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SMAPとわたし。

「SMAP解散!」、友達のLINEで知りました。とうとう、考えたくもない、この日が来てしまった。。なんでこうなってしまったのか、他の道はなかったのか、でも本人たちがそれを望んでいるのなら仕方ないし、、いや、これは事務所が意図的に解散させたのでは?!、、と、もはやどうすることもできない虚しさと憤り、絶対的であった存在が崩れてしまったことで、私の生きる糧がひとつ、失われました。

色々な思いが交錯する中で、文章を書きつつ、自分の人生も振り返りながら、SMAPに対する想い消化し、信者として、彼らに感謝を述べようと思います。

私が10歳の時SMAP×SMAPは始りました。その当時は、猛烈にファンといったわけではなく、レンタル屋で借りたSMAPのアルバムを普通に聴く程度でした。この頃、ロンバケが大ヒットし、森君が脱退しました。スマスマを通し、SMAPが気になっていきました。私が塾に通い始めたのもこの頃です。しかし、この頃は木村拓哉に対してアンチでした。ロン毛でチャラチャラした男だな、と小学生ながら感じていました。

12歳、中学受験真っ只中です。そんな中、友達のお母さんに、ライブに行きたいからSMAPのファンクラブに入って欲しい、と言われました。自分で入るには恥ずかしいとのことで。ファンクラブに入り、広島公演のライブに行きました。人生初めて、ライブという空間に行きました。これまでに聞いたことのない爆音と派手な演出、そして圧倒的なSMAPのオーラ。今でも鮮明に覚えています。アンチのはずだった木村拓哉のオーラが凄すぎて、この日を境にSMAPと木村拓哉が猛烈に好きになりました。よりキモい表現をすると、本気で誰かを好きになる、ということを実感したのが木村拓哉氏。SMAP教を信仰しだしたと同時に、SMAPも夜空ノムコウの大ヒットとともに、圧倒的な存在へと駆け上がって行きました。初めで自分で買ったCDも「夜空ノムコウ」です。

「SMAP×SMAP」をオンタイムで22時から見たい!!!塾に通っていた私は、月曜日のテストの直しが終わらなないと帰れなかったのですが、SMAPを見たい一心で、勉強し、早くテストの直しを切り上げ、スマスマを見ていました。受験当日も、精神の安定のため、自分が好きなSMAPソングだけをセレクトし、オリジナルアルバムを作り、そのカセットを聞きながら受験会場に行ったのを覚えています。小学生の時の卒業文集には、特になりたい将来の夢が当時無かったので、SMAP会いたいという理由で「フジテレビに入社したい」と書きました。

SMAPの支えから、無事受験を終え、希望の学校に入り、ギターが弾ける部活に入りました。ギターを始めたのも、拓哉が弾いていた夜空ノムコウのフレーズが弾きたいから、拓哉とより同化したい!、というキモい理由からです。ギターは今でも私にとって大事な楽器となっています。そんなギター部活の大会の当日か翌日、拓哉結婚が発表されました。愕然としながらも「拓哉が選んだ人なのだから仕方ない、拓哉の幸せを祈ろう」、と自分に納得させ、その衝撃を乗り越えました。

希望の学校に入ったにもかかわらず、学校が面白くなかった私は、1年に1回のSMAPライブで本人たちに会う、のみを生きがいに、365日生きていました。広島公演がない場合は、大阪や福岡まで出向いて、ライブを見に行きました。SMAP教信仰は増していき、ポスターという宗教写真を壁に貼るのはもちろんのこと、当時出版されていた雑誌、テレビはほぼ全部チェックしていました。だいたい写真を見ると、「あ、これは、何月号の何の雑誌で出てたやつだよね」と言い当てられるレベルの信仰ぶりです。彼らのインタビューを読む中で、SMAPと拓哉哲学を学び、「私も何かを表現していく人間になりたい、グループで一緒に何か作っていく人間になりたい」と、その当時から漠然と思い描くようになりました。

SMAPを追っかけていた最中、SMAPのアルバムをデザインした佐藤可士和さんの特集番組、トップランナーに巡り会いました。世の中にこんな楽しそうな仕事があるのか!!!と。そして、デザインを学ぶだけで卒業できる、そんなチャラチャラした美術大学ってのがあるのか!!と。クリエイディブな仕事に就きたいと思っていましたが、それが何か、まだ決めかねていました。が、この時、デザイナーになろう、と決意しました。16の時です。単純な私は、SMAPに近づきたいがため、佐藤可士和さんが卒業した多摩美術大学に行って、SMAPのデザインをしている佐藤可士和さんに会おうと決めました。

