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短編小説『雨の色』

 部屋を出たと同時に、隣の部屋の扉もまた開く。
 エレベーターの中に、二人。しかも右角と、対極の左角。
 朝の人混み。黒、黒、黒、金。
 黒、黒、黒、金、黒、黒、黒、黒、駅のホーム。
 怪物を育てる小さな箱がやってきて、口を開けた。
 どうして。どうして僕は、こんな些細なことでイライラしてしまうのだろう。そんな自分が本当に嫌だ。
 肩と肩がぶつかって、僕は謝罪の会釈をするが、そいつ――その人は、スマホから目を離さない。ゲームか、アニメか、ラインか……恋人との。
夜を通してアルコールを摂取し、未だその効果にて目が血走ったままの人々。若い。金、銀、青、緑。意味のない大声と下品な会話。衣服からは糸がほどけ、その糸が、座席を三人分占めている。
 普通の人たち。静かにしている人たち。下を向いている人たち。
 手すりを持ちながら、キーボートを片手で叩く音。耳にはめ込んだ機械からの、振動。新聞をめくって、小説をめくって、閉じた。呼吸、呼吸、呼吸、呼吸、呼吸、呼吸、吐息。はーーーー。タイミングを見計らって、僕にとっては解放の合図ではない、アナウンス。次の停車駅を告げる。
「うるせえええええ! 黙れ! 俺の降りる駅だけを知らせろ、というかいちいち停まるな! どうせ人が乗ってくるだけだろうが。おい、お前! そのスマホから一旦手を離せ、そして謝罪しろ! 俺も悪いが、お前も悪い。何で私だけ謝らないといけないんですか? あなたも謝って下さいよ。フェアじゃないですよ、そんなの。おいてめぇら! 大人しく、喋らず、座っていてくれ。そうやって騒いでる奴なんてな、ろくな大人にならないんだぞ。今は楽しいかもしれないが、周りを見て、適切な振舞いをするんだ。あと一年、二年したらわかるぞ、俺のようにな。説教するなって? 黙れ! ブチ殺すぞ! 正論を言って何が悪い、正論に対して何も言えないから罵詈雑言をかけるんだろ? お前もだ、お前もだ、お前もだ、黙っていたって目障りだ。存在するだけで目障りだ。全員、ブチ殺――」
 ブシュー、という、溜まった空気が抜ける音と共に、満員電車が満員を超える。気がつけば、僕の拳は強く握られ、震え、汗が滲んでいた。足が遠くなり、熱を帯びながら意識が頭上へと飛んでいく感覚は、不快だ。寛容でありたい。優しくありたい。誰にでも、どんな状況にも。
 だから僕は、今になっても校門をくぐる選択をした。
 挨拶をされた。挨拶をされなかった。
 頭髪が長い。スカートが短い。遅刻。定刻。適切な長さ。
 黒、黒、黒、黒、黒、黒、閉鎖空間。
 彼と彼とは友達で、彼と彼女は恋人だ。彼と彼と彼は同じグループで、彼女と彼女と彼女と彼女は同じグループ。彼は一人。
 僕が授業をやっている時の、ヒソヒソ話が、ムカつく。「静かに」という真面目な声が、イラつく。笑い声が、いじりが、発言が……その表情が、仕草が。
 マグマだ。僕の心は、煮えくり返ったマグマだ。彼らの全てに怒りが湧き出る。僕が学生だった、つまるところ思春期だった頃に発生していたマグマと、全くもって性質が異ならない、マグマ。
 周りの教師も全て害ある人間だ。学校にへつらい、生徒にへつらい、親にへつらい、過剰に厳しく、過剰に優しい。仕事が終わってビールを流しこんでいる瞬間には、ふと隣のスーツ姿の連中と自分とが重なることがある。向かい側の席で、先輩教師という名の上司が、悩み相談という名のストレス発散。
 自分の言っていることが、相手に伝わらない。自分の言動が、相手に間違って理解される。相手が自分のことを勝手に分析し、理解し、説明する。相手が自分の思った範疇で動かない。折衷案を見出さない。自分が怒っているのに、相手はいつだって冷静さを保っている。
 地球は海の惑星だ。全体の約七十パーセントが、海で構成されている。だが初めから海があったわけではない。原初の地球は、五百度ものマグマで覆われた灼熱の世界だ。二億年くらい経って、雨が降り、ようやく海ができたのだ。一筋縄でいったわけでもない。雨が降り、空中で蒸発し、また雨が降り、空中で蒸発し、いよいよ地表に雨が降り注ぎ、蒸発し、池のようなものができ、蒸発し、海ができても、蒸発し、何度も何度も雨が降っては消えるプロセスを経て、地球に海ができた。穏やかに生命を包み込む、癒しの園が。
 地球に海が誕生した過程を知り、おかしな結びつきだが、自分と地球が重なった。いつになったら、僕の心に海ができる。いや、海どころじゃない。いったいぜんたい、いつになったら、僕の心に雨が降ってくれるのだろうか!
 悶々としていた。あいつも、こいつも、あの人も、僕と同じ年代の人々はもう心に雨が降っていると思う。そりゃ、あの子や、あの子や、あの子たちは、まだまだ怒りが溜まって噴き出して、マグマの熱を外からも感じる。だが数年後には、きっと雨が降って地が固まっているはずだ。それが普通だ。大人になるにつれて、心に雨がふるのは、当たり前のはずなんだ。もし地球に雨が降らなかったならば、自らのマグマで、地球もまた滅んでいたんじゃないかと、勝手に僕は思う。

