遺物整理からみる神様の視点
部屋中のテーブルの上に、土器を広げて接合という作業をする。
現場から上がってきた土器を洗って地点の記号を書いて、そして復元を試みるのだ。
すごくくっつきそうだし、似てるのに全然くっつかなかったり、
一日中やってひとつもつかない時は時給もらってすみませんという気持ちになる。
しかし、ひとつの土器片を手に持って、なにげなく無意識に拾った一片とガッチリくみあった時には、びっくりして興奮する。
土器と土器が呼び合う。と、わたしは確信しているのだが、人に言ったら笑われるから言わない。
でも、ある日、縄文時代の小さな甕で、上半分と下半分が毛色の違う文様をしていたのをくっつけたとき、素人のわたしの頭や感覚で成し得ないことだと思った。
大きさも形も他とはちょっと違っているその甕を、
「ひょっとして骨の入っていた、骨壺のようなものだったのかな」
と、呟いたら、専門の先生が、
「うん。本当にそうだった可能性がある土器だよ。」
と言った。
だけど、と思った。
骨壺だとしたら小さすぎる。
赤ちゃんの!?
手の上の土器の細やかできちんとした文様。その中に入っていたかもしれない赤ちゃんの骨。胸のあたりがズシンときた。
何千年前の人との共感をしたと思っているのはわたしだけ。全てはわたしの想像。
あるのは縄文後期の小型の甕だけだ。
遺跡発掘調査の仕事というと、幽霊、とか怨霊。とか大丈夫ですか?と聞かれる事があるけれど、わたしが思い煩わされる事があるとしたら現世の人々の思い違いからくる諍いのほうが圧倒的で。
先生たちは土器を前にして、形式と型式を見分け、文様のパターンを読み取り使われた道具を判別する。
使った人の潜在意識も顕在意識も、誰かの心象印象もない。
先生たちの行為は、事実を述べる事に徹する。
それはまるで、神様に近づく術みたいで面白い。
(イラストはわたしの好きな水煙土器。文中の骨壺甕とは関係ありません。縄文中期後半。長野県あたりの土器です。)
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