美大受験を無事終え、念願の多摩美に入ることになりました。広島から、SMAPが呼吸している東京に上京し、「あー、ロンバケの瀬名くんみたいな人が転がってこないかな」と無意味に妄想しながら、東京で暮らし始めました。東京に行けば瀬名くん宅のような家に住めると思っていたのですが、まもなくそれはかなりセレブで難しいことがわかりました。もちろん、佐藤可士和さんにもお会いしました。テンパっていたので、何を言ったのか私も具体的に覚えていませんが、結構キモいことを伝えた後「頑張ってくださいね」と言われたのを覚えています。

SMAPも吾郎ちゃんが捕まったり、ツヨポンが捕まったり、幾度となく危機はありました。私も大学卒業後、ニートになったり、病気になったり、幾度となく、人生の危機がありました。何もかも、人生どうしようもなくうまくいかないときは、ロンバケを見ながら瀬名くんの

「ほら、あるじゃん、何やってもうまくいかない時。何やってもダメな時って、ね。そういう時は、なんて言うのかなあ、言い方変だけど、神様がくれたお休みだと思ってさ、無理して走らない、焦らない、頑張らない。・・・・自然に身をゆだねる。」

という言葉を支えに、自然に身をゆだね、生きていました。

気づけば、数々の困難を乗り越え、私もデザイナーとしてご飯を食べれるようになっていました。そして今は、ベルリンに渡り、異国で生活しながら、デザイン業をしています。デザインをしている時に何か迷ったり、ブレそうになったときは、久利生公平哲学を思い出し、制作しています。(久利生公平哲学についてはこちら。)

そんなこんなで、今年の1月、久々仕事で東京に一時帰国した翌日、まさかのSMAP解散報道!!せっかく日本に戻ってきたのに、こんな悲しい報道を聞くなんて。。今まで幾度となくあった解散騒動とは違い、かなりシリアスな内容に凹みました。そして、私が2年10か月とお世話になった会社を退社した翌日に、まさかのSMAP解散決定!!!ナントぉーーーー!!!

私も自分が今やりたいことを全力でやるために、退社し、前を向いて、ピンとして新たな人生を歩もうと決意したのと同時に、SMAPも解散し、それぞれ個人として新たな人生を歩む模様です。

「SMAPと私の人生はシンクロしている。」

SMAP信者として私は、SMAPソングを聖歌のごとく聞き、SMAPから発言される言葉は御言葉として、カラダに染み込ませ、自分の人生に反映し、生きてきた思います。私の色々な節目や迷いに、ふと寄り添ってきた、SMAP。何度勇気づけられ、笑い、支えられてきたことか。SMAPがいなかったら、私は違う人生を歩んでいた気がしてなりません。このような体験をしたのは私だけでなく、おそらく、多くのSMAP信者が、同様な体験をしてきたことと思います。

信者としては、SMAPはストーンズのように、60も70歳にもなっても踊っている、アイドルおじさんとしていて欲しかったです。けれど、彼らがもう活動が嫌で、楽しくできなら、どうしようもならない。信者は、艱難辛苦な神を見たくない。でも、いつか、イエスキリストのように、復活してはくれないだろうか。

私もSMAPも、これから次の道へ歩んでいきます。SMAP神に感謝。そして長い間お疲れさまでした。信者として、今後もピンでの活動を応援していく所存です。この想いが彼らに伝わり、いつか、どうか、わたしも偉くなって、ピンとして一緒にお仕事できることを祈ります。最後、大好きなオレンジの歌詞を掲載します。

人波の中でいつの日か偶然に
出会えることがあるのならその日まで…
「さよなら。」僕を今日まで支え続けてくれたひと
「さよなら。」今でも誰よりたいせつだと想えるひと
そして
何より二人がここで共に過ごしたこの日々を
となりに居てくれたことを僕は忘れはしないだろう
「さよなら。」消えないように…
ずっと色褪せぬように…
「ありがとう。」

オレンジ
歌:SMAP
作詞:市川喜康
作曲:市川喜康

#SMAP #エッセイ #デザイン





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