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今こそ実践すべき理由

日本の言葉には直接的に受け取る意味の他に潜在的なニュアンスが含まれることが少なからずあります。定義として定められているのをそのまま受け取れないというか。私たちが職業人として社会を生きる上で最も重要だと言われる「実践」は日常的に頻繁に口にのぼるだけに特に深く考えることなく使っておりますが、最も重要な概念だけに「実際に行うこと」との意味以外にも深い含蓄が潜んでいると思っています。そして、非常に重要なワードにも関わらず、あまり大切にされていないというか、おざなりにされているというか、何か引っかかる部分があります。
以下に改めて、実践とは何か?の定義を考え直してみます。

意図と目的

一般的に実践とは計画に対して行うことと認識されています。「行うこと」だけなら行動や実行、実施といった単語も使われますが、実践とは若干、ニュアンスの違いがあります。それは何か?と考えてみれば、計画の時点での意図や想いの違いではないかと思います。悪しき計画に対しての行動、実行は使われますが、実践とは言いません。「神の教えを実践」と使われるように、良き意図、良き計画を実際に踏みしめて前に向いて歩くことを実践との使われ方をするのではないでしょうか。辞書を引いてみると以下の通り。

じっ‐せん【実践】
[名](スル)
主義・理論などを実際に自分で行うこと。「理論を実践に移す」
哲学で、
㋐人間の倫理的行為。アリストテレスの用法で、カントなどもこの意味で用いる。
㋑人間が外界についてもっている自らの知識に基づき、これに働きかけて変革していく行為。マルクスエンゲルスによって明らかにされた意味。

デジタル大辞泉

主義、理論はそもそも、その人にとって正しいことや良きことの実現の為の主張や考えです。哲学的な使われ方ではいきなり倫理観とセットになっているとされています。マルクス、エンゲルスによって示されたのも理想の社会を実現するための変革ですから、もちろん、良き意図が含まれているからこその実践です。この様にみると、人が良いと分かっている、もしくは信じている事をそのまま実行する行為を実践だと言えるかと思います。
理論や計画、主義主張の正当性や実現性、本当に全体最適に寄与するのか?の精査は必要でしょうし、それは一体何のためなのか?との目的を明確にする必要も付随するべきとなります。要するに、実践って「やれば良いもんでは無い」ということになります。

継続と持続の積み重ね

次に私が気になるのは実践という言葉に含まれる時間軸です。目的が明確で、目標設定と計画を立案した後に行うのが実践ならば、一回こっきり行動に移したからと言って実践とは言わないように感じます。目標達成に向けて、もしくはすぐには手に入らない目的に対して歩みを進めるのが実践だとすれば、ある程度の時間や回数を積み重ねる必要があります。他の辞書で定義を引くと、過程という言葉が使われています。時間軸の目安や、程度は明確ではありませんが、それなりの継続性がなければ実践とは言わないと言えそうです。

実践とは、理論や知識を具体的な行動に移すことを指す言葉である。学んだことを具体的な行動や行為に落とし込むことで、理論が現実の世界でどのように機能するかを確認することが可能となる。実践は、学習や研究の一部として重要な位置を占めている。また、実践を通じて得られる経験や知識は、理論だけでは得られない深い理解を可能にする。

実用日本語表現辞典

学習や研究の一部との位置付けもまた、継続的かつある程度の期間を踏まえることの前提になっています。やってみました、は単なる体験であり、実践ではあり得ない。実践から得られる知見が研究に戻り、また一つ上のレイヤーでの実践につながる、スパイラル・アップの成長が実践の本質なのかもしれません。

真摯で優先的に取り組む状態

最後に、実践している「状態」についての疑問というか、しっくり来ないと感じる部分について。上述した通り、実践とは過程であり、目的を目指すもの。であれば、「やっている状態」であり、これから取りかかるのも、一旦進めるのを止めるのも、やり終わっても実践しているとは言えないと思うのです。常に取り組みを進めている状態を保てているからこそ、実践中であると言えるはず。この意味は、様々なタスクがある中でも高い優先順位でそのタスクに取り組み続けることであり、片手間で時間が空いた時に行うのでは無いとの意味も含んでいると思うのです。実践している状態とは、誠実さや真摯さを伴って、熱心に向き合ってこそでは無いでしょうか。
「机上の空論」という言葉は無駄で、意味の無い考えやそれに費やした時間が勿体ないとのニュアンスを含んでおり、誰もがそれを排除すべきだと感じます。その逆の意味で、理論や知識や計画、主義などは全て、実践に移してこそ価値が生まれると知っています。実践こそが重要であり、計画や目的など、全てに価値や意味を与える行為だと。しかし、優先順位をあげて、真摯に実践に向き合っている状態を保ち続けている人はそんなに多くいないように感じるのです。これが私が「実践」という言葉を聞いて何か引っかかる理由なのかも知れません。

激動の時代の認識

実践哲学というと、王陽明が伝習録に記した陽明学が有名です。江戸時代末期から明治維新の激動の時代に大きな活躍をした幕末の志士達を多く輩出した吉田松陰先生が主宰した松下村塾でも、若者達が陽明学を中心に実践に重きをおいた学びを積み重ね、行動を起こしました。
それから時が経ち、現在の日本が置かれている状況は第3次世界大戦がいつ本格的に始まるかも分からない、コストアップインフレで国民は苦しみ、法人税は下がり、消費税や社会保険は上がり続け、国民の所得は上がらないのに上場企業の株式の半数以上が外国人投資家の所有で、配当益は海外に流出。子供達の6人に一人が貧困に喘ぎ、若い女性は海外に売春に行く、若者が結婚して子供を作るのさえ躊躇する国になってしまいました。全くもって植民地化への道を突き進んでいます。私達は明治維新よりも激しい時代の転換期に生きている自覚を持たなければなりません。今こそ、何よりも実践が重要な時なのです。

実践とは在り方

混迷に時代に、一体、何の実践をするのか?との問いに対する解はシンプルです。私たちが目指すべきは人が生きるに値すると思える世界、奪い合い、殺し合う世界を終わらせて、誰も取り残されない持続可能な世界の実現です。世界平和は壮大に過ぎる目標だと感じてしまいますが、同時にそれは身の回りから実践、伝播していくしかありません。誰もが無関心を決め込んでいては世の中はどんどん悪くなっていく一方ですし、実際そうなっています。
農業革命、産業革命を経て、人間は圧倒的な力を身につけました。際限の無い成長を夢見た人類は地球上を支配して、今や地球上の生物の40%が人間、66%が家畜、そして野生動物はたったの4%になってしまいました。このままの延長線上に突き進めば地球は破綻してしまうのは小学生でもわかります。地球は有限です。
持続可能性を高める方法論を私達は学んだり研究してきました。それを知っていますし、実践する力も持っています。今こそ、あらゆる人がそれぞれの立場や役割に沿って、実践するという在り方を見つめ直し、今だけ、金だけ、自分だけ良ければそれで良いとの価値観を捨て去り、未来に対する実践を行うべき時だと思うのです。

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現場実務者向けの実践研修と実践教育に基づいた高校の運営を行なっています。

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