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『映画大好きポンポさん』 考察7選❕必ずしてしまうミスリード⁈

ポンポさんって、ストーリーがわかりやすそうで、実はけっこう難しい作品なのかな?? ってことで、レビュー&考察です。個人的解釈ポイント7選、諸々ご了承ください〜〜 

※ 以降、劇場映画『映画大好きポンポさん』の
ネタバレを含みます。ご注意くださいませ。


Subject

❶本当のテーマはなんだったのか?
❷永遠に報われない恋愛関係
❸社会不適合の意味が違う?
❹セッションとニューシネマパラダイス
❺ミスティアはかわいい女ではない?
❻ドーナツの意味
❼ピクサーとの比較しての才能の肯定

まとめ ポンポさんはご都合主義か?


❶本当のテーマはなんだったのか?

  結論から。「人の夢を応援することの難しさ」が大人向けのテーマだったのだと想像できます。作中で再撮影に挑んだように「作品の中に自分が見つけられる」ことが、クリエーター論として重要でした。90分であることや、映画内映画のこだわりから、メタ的に、劇場化にあたった監督自身のメッセージも隠されていると考えられます。
そこで、原作には登場しない映画オリジナルキャラ、アランくんがヒントになります。本編前半では、夢を追いかける主人公たちというきわめて王道的で、子どもから楽しみやすいテーマだったのが、後半にかけては、周囲の人間の描かれ方に変化があり、ジルベールの家族の話に移ります。作品全体のテンポのよさに惑わされやすいですが、決して、資金調達だけに悩みを抱えているのではなく、アラン、ポンポさん、ナタリーのそれぞれがジーンくんをどうサポートできるかを考えているのです。(ジルベールに対するジルベールの家族も) 

  本編後半が大人向けなのは、この構造からです。
わざわざリアリティラインを下げてまで、アランくんに登場させ、あのような突飛な行動を取らせたのは、「人の夢を応援する」という台詞を、2回言わせたかったからではないでしょうか? また、それがこの作品でのポンポさんの持つプロデューサーとしての本質でもあると。

  ただ、このテーマ。作中で強調されているわりに、見た人の印象になぜか残らないんですね…。いわゆる推し活やスパチャのような応援ではないのが、ポイントかもしれません。アイドルのように「その人自身を間接的に」ではなく、クリエーターの「創作活動を直接的に」応援する行為の珍しさがあると思います。

 “ 個人的には、クリエーター(アーティスト)への応援してもらったことがある or したことがある方には、とても感慨深いテーマだと思いました。”


❷永遠に報われない恋愛関係

  気付きづらいかもですが、恋愛がサイドストーリーとして描かれています。作中、ジルベールが妻と娘に愛想を尽かされ、孤独になっていますよね。ジルベールとジーンくんはリンクしてるので、ジーンくんも恋愛に関して孤独になっていることになります。
  終盤、ジーンくんは、ナタリーに思いを寄せられている描写がありますが、ジーンくんの想い人はポンポさん(≒映画そのもの)であり、子どもとして表現されているポンポさんは、恋愛に無縁なので、報われない三角関係になっています。
さらに、おそろしいのは、アランくんの学生時代のガールフレンドの後ろ姿以外で、一切、恋愛らしい要素が、作中描かれていません。しかも、ミスティアに関しては、「結婚とか子供とかは、別にいいや」と、明言しているんですよね。徹底的ですね笑


❸社会不適合の意味が違う? 

  作中、ジーンくんはポンポさんに「社会不適合な目」と言われてしまいます。ただ、この「社会不適合」という言葉、本編後半に進むにつれ、一般的な意味でない可能性が強まってきます。重要なのは、その前の台詞「社会と切り離された精神世界の広さと深さ」があるかどうかであり、最後まで見れば、いわゆる「社会不適合な」「現実から逃げた」人へのサクセスストーリーにはなってないですよね…⁇ 
  根拠はいくつかあって、アランくんが唯一、ジーンくんと同じ目の描かれ方をしていますが、恋愛描写がある点しかり、むしろ作中唯一の社会適合者です。社会の価値観に目を向けているからこそ、キャリアと資産が得れそうになったタイミングで、それ以上の価値観が見つけられず、自己肯定ができず悩むキャラとして描かれています。
  他には、ジーンくんの師匠たるポンポさんの目が死んでいない点や、原作では、同じく将来はプロデューサー志望の女優ミスティアの目も死んでない点も。

