6月5日 ごめんねアート
日曜日だ。
しかし、毎日日曜日みたいになっちゃってる今、日曜日こそ真の日曜日活動をしなければ!と、謎の気合いが入る。
うむうむ
どうしよう。ああ、そうだ生人形の展示が今日までだ、よし!
この展示が始まる時期に、「ナマ人形ナマ人形」と、事務所で騒いでいたら、先輩同僚が昔の芸術新潮か何かの生人形特集を持ってきてくれた。
「今井さん。イキ人形というのよ」
と、いうわけでイキ人形展である。
近頃は博物館ばかり見て回っていたので、美術館の展示にうろたえる。
お目当ての生人形だけではなく「リアル」がテーマの展示なので、絵画や立体モノの作品も並ぶ。
しかし、ついつい展示品は時代順に並んでいるという先入観があるので(多くの博物館では大抵そう)、明治時代の日本で最初の精密生物画と、現代の若者の絵画が並んでいると、頭がワープできない。(これは年を取ったせいですか?)
一回一回、目の前の作品という風呂に入り、次の作品に移る時には、前の作品から出て、また、この作品の風呂に入り直す。と、いうような見方をせねばならない。
疲れる。頭が完全に混乱。
そして、作品の横に作者の名前や制作意図の解説パネル。
これがなんだかちょっと、イラッとした。作品本体で人の心を動かす。そこに芸術品の力の全てがあるんじゃないかしらん。(すみません。でも私のnoteだからね。私の意見を書くのです)
普段、考古遺物に触り、名前もわからない人々が生活のために作ったモノにハッとしたり、震えるような感覚を覚えることが度々ある。そこにあるモノの作者の意図なんかはわからなくても、モノ自体の存在に飲み込まれるのだ。
そう。美術館の壁に飾られた、一回一回風呂に入り直すような作品たちの前では、飲み込まれる、という感覚を得るのは難しいのであった。
あああ。私は絵画が大好きだったのだ。作品の前に立って筆の跡を見ると時間を超えて、そこに人がいたという感覚にたまらなくなる。そういう思いを子供の頃から抱いてきた。
なのに、感動できない自分に混乱して、がっかりしつつ、次のコーナーへ。
相撲生人形がいた。
今回の展示のポスターにもなっている安本亀八作「相撲生人形」
安本亀八が明治23年に作ったものだそうだが、亀八は幕末の文政9年に生まれている。
江戸時代の人々や風景を見ていた人がリアルに作った人形なんて、もう、本当に、そこに江戸の人がいるのである。
すっかり飲まれた。
筋肉が波打ち髪は逆立ち、血管が浮き出て、絡み合う二人の男。目玉が生きてる!
やっぱり
ここに製作者の意図のパネルはない。
安本亀八という作者名はあるが、この名前は2代亀八3代亀八と続いていき個人の名前ではなくなっていく。
『「美術」「彫刻」という言葉は、明治時代に翻訳として生まれたもので、この定義から外れたものは、長く美術の表舞台から姿を消すことになる』
と、壁の全体的な解説パネルにある。
そうだ。私。「芸術」という作為的なものにちょっと消化不良を起こしちゃったのね。
道を挟んで向かいの博物館に寄ることにする。
とにかく過去の人々が生活のために作ったものを見たくなったのだ。
昼間なのに暗いタイルの博物館の穴蔵みたいな感じが、懐かしい、と思った。
縄文時代からの土器に囲まれて、ああこれは私自身の物語だと思った。
さっきのアートの作者たちの物語とは、私は共鳴しなかったな、と思った。
若い人たちはアートという作品の、奇抜さや大きさや、行き先なんか考えない若さのエネルギー!に、触発されればいいだろう。
もう人生を半分ぐらいきた私は、いなくなってしまった人々の生活の跡を辿る事の方に、震えるような感覚を抱くことが多いみたいだ。
はい。
結局は、そんなお年頃になった私、というお話です。
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