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第九章「亀裂」 小説『サークルアンドエコー』

 私はマスクを外して、投手――雨ちゃんの元に駆け寄った。雨ちゃんは虚ろな瞳で額の汗を拭った。
「雨ちゃん落ち着いて、まだ準決勝。相手の実力なんか大したことないよ。いつも通りの球を投げればいい、大丈夫よ」
 いつも静かに頷き、笑顔を返してくれる雨ちゃん。私たちは最高のバッテリーだと確信できる瞬間で、調子が悪い今日も、二人でなら乗り越えられると信じていた。
 しかし、雨ちゃんは協力的とは思えない目で私のことを見た。地面に向かって吐き出すように呟く。
「環菜ちゃんが悪い」
 疲労による幻覚と幻聴に違いない。私は大慌てで瞬きを何度もした。改めてもう一度雨ちゃんを見ると、雨ちゃんはいつもの優しい目でこちらを見つめていた。
「雨ちゃん?」
「うん?」
「大丈夫?」
「大丈夫。頑張ろう環菜ちゃん、ここが勝負どころだね」
 うんうん、この反応こそ雨ちゃんらしい。やっぱりさっきのは聞き間違いだったんだ。
 相手は奇跡に奇跡が重なり合って準決勝に上がってこれた弱いチーム。私たちが通常のパフォーマンスを行えば、実力でそんな奇跡を叩き潰せる力量差があった。だが、私と雨ちゃんが不調だった。先ほどのように何度話し合いをしても改善されなかったのだ。私のミスと雨ちゃんのミスが交互に起こったりして、これまで公式戦でヒットなんて打ったことがないだろう奴らにまでホームランを打たれてしまった。歯車が嚙み合わないという表現がよくわかった。お互いに真剣にやっているのはわかっていた、ただ波長が合わないのだ。そんなこと今までになかった。
 試合には勝った。攻撃陣が覚醒し、私たちバッテリーの不具合を帳消しにしてくれたからだ。……危なかった。この相手に負けでもしたらとんだ笑い者になるところだった。十対八の乱打合戦。
 試合終了が告げられると、チームに流れたのは歓喜ではなく安堵。ホッと胸を撫でおろす人の姿が多くあった。監督ですら何年か老けた顔で私の肩を弱弱しく叩いた。
「いやぁ、勝ててよかった。決勝戦は頼むぞ、上野」
「はい」
 私は「はい」と言った。どういう表情でそう言ったかは覚えていない。

 教室の中で、エリーは両足を揃えて一歩先に飛んだ。その瞬間が私の目にはスローモーションに映った。髪が宙に揺らめき、クラゲのように幻想的に漂った。着地と共にエリーは言う。
「私たちは、先に進もうとする。もっと効率的な方法は何か、もっと稼ぐにはどうすればいいか」
「うん」
 私はエリーの長い髪の先端がゆったりと舞い降りるのを眺めていた。とっくに髪が落ちきった後も、その残り香を嗅ぐみたいに私はじっと動かず艶やかな髪を見つめていた。
「新技術の開発。新天地の開拓。人間たちはそれで先に進んでいると思ってしまう。結局は、円を描いているに過ぎないのに」
「逆走してみたら?」
「一緒よ、逆回りの円があって、またいつかここに戻ってくる」
「横に抜け出て円から出ちゃえば?」
「それも無駄よ。抜け出たと思っても、既にそこには横向きの円ができている」
「八方塞がりだね、それじゃ」
「そう……私も何度も試してみたんだけれど、決して抜け出せないし……壊せない」
「私と出会ったことも?」
「それは言わないで。まだ……考えたくない」
 エリーは顔を背けた。それが可愛らしくて、私は照れて笑った。

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