飛んできて頭に当たったら死んでしまう。今や雨も降り出した。数秒単位で激しくなる弾丸のような雨だ。視界は最悪だし、風邪を引くかもしれない。来週は決勝戦、最高のコンディションで挑んでも勝てるか五分五分のチームが相手だ。
 なんて色々考えているうちに、私は外に飛び出していた。途端に強烈な横風が右半身にタックルをかまし、私は危うく階段から転げ落ちるところだった。前方の道路では、誰かの家の庭に置いてあっただろう可愛らしい植木鉢が転げ回っていた。
 エリーが何を思ってこんな奇行に及んだかはわからないが、ともかく一刻でも早く家にでも連れていかないと。私より鍛えているわけがないエリーには危なすぎる。
 あまりにも強い雨のせいで、空に押しつぶされている感覚に陥った。瞼の上にも重い水がのしかかってきて、目を開けることすらままならない。猫背になって道路を横切ろうとするも、道路も最早激流の川と大差なく、足を取られて転倒した。顔面の穴という穴に水が流れ込み、道路で溺死しかけた。必死に起き上がる頃にはプールに入るよりも濡れている状態だった。私は自然に対して悪態をついた。
 なんとかトウモロコシ畑には到達したものの、より環境は悪い。濡れながら暴風に振り回されるトウモロコシたちはまさにリズムを無視したヘッドバンキング。鞭のように降りかかるトウモロコシの葉によって、私の服と肌は切り刻まれていった。それに何より足場が悪の権化だ。土と水が混ざり合って沼となり、足首を絡めて転倒を誘発してくる。案の定、私も何回か泥に顔面から突っ伏し、酷く嫌な気持ちになった。
 かつて一緒に空を見上げた場所であろう地点に私は到着した。いっそのこと、エリーからの連絡は全て冗談で、私が馬鹿みたいに信じ込んで防雨風の中やってきてしまいました(笑)、でいっこうに構わないという気持ちだった。こんな雨嵐の最中に、彼女が立っていてほしくない。
 しかし彼女はそこにいた。薄黄色のワンピースはドロドロで、剥き出しの白い肌には私同様の切り傷が刻まれていた。私は汚れた彼女の姿に心を痛めた。彼女をこんな姿にした台風を捕まえて殴り倒してやりたい。
 降りしきる雨のせいで彼女が泣いているのかはわからない。
「台風がきているのに外に出るなんて馬鹿げてる!」
 あらゆる音に負けないように私は叫んだ。エリーは私を見つめた。
「安全な場所にいこう!」
 私の言葉が聞こえているのかわからない。多分聞く気がなかった。エリーは泥水を飛ばしながら私に駆け寄ると、私に抱き着いた。私は不意を突かれ、そのままエリーを上に後ろ向きに倒れてしまった。泥水が飛び跳ねる。肺が潰れるかと思った。苦痛に歪む私の顔の真上数センチにはエリーの顔があった。
「なによ!」 
 叫びながらも、この期に及んで、自分を見下ろす濡れたエリーを美しいと思う自分がいた。
 美しかったが、彼女の表情は今までで一番苦しそうだった。下唇を強く噛んでいて今にも血を流しそうだったので、私は彼女の唇にそっと触れてそれをやめさせた。エリーはほんの僅かに口角を上げた後、やはり痛みに悶えているような声で言った。
「ごめんなさい。私、ずっと思ってて、でも言えなかった。言いたくなかった」
「何を?」
「私たち二人の関係も、ただの円に過ぎないんだってこと」
 エリーは懇願するような目で私をもっと覗き込んだ。
「ねぇ、私たち二人も、所詮生きて死んでいくだけの平凡な存在なの?」
「違……」
「そうなのよ! 私はわかる。わかるから言えなかった。こんなに特別なのに、こんなにもかけがえがないと思ってるのに、私たちもただの人間同士の関係性に分類されるの。出会ってすぐに寝る男女と同じにされるのよ! 何も考えないで操り人形のように人生を過ごしていく凡人とも同じにされるのよ!」
 エリーは私の肩を掴んで激しく揺すった。
「嫌だ、そんなの嫌だよ! 私たちは特別。特別じゃなきゃおかしい!」
 跳ねた泥水が口に入って言葉が発せない。
「嫌だ!」
 それに気づかずエリーは私を揺さぶり続ける。
「嫌だ!」
「嫌だ!」
「嫌よ……」
 数十回は同じ言葉を発した後、ようやくエリーは私の肩から手を離した。
「誰も外に出ないような嵐の中でこんなに暴れ回っても、全く足りないんだもの。どこかの円に組み込まれているだけ……環ちゃん、どうして私たちはただの人間なの?」
 その時、私は目醒めた。
エリーとの出会いが、自分の心に何かが問いかけていることに気づかせてくれた。そしてエリーの切なる叫びを聞いた今、私は自分に辿り着いたのだった。
私は嘆くエリーの口を押さえ、かつて私がやられたように彼女の頬を潰しながら強引に立ち上がった。エリーは驚いているが、振りほどこうとはしない。
私は泥水の中に足を踏み込んだ。
「なら、壊そうよ」
「だから、そんなこと――」
「できる! 私たちが、私たちだけの無限を作るのよ。そうしたら、何も気にならなくなる。だって、それは私たちの円なんだもん。凡人じゃなくなる。私たちは、神にだってなれる」
 風雨は収まるどころかさらに激しさを増した。水たまりには無限の波紋が沸き起こり、耳をつんざく風は休む間もなく問答無用であらゆるものをなぎ倒そうと強度を上げる。
 それでいい。変に晴れ間が差し込むよりずっといい。それは楽な道ではなく、厳しく傲慢な道なのだから。
 私たちは本当の風の中へ、共にゆく決心を固めたのだ。

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