「社会不適合」というワードは、一般的には、自己肯定感の低さや、コミュ障というイメージが付随します。ただ、ポンポさんに限っては、「社会の価値観にただ一致していない」というだけで、寧ろ、彼らの自己肯定感は高いのです。この作品では、とても特殊な意味で使用されていますね。


❹セッションとニューシネマパラダイス

  原作漫画では、たくさんの実写映画の名前がでてきますが、作中では、セッションとニューシネマパラダイスに2本のみが挙げられます。理由は、劇場映画版のポンポさんは、「クリエーター論」以上に、「クリエーターの人生論」を語っている側面が強いからではないでしょうか?
  セッションは、ポンポさんの好きな映画であって、現役のクリエーター狂気的な人生の象徴です。一方で、ニューシネマパラダイスは、覚醒前のジーンくんと現役を引退したポンポさんのおじいちゃんの象徴です。覚醒後、ジーンくんは、あったかもしれない人生の If をカットしてきたように、ナタリーの思い出のシーンもカットして作品を完成させます。ポンポさんのおじいちゃんは、アナログのフィルムを繋ぎながら(ここがニューシネマパラダイスをオマージュです)、「あったかもしれない人生のもしものシーンは、引退後に想いを馳せてもいいじゃないか?」というクリエーター論を展開していました。


❺ミスティアはかわいい女ではない?

  作中唯一、結婚や子供を「別にいいや」と明言していて、その信念から偽名と特殊メイクまでしていたミスティアですが、原作漫画ではもう一つ設定があります。あのマンションはポンポさんの持ち家で、今はプロデューサーとして独立するための貯金してるそうです。彼女の覚悟のキマり方や強かさは、ジーンくん以上ではないでしょうか?


❻ドーナツの意味

  ポンポさんのドーナツは、オーシャンズシリーズのブラピ的な単純に食べるキャラ設定かと思いきや、考察もできそうです。後半、「ドーナツ」=「夢/子どもらしさ/クリエーター性/主観性」とも取れそうなので、「甘いものを口にするポンポさん」=「クリエーターとしての主観的発言」。「何も食べてない状態orしょっぱいものを口にするポンポさん」=「プロデューサーとしての客観的発言」として見れそうです。
  ちなみに、ジーンくんは真逆のキャラ設定で、「普通の状態」=「主観的」、「ハットを被る」=「客観的」になります。


❼ピクサーとの比較しての才能の肯定

  クリエーター(アーティスト)の才能による成功の肯定というのは、近年のピクサー作品と対照的であるという話をします。『ソウルフル・ワールド』や『リメンバー・ミー』等です。もう少し広くとれば、『天気の子』などもこれにあたるかもしれません。いわば、一流のクリエーターが作ったアニメ映画でありながら、「才能があり、成功したとしても、幸せとは限らない」「才能による成功よりも、人生には大切なものがある」というメッセージ性を持った作品です。
  たいして本作は、一見、王道といえる主人公のサクセスストーリーですが、ちがいます。「才能を磨くがゆえ、普通の人が想像する一般的な幸せは選ばない」という、クリエーターたちの才能を求めるがゆえの覚悟の話なのです。ジーンくんは、ニャカデミー賞こそ獲っていて、モテてる風なんですが、実際は、彼の恋愛は絶対に報われず、目のクマはどんどん深くなっています。従来であれば、今までカットしてきた分は戻ってきて、恋愛にも報われるはずです。そうした意味では、近年のメジャーヒットアニメ映画のカウンターと言えるかもしれません。


まとめ

  構造や本質的な部分だけを掬いとってしまうと、「ストイックな才能論と家族の排除」⁈  みたいになってしまう上、ジーンくんのこれからの人生は、幸せなのか分からないんですよね。そう考えると、ご都合主義ではないのかもしれません。
  ただ、そんなトガった見かたをする人は、あまりいないので、共感できるポイントが多く散りばめられているのが、惹きつけられる要素になっていると思います。アランくんの存在であったり、現代での映像編集に親しみのある観客の多さ、そして、どこか聞き覚えのある台詞。アニメは題材ではないけれど、「映画(アニメ)は1人で作ってるんじゃないんだよ」でSHIROBAKO 、「資金調達」「プロデューサー」で映像研の連想ゲームで、本作への親しみが生まれたり。お仕事に本気になれる系の作品にも思えたり。まあ正確には、ポンポさんたちのクリエーターモードは、個人性や狂気性を孕むため、本来の立場から逸脱した行動をする(仕事として捉えていない)ので、ニュアンスは違いますが…。そんな多様な解釈の多さが、本作の魅力だと思います。



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