 部活を担当しているわけではないのが不幸中の幸いといったところだが、部活を担当している人の分の作業をやらされるので、残業することに変わりはない。僕が職員室を出た時には、太陽は沈みかけで、部活動はピークにさしかかっていた。学校から出ようと歩いていると、グランドの隅でうずくまっている生徒を見つけたんだ。僕は疲れてイライラしていたが、教師という仕事が持つ表面上の優しさを思い出して声をかけた。生徒はちょうどついさっきその場で転んだようで、起き上がっている最中だった。膝をすりむいただけで、何もないところで転んだ自分に対して笑いが止まらない能天気ぶりだった。僕は呆れて、痛かったら保健室に行くんだよ、と声だけをかけて立ち去ろうとした。しかし、生徒のすりむいた膝に滲む血液を見た時、不意に革命が脳を司った。興奮したが、同時に非常に落ち着いた。他人の血液を見たのは久々だった。と言いつつ、これほどはっきりと見た記憶は今までになかった。
 赤!
 僕は内心スキップをしながら学校の外に出たが、その瞬間、自転車に乗ってろくに周りを見ず、歩道を独占している学生らと衝突しかけた。笑い声と軽い謝罪。僕の穏やかで満たされた気持ちは、蒸発した。再びマグマが溢れ出て、自転車を蹴り倒してやりたい気分になった。その学生たちの姿が見えなくなると、いい加減に雨を降らせなければ、と気づかぬうちに考えていた。焦りのような感情があった。そろそろ雨を降らせて気持ちを落ち着けなければ、自分が非人道的な行いに走ってしまいそうな予感があった。
 その日はそわそわして眠れなかった。仕方なく寝るのを諦め、ソファに座ったまま時計の針と対決していると、窓に水滴が落下する音が聞こえてきた。窓を開けると、なかなかの雨。暗闇と街灯のささやかな明かりの中でそれは白、あるいは透明のつららにみえ、僕は思わず微笑んでしまった。そのまま朝になるまで雨を見続けた。空が明るくなり始めると、雨粒は灰色と水色に変化していった。僕は歯を見せて雨に笑いかけ、首を振った。どうしても雨に否定を伝えたくて。それから、学校にいくための支度を始めた。
 黒、黒、黒、黒、黒、金、金、銀、黒。
 相変わらず、学校への道中はフラストレーションしかたまらなかったが、なんとか抑え込んだ。今日の帰りには、こんな些細なことで怒るような性格とはおさらばし、平穏で優しい人間になれるから、と言い聞かせた。
 普段、始業のチャイムがなることを、生徒以上に憂鬱に思っている自信がある。だがその日は、終業のチャイムの如く待ち望んでいて、数分前には教卓に両手を置いていた。ざわめきながらも生徒たちは全員席についている。僕はクラスの皆に、少し協力してほしいことがあると言った。そうしたら、皆が戸惑いつつも頷いてくれた。「じゃあ号令」と僕が声をかけると、学級委員長の滝下静香さんが「起立」とはっきりとした声で答えた。その瞬間、僕は滝下さんの顔面を殴った。頬のあたりを殴ったのがいけなかった。僕は考えを改め、もう一度、今度は鼻や口を目掛けて殴った。それでも失敗したので、人を変えてみることにした。隣にいた雨宮正くんの胸倉を掴んで、その勢いを利用して鼻を殴った。そしたら鼻血が出たので、この機会を逃すまい、と再び雨宮くんの鼻を、昇竜拳のように下から上に突きあげるイメージで殴ってみた。ようやく成功した。彼の濃厚な血が頭上に飛び上がり、僕の顔に降り注いだ。
 雨が降った。僕にとっての雨は、赤色だったんだ。
 隣の席の子へ手を伸ばしたが、その子は、というより、生徒たちは何故か皆教室の隅に固まっていた。そしてうるさい。僕はまたイライラした。授業中に勝手に席を立ち、騒ぐなどあってはならないことだ。内容はつまらなくとも、教師へのリスペクトが足りない。雨がまだ足りていない証拠だった。一人から出た雨では、海にはならない。
 教室の奥に行き、一人捕まえて、同じ要領で殴った。赤の斑点が頭上を彩る。また次、また次。包丁を持ってこなかったため時間がかかってしまったが、段々と心が静まっていくのを感じて嬉しくなった。教室の各所にできた赤の湖が、そろそろ合体して海になってくれればいいと思った。
 しかし、何故か僕はかけつけた教師たちに取り押さえられた。警察もやってきて捕まった。最初は困惑して、説明を試みた。僕はただ自分の心に雨を降らせていただけで、罪を犯したわけではないこと。これからは、精神が安定していちいち怒る人間ではなくなること。だが誰も理解を示さず、手錠まではめられたので、今度は未来が怖くなり、泣きじゃくった。逮捕されたら、教師は辞めさせられるだろう。仕事がなくなり金を稼げず、犯罪者のレッテルを貼られ、家族友人からの信頼を失ってしまう。もう普通の人の生活には戻れない。
 段々と怒りが湧いてきた。大人になってなお、心に雨が降っていない人だっているはずなのに、それを理解せず逮捕するこの社会に対する感情だ。僕を見捨てるな! 
 両手が拘束されていたが、なんとか頑張って、そのまま警官の鼻を殴った。だが、雨が降る程の打撃ではなかった。僕はまた泣いた。怒った。嘆いた。狂った。
「雨、降れよ!」

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