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テキトーなだし巻き玉子 #11

 以前、卵料理が苦手だった。だし巻き玉子や茶碗蒸し、大好きだけど、なんとなく作るのが面倒で、その上うまく作れないと思っていて、ほとんど作ったことがなかった。

 15年ほど前に一度作り方を習い、その時買った銅製の卵焼き器を、一度も使わずに置いておいたところ、その表面に塗ってあった錆止めの油が固まって、さらに手に取らない理由ができていた。

 3年前に今のマンションに引っ越し、ガス調理台からIHに変わってしまった。銅製の卵焼き器は、メルカリ出品の瀬戸際まで行った。

 引っ越してからすぐに通い始めた江戸懐石近茶流(きんさりゅう)で、茶碗蒸しの作り方は2度習って上手くできるようになったが、やはり2度習っただし巻き玉子は、カセットコンロで数度作ったものの、いずれやらなくなってしまった。

 しかし娘の朝のタンパク質は、卵に頼っている。彼女はだし巻き玉子ならよく食べてくれる。どうしたものか、と思っていた。

 先日トイレに置いてある本で、「一汁一菜で良いという提案」(土井義晴著 新潮文庫)を読んでいたところ、このような記述が目に入った。

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【秋の味噌汁】
 里芋なども美味しいんです。別鍋で皮ごと茹でておいてつるっと皮を剥いて、ぎゅっとひねってつぶしてから味噌汁に入れて温めます。つぶすことで汁とよくなじみます。P80
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 なんてJAZZなんだろう!と思った。里芋は皮を剥くのが面倒だし、下茹でも面倒、と思っていたけれど、そのまま茹でて、しかも切らなくても美味しい味噌汁ができる! 当たり前のことだけど、そのことに気づかなかった。
 土井先生が「ぎゅっとひねってつぶしてから」とひらがなを使っているところに心を感じる。「ぎゅっと捻って潰してから」と書いてあるのとは、そのニュアンスが全く違い、食べ物のいのちへの気遣いを感じる、
 そのことが私の完璧主義を打ち崩した。

 だし巻き玉子だって、何も卵焼き器で作らなくてもいい、小さなフライパンで作ってしまおう。そう思ってテキトーに作ってみた。テキトーとかくと本当にテキトーに見えるのだけれど、卵と心を通わせることを忘れてはいない。卵にどのくらい火が入っているか、次にどのくらいの卵を流し入れるとちょうど良いのか、ということを考えながら常に真剣勝負だ。

 「丁寧な暮らし」という言葉にすごく大きな違和感を感じる。
 「丁寧な暮らし」とは何か理想の像があって、そこに自分を近づけていこうとするような、あくまで自意識の中に閉じているイメージがある。

 丁寧な暮らしをしようとは思っていない。生活の中の一つ一つの行動に、気を配ろうと思っている。気を配り、自分の手を使って行っていることの行く末を、その対象に委ね、自意識から解放される、それが真の自由である。
 自由になることを私は目指している。無我だ。それは「丁寧な暮らし」とは表面上同じに見えても、全く別の方向を向いているのだ。

 だし巻き玉子の卵と心を通わせて、私が真の自由を得るのはいつなのだろうか、今朝もまだまだ顔を出す自意識とせめぎ合いながら、自由の境地を夢見つつ朝ごはんを作る。


卵4つ分のだし巻き玉子

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